(本好きな)かめのあゆみ -9ページ目

(本好きな)かめのあゆみ

かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

矢吹丈から望んだカーロス・リベラとのスパーリング。

カーロスが本気の片鱗を見せたが

ロバートに止められる。

カーロスとロバートが出て行った後に

白木葉子お嬢さまが矢吹丈に白い封筒を差し出す。

「はい これはスパーリング・パートナーを頼んだお礼」

「金なんぞいらないね 逆にこっちから払いたいくらいのもんさ

さあおっちゃん 帰ろうか」

「そうおっしゃるだろうと思って お金のかわりに招待券を入れておいたわ」

「カーロス・リベラ対原島龍」

「その試合で・・・・

もっと大きな勲章がほしくなる光景を見せつけられるかもしれないわね」

 

カーロス・リベラと矢吹丈のエキシビジョン4回戦。

激しく打ち合う二人。

ダブル・ノックダウン。

丹下段平のうっかりで矢吹失格。

失格を認めないカーロス。

そこで10ラウンドのメイン・エベントを提案する白木葉子お嬢さま。

「それにしても・・・・なんともはや おどろいたね あんたって人は」

「ときどき思いもかけないような運命の曲り角に待ち伏せしていて

ふいにおれをひきずりこむ・・・・」

「まるで悪魔みたいな女だぜ」

「迷惑だったかしら・・・・」

「迷惑なんかじゃない」

「その悪魔がおれの目にはヒョイと女神に見えたりするから

やっかいなのさ」

「へへへ・・・・それそれ そんなするどい目でにらむのはやめてくれ」

冷たい目でその様子を見ている林屋の紀ちゃん

 

