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(本好きな)かめのあゆみ

かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

主人公の父の看取りに至る場面を読みたくて

久しぶりに手にとった。

 

上 先生と私

の中盤と

中 両親と私

のほぼ全編が父の看取り

というか家族の場面なので

そこを拾い出して読んだ。

 

こころ

といえば

下 先生と遺書

なのだが

ぼくは

家族と過ごす場面も結構好きで

こういうゆっくりとした看取りっていうのはいいな

と思うのである。

 

先生からすると

田舎の素朴さのなかに潜む悪

みたいなことなのかもしれないけれど

主人公の父や母や家族は

それほど悪いとは思えない。

 

先生のわかかりし頃の叔父の行為

つまり自分の娘と先生を結婚させようとすることさえ

現代の価値観からするとおかしいかもしれないが

それほど悪ともいえないような気がする。

 

そういう結婚でこそ幸せになれる現代人もいるにちがいないのに

むしろそれを否定されているせいで

幸せから遠のいてしまうこともあるだろう。

 

生活習慣に根差した健康さの価値。

 

それを田舎のしがらみや田舎者の無知として嫌悪するのもわかるし

わかいころはぼくもそう思っていたけど

頭ばかりで考えた人間観よりも

実際の生活を踏まえた人間観の方が

よほど理に適っていると思う。

 

読みながら

主人公の父の病が

腎臓の病であることに

奇妙な符号を感じた。

 

そんなこともあるんだな。

 

病の進行の描写もよくわかる。

 

どんなふうに看取るのかな

と思いながら読んでいたら

なんと

そうであったか。

 

っていうかもう何回も読んだことがあるはずなのに

忘れていた。

 

そのせいで

けっきょく最初から全部読むことにした。

 

エゴイスト

のほんとうの意味。

 

わがまま

っていうことじゃなくて

自分のために他者を犠牲にすることなんだよな。

 

どんなに親しい他者でさえも

いよいよという場面では裏切ったり出し抜いたりして。

 

先生はまず金の問題で田舎の叔父にだまされ

(じっさいに叔父にだます意図があったかどうかは不明で

当時の社会ならそう珍しくもないことかもしれない)

他人を信じられなくなった。

 

けれども自分だけは信じられるだろうと思っていたのに

その自分でさえも信じられないようなことをしでかしてしまった。

 

そうして人間全体が信じられなくなる。

 

先生の虚無的な生活態度はそういうことの結果である。

 

潔癖すぎるんだよな。

 

人間を買いかぶり過ぎだ。

 

人間ってそんなに理性的で自己制御ができる生き物じゃないのにな。

 

いや別に人間を愚かだといいたいわけではなくて

そんな不完全な人間であることを認めつつ

でも人間らしく生きていけばいいんだと思うんだけどな。

 

自分でもKに対して

人間らしさっていうのを強調していたのに。

 

いまなら先生のわかさゆえ潔癖さゆえの

不器用さがよくわかる。

 

頭だけで考えてへんにかっこをつけてないで

ある部分では素直に気持ちを表明した方が

人間関係はスムーズにいくのにな。

 

御嬢さんをめぐるKとのやりとりなんかは

いまのぼくからみると実に歯がゆい。

 

御嬢さんのお母さんのやろうとしていることもよくわかる。

 

それにしても

漱石のこの心理描写はじつに見事だと思う。

 

もちろん人間の心理なんて何百年も変わらないし

とくに嫉妬の感情なんてもっとも基本的なものだけど

100年前にこの心理描写を思いついたっていうのがすごい。

 

それにしても

上 先生と私

での先生のほのめかしは

ほとんど悪趣味であるといってもいいものだな。

 

奥さんはほんとに気の毒だ。

 

特にふたりにこどものいない理由を揶揄したところとか。

 

主人公に対する先生の接し方は

いかにも助けを求めているような感じで

ある意味かわいいとさえ思える。

 

いい大人なのにね。

 

でもぼくも主人公みたいなひとに先生先生って慕われたい。

 

Kとのやりとりも素直じゃないところが実によくわかるんだよな。

 

友人をたいせつにする誠実な人間でありたい

っていう自分と

でも御嬢さんをとられたくないという

恋にはまった自分と。

 

たぶん仮にKが御嬢さんに思いを告げても

御嬢さんはOKしないと思うんだよな。

 

Kは女性に特有の無邪気な残酷さに

ひとりよがりに夢を抱いているだけだと思うから。

 

もしも御嬢さんがOKしたとしても

すぐにお母さんに止められると思うので

けっきょくKと御嬢さんの恋は実らない。

 

