名前は「アン・ピガール」。
南フランス生まれのアンは5歳からパリに移住。シャンソンの女王・エディット・ピアフから多大な影響を受け、「いつかわたしもピアフのように歌いたい」と強く願う。
以降、13歳でバンド活動をしながら年月が流れる。次第にこの若き歌姫の評判はフランス中に広まって行った。そして彼女は、更なる飛躍を求めて
海を渡った…
辿りついたのはロンドン。
アンは、この未開の地で鬼才ニック・プリタスと出会うのだが、それが今後、彼女自身の音楽人生を大きく左右するものになろうとは、まだ想像がつかなかった。
アンは、ニックの作曲家としての才能を高く評価していた。
ニックもまたアンの歌声に一定以上の興味を示していた。
そういった経緯があり、この二人は「ヴィア・ヴァガボンド」というデュオを結成。
音楽活動を続けて行く中、二人の関係はバンド仲間から特別な関係へと発展して行った。
ニックはバンドとは別に、自分の書いた数曲をアンにプレゼントする。
それは、ソロ・デビューを夢見る歌手に対しての行為なのか?
或いは、個人的な感情から芽生えた恋人に捧げたものなのか?
真相は定かでないが、アンはニックに書いて貰った曲を元にデモ・テープを作成。
各レコード会社に売り込みをかけた。
しかし現実は厳しかった。
毎日、朝から晩まで歩き回るものの、どのレーベルからも断られる。
売り込みを始めた頃は山のようにあったレコード会社のリストも次第に減って行く。
そして、月日だけが虚しく過ぎ去っていった。
「とうとう残り1社だけになってしまったわ」
ZTT
リストに残っているのは、この奇妙な名称のレーベルだけだった。
(今度こそ、今度こそ縁がありますように…)
アンは、ただただ祈るばかりだった。
ZTTレーベルは、嘗てエレクトロニック・ポップバンドの「バグルス」やプログレッシブ・ロックバンドの「イエス」で活躍していたプロデューサー トレヴァー・ホーンが、妻でありビジネス・ウーマンでもあるジル・シンクレア、エンジニアのゲイリィ・ランカン、それに音楽ジャーナリストのポール・モーレイらと共同で1983年に設立した新参レーベルだった。
ZTTに所属するアーティストの特徴としては、電子音楽を駆使した攻撃的なサウンドを展開するタイプが多く、それをトレヴァーやそのスタッフの手によって奇抜に加工されたサウンドがレコードとしてリリースされている。だから、自分自身の歌でじっくり聴かせるタイプのアンにとっては、限りなく契約の可能性が低いレコード会社だった。
ところが判らないものだ。
アンの願いが通じたのか、何とZTTが契約を結んでくれたのだ。その決め手になったのは
『(ZTT広報の)ポール・モーレイが(デモ・テープに入っていた音楽を)気に入った』
ただ、この一点のみだった。もっとも、ポールが評価していたのは「ヴィア・ヴァガボンド」としてのものであり、歌手のアンよりもメロディ・メーカーとしてのニックに目をつけていた。
だから、ニックに契約の話があったのだが、彼は断った。
どうやら他人の所有物になるのが嫌だったらしい。
そこで、アンに白羽の矢が立ったのである。
アンはニックの元を離れ、ZTTに所属した。
しかし、レコーディングは予想以上に難航した。
プロデューサーとアンがアレンジの方法を巡って対立が絶えなかったからだ。
トレヴァーもこの件については頭を痛めていたことだろう。
それもそのはず。
サウンドの加工を得意とし、大衆にインパクトを与えようとするZTTと
純粋に歌を聴いてもらいたいというアンの思惑が合う訳なかった。
アンにとっては、ニックがくれた大切な歌だという想いもあったのかも知れない。
それでも、何とか年月をかけてレコードが完成したのである。
電子的にならず、ジャズやシャンソンの匂いを漂わせ、時には退廃的に変化する。そんな生々しい歌が最大限に引き出された完成度の高さは「さすがZTT」と思わせるものだった。
アンは、ヴィア・ヴァガボンド時代の曲「Why Does It Have To Be This Way...」でレコードデビュー。
そして、1985年には待望のデビューアルバム「Everything Could Be So Perfect...」をリリース。アンが作曲した「Looking For Love」以外は全てニックが手がけたナンバーだった。特に4曲目「He! Stranger」は、日本でも車のCMソングに使われた名曲。
ここに「80年代のエディット・ピアフ」が誕生したのである。
アンは、その後ツアーを敢行しながら知名度を上げていったが、以降はピタッと姿を消してしまった。なので「Everything Could Be So Perfect...」は、最初で最後のアルバムになった。
ただいえることは、アンは現在でも音楽活動をやめていないということだ。
音楽で成功を夢見たフランス人女性がいた。
名前は「アン・ピガール」。
彼女は今でも歌を愛しており、その声は我々の中にも永遠に生き続けるのである。
■タイトル曲 / 収録アルバム
He! Stranger / Everything Could Be So Perfect...
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