丹下拳闘クラブを出た土手でばったりと紀ちゃんと出会った矢吹丈。

丈にあいさつがわりに玉姫公園に誘われ喜ぶ紀子。

公園のベンチで丈にサンドイッチを食べさせながら紀子が言う。

「矢吹くん・・・・もうボクシングやめたら?」

聞いていない丈。

「矢吹くんてば・・・・」

「なんだよ」

「もうボクシングやめたら?・・・・ってきいているのに」

「どうしてそんなことばかりきくんだい・・・・」

「だって・・・・このごろの矢吹くんを見ているとつらそうで・・・・」

「つかれているみたいよ 精神的にも肉体的にも」

「そんなふうに見えるかね」

「それだけじゃなくて・・・・あたし最近なんだかとてもこわいの」

「このまま矢吹くんがボクシングをつづけていったら

いつかかなしいめにあいそうで・・・・」

「拳闘はな」

「弱肉強食の世界さ」

「噛みつかなけりゃ噛み殺される」

「だからこっちとしちゃ必死で・・・・それこそ死にものぐるいで噛みつくんだ」

「だが・・・・あいての流した血にたいして--

とまってしまった心臓にたいして」

「ある負い目がのこるのもたしかだ」

「こいつはおれだけの感じかたかもしれないがな」

「なんの話・・・・?」

「まあ・・・・とにかく へんなたとえかもしれないが・・・・」

「人を殺したやつは死刑になるって掟が世間にあるように」

「まがりなりにも拳闘の世界で血を流しっこして

生きてきたからには・・・・」

「いまさらちゅうとはんぱなかたちで

つかれただの拳闘をやめたいだのってぜいたくは

いえねえような気がするんだよ」

「死んだ力石にたいしても・・・・

あごの骨をくだいて再起不能にしたウルフ金串に対しても--」

「それと こんどの廃人になっちまったという

カーロス・リベラにたいしても・・・・さ」

「そんな・・・・」

「矢吹くん考えすぎよ」

「だいいちボクシングはスポーツなんでしょう」

「スポーツに負い目だの死刑だのって感覚が

すでにおかしいわ!」

「だからさっきおれだけの感じかたかもしれねえって

ことわったろ」

「よそうぜ もうその話は」

その後、喫茶店や街を散歩し

夜の川沿いにたたずむふたり。

「矢吹くんは・・・・さみしくないの?」

「同じ年ごろの青年が海に山に恋人とつれだって

青春を謳歌しているというのに」

「・・・・」

「矢吹くんときたらくる日もくる日も

あせとワセリンと松ヤニのにおいがただよう

うすぐらいジムにとじこもって

なわとびをしたり柔軟体操をしたり

シャドー・ボクシングをしたり

サンドバッグをたたいたり」

「たまに明るいところへ出るかと思えば

そこはまぶしいほどの照明に照らされた

リングという檻のなか--」

「たばこのけむりがたちこめた試合場で

よっぱらったお客にヤジられ

ざぶとんを投げつけられながら

闘鶏や闘犬みたいに血だらけになって

なぐりあうだけの生活・・・・」

「しかもからだはまだどんどん大きくのびようとしているのに

体重をおさえるために食べたいものも食べず

飲みたいものも飲まず」

「みじめだわ 悲惨だわ」

「青春と呼ぶにはあまりにもくらすぎるわ!」

「ちょっとことばがたらなかったかもしれないな・・・・」

「おれ 負い目や義理だけで拳闘をやってるわけじゃないぜ」

「拳闘がすきだからやってきたんだ」

「紀ちゃんのいう青春を謳歌するってことと

ちょっとちがうかもしれないが」

「燃えているような充実感は

いままでなんどもあじわってきたよ・・・・

血だらけのリング上でな」

「そこいらのれんじゅうみたいにブスブスとくすぶりながら

不完全燃焼しているんじゃない」

「ほんのいっしゅんにせよまぶしいほどまっかに燃えあがるんだ」

「そして」

「あとにはまっ白な灰だけがのこる・・・・」

「燃えかすなんかのこりやしない・・・・」

「まっ白な灰だけだ」

「そんな充実感は拳闘をやる前にはなかったよ」

「わかるかい紀ちゃん

負い目や義理だけで拳闘をやってるわけじゃない」

「拳闘がすきなんだ

死にものぐるいで嚙みあいっこする充実感が

わりとおれ すきなんだ」

「矢吹くんのいってること・・・・

なんとなくわかるような気がするけど」

「わたし ついていけそうにない・・・・」

「さてと・・・・そろそろ帰らなくっちゃ」

「家で心配してるだろうし

お店もてつだわなくっちゃ・・・・」

「トマトのサンドイッチ うまかったよ・・・・

おやじさんや西によろしくな」

「また差し入れもってジムへあそびにいくわね」

「さようなら」

去っていく紀子を見送る丈。

 

テレビ関東のパーティーで

白木葉子お嬢さまと会った矢吹丈。

「あら 矢吹くん・・・・一滴も飲まないの?」

「ああ」

「いまほしくない」

「アルコールはだめでもごちそうなら

すこしくらいいいんでしょう

矢吹くんはバンタム級として

理想的なウエートだし」

「減量の心配なんかすこしも・・・・」

「けっこう」

「いまはなにもほしくないんだよ ほっといてくれ・・・・!」

「矢吹くん・・・・すこしふとったんじゃない?」

「いいえ ふとったというより

なにかこう ひとまわり大きくなった・・・・

というかたくましくなったというか」

「気のせいだろう・・・・」

「・・・・」

 

パーティーを抜け出した白木葉子お嬢さまと矢吹丈。

「なぜ ホセ・メンドーサがあなたの前に

あらわれたのか知らないけど・・・・

なんにしても わたし あのとき

ゾッとしたわ」

「矢吹くんを 遠くへ つれていこうとする

死に神のように見えて・・・・」

「死に神ってのは おれの あだ名だぜ・・・・」

「死に神が 死に神を つれていくってのか」

「ちゃかさないで まじめに話してよ」

「矢吹くんを見ていると 

死を自覚した手負いの野獣が

ただ ひたすら

死に場所をさがしもとめて

さまよっているみたいで・・・・」

「こわいのよ・・・・とても」

「いつか この店で おれにいったことと

反対のことをいってるようだな」

「あんたはおれをつかまえて

リングで死ねといったんだぜ

もうわすれちまったのかい」

「矢吹丈は

ウルフ金串だの

力石徹だのに

神聖な負債がある

罪ぶかいボクサーなんだから

リングの上で 死ぬべきだ・・・・と」

「やめてよ

もうその話はやめて」

「帰るよ・・・・」

「あまり おそくなると

あしたのトレーニングに

ひびくからな」

「送っていくわ」

「いいよ まだ電車のある時間だ」

「じゃ またな」

 

