こやじのアメフト談義 ~悔いなきフィールドへ -172ページ目

アメフトするための受験!

どうしても親父と兄が通っていた。


名門“関西学院”に中等部から桜入学し、


そのまま大学までアメフトがしたかったので


小学校5年から毎週2回電車電車で


1時間時計掛けて塾に通い、猛勉強しましたが


    残念ながらガーン不合格!!


第一の夢は、もろくも消し去っていきました。


当時は、今と違いあまり塾に行く子は、

            いませんでした。



小学校でアメフト!

僕が通っていた小学校は、

大阪府豊中市で一番古い小学校学校でした。



こやじのアメフト談義 ~悔いなきフィールドへ-小学校

普通、休み時間ドッチボールバレーが当たり前でした。


しかし、5年生ぐらいから僕のクラスだけ

アメフトのおもちゃのゴムボール(20cmぐらい)を使い、

タッチフットボールをしていました。

当時、小学校で

タッチフットボールなんてしている人は、いませんが流れ星


アメフトが大好きチョキだったのでみんなに

       ルールを教えながらやっていました。


何日か経つと他のクラスもいっしょにやることになり、


メラメラ「クラス対抗タッチフットボール大会」メラメラ

               開催されるまでに・・・


高校生の時、あれだけ野球野球少年だった子が、

アメフトをしているのを発見ひらめき電球し、


もしかしてあの時の・・・

            と得意げ嬉しくなりました。


アメフトとの出会い

我家は、親父と兄が

関西の名門“関西学院”ドンッアメフトアメリカンフットボールしていました


親父は、まだアメフトの道具が

革製品の時代叫びにプレイしていたので


日本でもアメフトしている大学学校

指で数えるぐらいしかありませんでした。


こやじのアメフト談義 ~悔いなきフィールドへ-親父学生時代写真



※写真○印が親父で主将を務めていました。
 あだ名は「ポッポ」で汽車のように突進していくのでそう呼ばれていました


そんな家に産まれた末っ子は、

将来アメフトをする道スポーツがすでにひかれていたわけです。


リーダーシップのある亡き親父は、僕が一番尊敬する人です。