よく「他人は他人、自分は自分」と言葉を耳にする。
なぜこういう言葉が聞かれるのか?
それは「人間はどこまで行っても個の存在」という世間の思想があるから。
つまり「形の見えるものにしか価値を見出さない」という考え方が根元にあるからだ。
だが、実際問題は違う。
他者があっての自己であり、自己があっての他者でもある。
して、それらを束ねているのが、この世界ということになる。
従って、我々あっての世界であり、同時に世界あっての我々だ。
まあ、この説明は後にまわすとして…
では「運」はどうなるのか?
ある大金持ちの人が言うに、運とは早く流れているものだという。だから「運勢」なんていうらしい。運勢を引き寄せたければ、仕事をするにしても勢いをつけて速くすれば良いそうだ。
一方で、逆の考え方もある。運とはゆったりしているものという。だから「運気」なんていうらしい。運気を引き寄せたければ、何事にもゆったりと腰を据えたほうが上手く行くという。
なるほど、引き寄せねえ…
昨今は、ジョセフ・マーフィーの影響なのかどうかは知らんが、何でもかんでも「引き寄せ」とか「引き寄せの法則」なんて言葉が流行っている。そんなものは「幻想」だ。
「人間原理」というものがある。
間単に言えば「人間という存在があるから宇宙も存在出来る」という科学的な思想だ。
そういえば、谷川流氏の小説「涼宮ハルヒの憂鬱」でも人間原理について語られている場面がある。タクシーの中で部活仲間の男子高校生・古泉一樹が同じく男子高校生の主人公・キョンに説明しているのだが、キョンの反応は「そんな勝手な理屈があるか? 人間が生きていようがいまいが、宇宙は宇宙だろ!」だった。
この人間本位な考え方も、実はこれまで行われてきた宇宙観測の事実に裏づけられている。もしも、この宇宙の実態、宇宙を支配する物理法則、重力定数、粒子の質量比など、どれでも少しの違いがあったのなら人類の誕生もなかったという。つまり、ありとあらゆる物的事実が、現在の我々が存在するに都合の良い条件として全て備わっているということである。
だから人間原理を主張する科学者も出てきたのだ。
一方で、キョンのような否定派もいる。
当然ながら、人間原理は科学的権威者の間でも論争の的になっているのだが
こんなものは「ニワトリが先か? 卵が先か?」と言っているようなものだ。
真理は、何年か前の吉本新喜劇でチャーリー浜氏が言った台詞にある。
「やあ、君たち!」
威勢よく連中に声を掛ける浜。で、呼ばれた全員が浜のほうを振り向く。
「君たち!(トーンが上がる)……がいて、ぼくがいる(トーンが普通からやや下がる)」
という台詞を淡々とかまして、そそくさと去って行く。連中は全員コケる。
要はこういうことである。
人間が存在するから宇宙も存在出来るのなら、宇宙が存在するから人間も存在出来るのだ。つまり、宇宙と人間は同じものであり、この世界も他者も自己も同じだ。
ところが人間とは勝手なもので、自己の身体こそが独立した自分だと思い込んでいる。
空気が無くなれば我々は息が出来なくなる。
水が無くなれば我々は生きていけない。
火を起こさなければ我々は生活が出来なくなる。
大地が無くなれば我々は宇宙の放浪者となる。
どれが欠けても、我々は存在を失うのだ。
従って、人間は宇宙の一部であり、宇宙自体でもあるともいえる。
なので、世の中には「情けは人の為ならず」という諺(ことわざ)があるが、まんざらデタラメではなかった訳だ。ちゃんと理にかなっており、行為には相応の償いが用意されている。
他者を傷つければ自己も傷つける。
環境を汚せば、自己も汚す。
同じだからね。
従って「運」もまた、我々と同じものであり、宇宙の法則によって流れている。むろん、我々人間は、その宇宙の法則なるものを解明出来る訳ではないが、それは重要ではない。
全ては「成り行き」であることさえ解っていれば、それでいいのだ。
だから、我々が運に恵まれようと思うのなら、成り行きに任せておけばいい。
成り行きに任せ、無闇やたらに「欲しがらない」ことだ。
「欲しがるものは逃げる」のであり「欲しがらなければ向こうからやってくる」のだ。
で、やってきたものに対して君自身が「ツイてる!」と思うのか?
或いは「全然ツイてねえや!」と思うのかは、それこそ自由だ。
但し、これだけは確実に言える。
本当に必要なものなら、例え捨てたとしても、またやってくるのである。