矢吹丈の成長に伴いウエートが増えていることを知った

丹下段平が丈にバンタム級からフェザー級への転向を薦める。

「おっちゃんよ・・・・」

「このさい はっきりことわっておくが

バンタムというところはな」

「バンタムというところは

あの力石徹が

命をすててまで」

「おれとの 男の勝負のために

フェザーからおりてきた場所なんだ」

「それでなくても

リミットぎりぎりだったっていうのに」

さらに一段

おりてきてくれたんだぜ」

「いまのおれの減量苦なんぞ

比じゃねえ

それこそ 地獄の底を

のたうちまわる苦しみだったろう」

「ちょっとくらいつらいからって

サヨナラできるかよ」

「生涯の敵

生涯の友との

古戦場

バンタムによ」

「・・・・」

「し・・・・

しかしジョー・・・・」

「まあいい

今夜はもう

くだくだとからんでもらいたくねえ」

「ひとねむりしたいんだ」

「あした また会おう・・・・」

「おれはこっちで寝るよ」

「古戦場か・・・・」

「てこでも動くまいのう

力石という名が減量の理由では・・・・

・・・・」

 

対戦直前の計量をなんとか済ませ

ようやく軽食を口に含むことができる矢吹丈。

丹下段平が席を離れたところにやってきた金竜飛が

自らの壮絶な経験を語る。

「それがいま

わたしのマネージャーをやっている

玄曹達大佐との出会いだったが・・・・」

「・・・・

・・・・」

「まあそれはともかく・・・・だ」

「わたしは

いくら知らなかったとはいえ

ほんのわずかな

ひとにぎりの食料のために

自分の父親をいしでたたき殺した男さ

父親の血で

手をまっかによごした男さ

・・・・ふふふ」

「それからというものは

一度も満腹したことがないから

胃ぶくろは

ちいさく

ちいさく

ちぢこまるいっぽう」

「おそらく

子どもなみだろう

許容量がきまってしまい

なにを食ってもすぐに満腹してしまう」

「したがって

血となり肉となる

消化量もきまり

体重増加の心配など

したくともしようがない・・・・」

「減量苦だと?」

「はっ そんなもの

わたしにいわせるなら

すくなくとも

過去に腹いっぱい食った時期があり

だらしなく胃ぶくろをひろげてしまったやつの

ぜいたくさ」

「ボクシングの世界は弱肉強食だって?」

「ノーノー ままごとだよ」

「ままごとなればこそ

わたしはいくらでも冷静におちついて・・・・

・・・・しかも

徹底して残酷につめたく最後まで

リングをつとめることができる」

「グローブや安全なルールで保護された

なぐりあい程度で

富や名声が

手に入れられるなら

実際 そんなもの

おやすいご用ってところだ」

「ボクシングは

じつにのどかな

平和な世界なんだよ

わたしにとっては・・・・」

「わ・・・・

わかったぜ・・・・

氷の男と呼ばれる意味が・・・・」

「戦うコンピューターといわれる

秘密の意味が・・・・!」

「なんの まだまだ・・・・」

「三時間後

ゴングが鳴ったそのときこそ

はっきり身にしみて

わかってもらえよう」

「では

ハングリー・ボクサー

・・・・

ではない」

「ただの体重調整のへたくそな

満腹ボクサーよ

それまで ごきげんよう」

「やはりたんなる

コンピューターボクサーではなかった・・・・」

「金竜飛は・・・・!」

 

金竜飛戦の第2ラウンド終了後

はやくも苦しい状況に追いつめられる矢吹丈

「そうさ・・・・」

「あいつにとっちゃ こうやって

スポンジの入ったグローブで保護された程度の

なぐりあいは・・・・

じつにのどかな 平和な世界なんだ・・・・」

「いずれにせよ 少年院あたりで

つまらねえ意地や

体面のためにやってきた

ケンカボクシングの」

「そんな程度がおよぶ境地じゃねえ・・・・」

カアアーン(第3ラウンド開始のゴング)

「およぶ境地じゃねえ・・・・」

「ど・・・・

どうした ジョー

ゴングがなったんだぞ」

「ジョー・・・・」

「勝てっこねえ・・・・」

 