だからといって

先生がそのあとに御嬢さんと結ばれるのも悪趣味な感じがあるので

先生も御嬢さんとは結ばれない。

 

したがって

Kは御嬢さんに振られてまた哲学の道を突き進み

先生は別の女性と恋に落ち

御嬢さんもまた別の男性と結ばれる

っていうのが三人にとってもっともよい流れだったかもしれない。

 

世の中に素敵な異性はひとりだけじゃないのに

目の前の身近な異性に飛びついただけなんだし。

 

でもそれができないのがわかさであり恋であるんだけどな。

 

それから

もしKと先生とのあいだにあったことを

正直に先生が御嬢さんに話しても

御嬢さんは別に傷つきもしないし

先生を蔑んだりもしないと思うんだよね。

 

だって御嬢さんにとっては先生の方があってると思うし。

 

だから御嬢さんに言わなかったのも先生の潔癖さゆえの

ひとりよがりなんだよな。

 

まあこの

こころ

で言いたいのは

金でも恋でも

人間なんて自分も含めてそれほど理性的な生き物じゃない

ってことなんだろうけどね。

 

ものすごく現代的でもあるこの小説。

 

やはり漱石は

国民的小説家であり

国民の先生である。

 

 

 

 

--こころ--

夏目漱石

芥川龍之介の羅生門

のパロディ風の冒頭から

破天荒で荒唐無稽にぐいぐい読ませる。

 

2000年から2003年くらいに書かれているので

もう15年以上も前の作品になるのだが

のちの

告白

ギケイキ

ホサナ

なんかにも通じる世界観。

 

超人的剣客なんて

ギケイキの義経やん。

 

序盤の内藤と掛のやりとりが好き。

 

内藤に完全に封じ込まれる掛。

 

そして大浦を陥れる策を手伝わせられる。

 

さるまわ奉行。

 

大臼。

 

腹ふり党。

 

茶山。

 

それにしても岐阜で茶山にいったい何があったんだろう。

 

気になる。

 

様霊河原での乱闘。

 

狂騒的な鉦や太鼓の音。

 

社会の中で希望を持てなくなった者たちによる

やけのやんぱちの大騒動。

 

これってあんがいリアルだったりする。

 

うーん。

 

ただたんにいきあたりばったりにむちゃくちゃなわけではなくて

きっちりながれているところにうならせられる。

 

ストーリーもさることながら

もちろん掛や茶山の思弁が魅力的。

 

そしてラスト。

 

いいねえ。

 

けっきょくつまりそういうことなんだよ。

 

あんたもパンクならこっちもパンク。

 

パンクなものこそうつくしい。

 

 

 

 

--パンク侍、斬られて候--

町田康

新聞の書評で

この

魔法にかかった男

が紹介されていて

その書評のなかで触れられていた

病院の7階から1階まで降りていく

という短篇に興味がわいたので読んでみた。

 

ディーノ・ブッツァーティという作家は初めて知った。

 

1906年に北イタリアのベッルーノで生まれ

1972年にミラノで亡くなったという。

 

イタリアの作家の作品は滅多に読む機会がないので

作中に出てくる名前や地名などからもイタリアを感じた。

 

まあこの短篇集に収められている作品も

むかしの作品ということになるが

レトロな感じがあった。

 

アイロニーやユーモアで味付けられた

幻想的な寓話

っていう感じ。

 

読みながら

エドワード・ゴーリー

を思い出したのは

なんとなく世界観が共通しているような気がしたから。

 

奇妙な動物とか。

 

不条理で不幸な運命とか。

 

全部で20話収められているのだが

1話がだいたい10数ページの作品がほとんどで

最後に収められている

屋根裏部屋

だけが50ページくらいだった。

 

ショート・ショートといえばぼくにとっては

星新一になるのだが

似ている部分もあるし似ていない部分もある。

 

それで

目当ての

病院の7階から1階まで降りていく短篇

がいつ出てくるか

タイトルがわからないので期待しながら読み進めたのだが

なかなか出てこない。

 

もしかしたら最後の

屋根裏部屋

がその話なのかなと思っていたが

結局そうではなかった。

 

書評を読み直してみると

この短篇集ではなく

別の短篇集に掲載されていたようだ。

 

タイトルはずばり

七階。

 

まあこの短篇集も嫌いではなかったし

読みやすくもあったので

よしとしておこう。

 

 

 

 

--魔法にかかった男 ブッツァーティ短篇集Ⅰ--

ディーノ・ブッツァーティ

長野徹 訳