第3ラウンド

金竜飛の猛ラッシュに

2度目のダウンをした矢吹丈が立ち上がる

「ま・・・・また 立っちまった・・・・」

「な・・・・ぜ」

「なんだっておれは立つんだ・・・・」

「なんのために・・・・

・・・・?」

 

第4ラウンド

にらみ合う矢吹丈と金竜飛

「どうした ジョーッ

ぼやっと みてるんじゃねえ

さっさと先制攻撃かけねえと

のこりすくない

おめえのスタミナは

切れちまうんだぞっ」

「ス・・・・

スタミナなんか」

「最初っから ねえんだい・・・・」

「あるのは・・・・」

「どういうわけか」

「どういうわけか

こいつにだけは

死んでもまけちゃならねえという」

「へんな意識だけだっ・・・・」

「なぜ そんな気になるのか

わからないが・・・・」

「なにしろ・・・・」

「どうあっても

負けられねえんだっ」

 

第5ラウンド

白木葉子お嬢さまが見守る中

金竜飛の舞々(チョムチョム)の前に

またもやダウンする矢吹丈

しかしまたもや立ち上がる

「ま・・・・

・・・・また

また

・・・・立っちまう・・・・」

「な・・・・なぜ

おれは立つんだ・・・・?」

「いったい・・・・

なんのために・・・・?」

「なんのために・・・・」

 

第5ラウンド終了後

丹下段平に白木葉子お嬢さまが問いかける

「なぜ

タオルを

投げないのです

丹下会長・・・・!」

「お・・・・

おじょうさん・・・・」

「なぜ こうまでして戦わせるんです」

「力石徹をわすれたの」

「力石・・・・」

「力石くんは

むりな減量を重ね

はげしい打撃戦をくりかえしたあげくに

死んでしまった」

「矢吹くんも いま

その同じ道を

歩んでいるんです

あなたがたは 矢吹くんを

死に追いやるつもりなのね・・・・!?」

「・・・・」

「お・・・・」

おじょうさんに

いわれるまでもなく・・・・」

「いまや はっきり限界が

見えました

もう 棄権させますよ」

「へ・・・・へ

棄権なんぞしてみやがれ・・・・」

「おれは いま

すぐ この場で

拳闘界から

足をあらうぜ・・・・!

おっちゃんと」

「そこにいる

したり顔の

でしゃばり女を

たたっ殺してな・・・・」

「矢吹くん・・・・」

「うせろよ・・・・」

「男が男なりに

なにかをやろうとしているときに・・・・

そういうところへ

いちいち女がしゃしゃり出てくるんじゃねえ」

「うせろってんだあっ」

白木葉子お嬢さまに水をぶっかける矢吹丈

 

第6ラウンド開始

「力石・・・・

・・・・」

「力石と

おなじ道

・・・・か」

「そうだ・・・・」

「力石も

飢えていたんだ・・・・」

「力石も

飢えていたんだよ・・・・」

「おれは この金竜飛が・・・・」

「飢えのために

父親を 石で

たたき殺した

という話を

レストランできかされてから・・・・」

「それから・・・・」

「そ・・・・その

くぐってきた

地獄のでかさに

あぜんとし・・・・」

「こっぴどく

劣等感をうえつけられちまった・・・・」

「減量のへたくそな

満腹ボクサーが・・・・」

「あの

偉大なる

金竜飛に

勝てるわけがねえ・・・・と

そう すっかり

思いこんでしまったんだ」

「しかし なにか・・・・」

「なにかひとつ

この金には

屈服しきれないものがあった・・・・」

「そ・・・・そのなにか・・・・とは」

「あの 死んだ

力石徹も

飢え かわいていたという

事実だっ・・・・」

「ひとにぎりの

食料のために

親を殺した金は

まだしも 水だけは

ガブ飲みできたろうが・・・・」

「力石は

「水さえ」も

飲めなかった・・・・!」

「しかも 金は

「食えなかった」

んだが

力石の場合は

自分の意思で

「飲まなかった」

「食わなかった」

・・・・!」

「力石徹は

男の戦いをまっとうし」

「おれとの

きみょうな

友情に

殉じたっ!」

「なんのことはねえ・・・・

死の寸前の飢えが

なにも絶対じゃねえ」

「みずからすすんで

地獄を克服した男がいたんだ!

おなじ条件で!」

「人間の尊厳を!

男の紋章ってやつを!

つらぬきとおして

死んでいった男を

おれは身近に

知っていたんじゃねえかっ!!」

「金竜飛よ・・・・」

「おまえは

力石におとるんだ・・・・」

「おまえは・・・・」

「自分だけが

たいへんな地獄をくぐって

きたかのように思いこみ・・・・」

「しかも そいつを

自分の非情な

強さとやらの

よりどころにしているようでは・・・・

なあ」

「はっきり

力石におとるぜ!」

「いままでは・・・・」

「いままでは

ついつい

ごたいそうなものみてえに

錯覚しちまっていたが・・・・」

「このさい

力石以下のおめえさんに

負けたとあっちゃ」

「かれに

たいして

なんとも」

「もうしわけが

たたねえんだよおお~~っ」

 

ついに金竜飛を倒した矢吹丈

駆け寄る丹下段平をよそに

白木葉子お嬢さまを探す

「よ・・・・

ようやったジョー

ようやったっ・・・・」

「葉子はどこへいった・・・・」

「ああ?

葉子はどこだっ・・・・」

 

東洋チャンピオンになった矢吹丈の祝いにかけつけた

西と紀子。

丈が留守だということで立ち去ったが

そのふたりの去る姿を見送っていた丈に丹下段平が言う。

「おめえも・・・・

気がついていたとは思うが」

「最初は

紀ちゃんも

おめえのほうに

思いをよせていたんだぜ」

「ところが

おめえときたひにゃ

朝から晩まで

拳闘 拳闘で

まったく見むきもしねえ」

「さびしい紀ちゃんが

フッと気がついたら

身近なところに西がいた・・・・

おめえだって知ってのとおり

西だって気だてのいい男よ」

「林屋のだんなもおかみさんも

いまじゃすっかり 西をたよりにして・・・・」

「ことわっとくが

おれは

ふたりのことを

べつに どうこう思っちゃいねえよ」

「まあ いってみりゃあ

世間にゃ

男には女が

・・・・

女には男が

おたがい

はいてすてるほど

いるってこった」

「しかしな」

「ホセ・メンドーサは

世界に たったひとりきりしかいねえ・・・・!」

「力石や

カーロス・リベラが

そうだったように・・・・

・・・・な」

その後しばらくして矢吹丈はとつぜん意識を失う。

 

医者に栄養剤を射たれかけた矢吹丈が逃げていく。

丹下段平が追いかける。

「やっぱりここかい・・・・」

「まったくおめえってやつは・・・・

いったいぜんたい」

「きょうさ」

「葉子んところへ

顔を出してきたぜ」

「ちょうど力石の墓の花を

かえにいくところだっていうから

ちょっくら護国寺までつきあってよ」

「ちっぽけだが

きれいに手入れのいきとどいた

みかげ石の墓が

ポツンとあったよ」

「おめえが葉子さんをたずねるなんて

・・・・めずらしいこともあったもんだ」

「まあな・・・・」

「対金竜飛戦のときに

あのリング下からの金切り声が

力石の存在を思い出させてくれたんだし」

「衆目のなかで

水をぶっかけちまったってことが

ちょいときになってたからな・・・・」

「ふむ」

「まあ

なんだかんだいうても

葉子さんはおめえのことを

気にかけてくださってるんだ

東洋のタイトルをとったことを

さぞ よろこんでくれたろう」

「なあに

そんなこたあ

あの女にとっちゃ

どうだっていいことさ

墓まいりがすんだら

さっさと海外旅行へ出かけちまったよ」

「海外?」

「日本はまだ寒さがきびしいから

じいさまといっしょに

南米だとかハワイだとか

あったかいところを

まわってくるんだとさ」

「けっこうなご身分だよ」

 

 

 

 

 

--あしたのジョー--

高森朝雄

ちばてつや

岸井ゆきのさんが朗読する

オーディオブックのために書き下ろされた短篇集。

 

じわじわとこわい春のある場面。

 

いまとなっては

コロナの初期の不穏な気配は思い出すのも覚束ないが

まさか2年半後のいまこんな緩んで捻じれた感じになっているとは

想像もしていなかったな。

 

21世紀の感染症は最小のダメージで乗り越えてきた日本だから

まさかこんなことになるなんて想像してなかったよ。

 

危機は身をもって経験しないと実感できない愚かな人間。

 

それはさておき

感染症が広がって酷いことになっていても

日常は相変わらず営まれるわけで

日常とくればもちろんいろいろなごたごたはあって

サイコなホラーもそこここにある。

 

メディアで報道できる情報量は限られているので

感染症がなければニュースになっているはずのことが

あたかも存在しないみたいになっているけど

そんなことは当然なくて

ひと知れず

っていうか本人だけは知っている。

 

ぼくがいちばんこわかったのは

娘について。

 

親身になっているからといって

すべて受け入れられるわけではない。

 

努力していない素の魅力っていうのがあるのは事実だけど

それがそのまま評価されるのはどうも不当な感じがする。

 

恵まれない環境で努力する才能のある者は

えてして

恵まれている環境で努力をしない者を見くだす傾向がある。

 

恵まれている環境で努力をしない者が

報われない状態のときは

余裕のある慈悲の感情もわくが

運よく報われはじめるとたちまち恨みの対象になる。

 

この捻じれこの歪み。

 

巧妙な陥れ。

 

相手は気づいていなくても

自分の内面にあるこのこわさを自分は見逃してくれない。

 

川上未映子さんの作品は

内容とは無関係に

文章そのものが心地いいので

朗読にはうってつけだと思う。

 

 

 

 

ーー春のこわいものーー

川上未映子

読み始めてしばらくは

あまりにもふだん読んでいる文章と前提が違い過ぎていて

なんだこりゃ

という感じだったのだが

これはもしかすると新鮮な世界観と邂逅できるかもしれない

という期待を感じながら読み進めた。

 

じぶんの世界観の狭さ

言い換えると

じぶんが観ている世界は普遍的ではない

というのに気づかせてもらえる作品との出会いは幸福だ。

 

聖書の言葉を引用しながら書かれている19の文章。

 

聖書に対して従順なアプローチではないが

かといって冒涜しているというのでもなさそう。

 

そんなふうに生きてきたらこういうふうな世界になるのか。

 

芸術家とくに前衛のみなさんってそういうところあるよね

って括るのは乱暴だからぼくはしない。

 

無軌道で非常識な生き方だけど

常識を鵜呑みにすることに比べたら

全然信用できる。

 

自由なように見えて

無難な道を選ばないというのは

険しい日々だと思う。

 

どうやって生活が成り立つのだろう?

と疑問にもなるが

成り立っているわけだから

こういうのっていいよね。

 

エリイさんの出産にまつわるあれこれも独特だけど

かなり共感するところもあるので

つまり今の常識にお利口に従っているひとも

もちろん不満や疑問は抱えているんだろう。

 

夫との関係も

そりゃそういうのがいいよ

ってぼくなんかは思うけど

受け入れられないひともいるだろうから

やっぱり前衛的ではあるのだろう。

 

まあ

一見平凡なひとが

内面に前衛を抱えていることはよくあるので

見るからに前衛なひとが前衛な言動をしてくれるのは

わかりやすいといえばわかりやすい。

 

前衛も続ければ普通になっていく。

 

意識的に

前衛をしてやろう

というのはかっこわるくて

自分では自分の常識に従って言動しているだけだけど

他人からは前衛に見えているだけ

というのがかっこいい。

 

出産の話でいえば

凍結卵子へのアプローチは書かれていたけど

出生前診断には触れられていなかったので

エリイさんがどう考えているか興味があるけど

さすがにこれは部外者が立ち入れる問題ではない。

 

個人的には

出生前診断というのは

女性に葛藤を強いるシステムだと思うし

葛藤しないで良いような社会のコンセンサスが

できればいいなとも思うけど

まあ意見が割れるところなので

難しいよね。

 

こういう

ふだんは文章を専門にしていないけれど

文章を書いたら独特のセンスが表現される

っていうひとの文章を読むのはとても刺激的。

 

 

 

ーーはい、こんにちは Chim↑Pom エリイの生活と意見ーー

エリイ