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(本好きな)かめのあゆみ

かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

11月3日の文化の日に

阪急うめだホールで開催された

又吉直樹さん特別講演会 「小説を書く『人間』として」

に参加してきた。

 

ぼくが又吉さんを好きなこともあるだろうけど

話がほんとうにおもしろくて笑えてなるほどとも思えた。

 

参加者からのどんな質問にも

ほんとうにじっくりと自分の言葉でとつとつと誠実に答えている姿を見て

いいひとだなあということが生で確認できた。

 

いいひと

っていう言葉はぼくは好きではないというか

取扱注意な言葉だと思ってるんだけど

ぼくがここで使っているいいひとっていう言葉は

自分に都合のいいひと

っていう意味ではなくて

ぼくが好きなタイプのひとっていう意味です。

 

まあこれもひろい意味では

自分に都合のいいひと

になっちゃうのかな。

 

とにかくいっしょに時間を過ごしたいひとであるのは間違いないな。

 

でも

参加者からの質問に答えるコーナーで

妄想が膨らみすぎて

何かに憑かれたように話すことが何回もあって

ぼくはそういうのも好きだけど

こわくなって引いてしまう人もいるだろうなあとはちょっと思った。

 

13時30分開場なので13時20分には会場に着いたのだが

すでに長蛇の列だった。

 

ぼくは真ん中のエリアの前から6列目に席を確保することができた。

 

14時に又吉さんが登場。

 

あたりまえだけどテレビで見ているまんまのおしゃれな又吉さん。

 

ここからは講演内容のなかで印象に残った部分を書いていくけど

又吉さんの言葉そのものではなくてぼくの解釈が入っています。

 

歩いていて本屋さんがあればほぼ確実に入る。

 

誰よりも自分がいちばんその本を楽しんでやるという気持ちで読んでいる。

 

太宰や芥川の作品はこれまで日本の中でもっとも批評され

その解釈はある程度できあがっているけれども

そういう積み上げられた解釈さえいったん捨てて

いまの自分がいまの目で読む

あるいは

刊行された当初のまだ世間に定着した解釈がないときの目で読む。

 

作家に感想を伝える時には

作家が自分で気づいていないおもしろさを発見して伝えたい。

 

こどものころから言葉が好き。

 

地名なんかもおもしろい。

 

梅田は埋田だったとか。

 

出身の寝屋川市に太間町というのがあって

こどものころこの「たいま」という響きから

間違いなく「大麻」に関係があり

なにかを隠していると思って

図書館で調べたら

起源は淀川の「絶え間」で

昔ここはよく堤防が切れていたからだった。

 

もっと調べると

その堤防のためにひとを2人埋めるということになって

1人を埋めたあとに次の1人が

もし神がいるならこの石を浮かばせろ

と言って石を川に投げたらやはり浮かばなくて

神はいないのでひとを埋めても仕方がないということになって

埋められずに済んだという逸話があるのを知り

1人目のときにそれをやったれや

って。

 

小説を読む時には

1行目をまず読んでその1行目の雰囲気や感触

冷たさなら冷たさ

不穏さなら不穏さ

などを持ったまま

次の行へ進む。

 

そうやって行を読むごとに感触をどんどん膨らませながら

繰り返していく。

 

一気に読める本もいいけど

何回繰り返し読んでもわからない本が好き。

 

すごい作家は作品を3Dで作っているけど

読み手が3Dの眼鏡を持っていないと

3Dの内容が伝わらない。

 

3Dの眼鏡を持ってほしい。

 

本を読んでおもしろくないと感じたときには

自分のコンディションが悪いと思う。

 

本の読み方で

自分が信用しているひとがいいという本を読むとか

売れている本を読むとかがあるけど

自分でいちど書いてみるというのがいい。

 

18歳のときに自分で小説を書いてみたことがある。

 

それまでの読書の経験から

ものすごくインスピレーションが湧いていたので

すごいのが書けるぞと意気込んで書き始めたが

10枚くらいのあらすじみたいなものにしかならなかった。

 

その経験のあとにほかの本を読んでみたら

1行目からしてこれまで以上におもしろいと感じた。

 

書いてみたからこそわかる文章の良さ。

 

本は読む前から読書が始まっている。

 

まだ置いていないとは思いつつ発売前日に書店に行って

やはりまだ置いていないことを確認し

翌日に店頭に並ぶその本のことを想像する。

 

翌日手に入れた本はまず机の上に置いて

表紙からじっくり観察する。

 

「人間」の場合

表紙の青。

 

そしてそれをめくったところの黒。

 

自分が意見したわけではなく

装丁をするひとは作品を読んだうえで

この装丁にしている。

 

その意味を考える。

 

読む前からしてすでにおもしろい。

 

自分は自分の解釈なので正解はない。

 

ぼくの場合は感想を作家本人に伝えると

だいたい考え過ぎといわれる。

 

(ここで演台のペットボトルの水に右手をかける)

 

この蓋は絶対に片手では開きませんね。

この水を飲もうとすると両手を使って蓋を開けなくてはいけないので

左手で持っているマイクをいったん置かなければならない。

マイクを置くと聴衆のみなさんに

又吉はいまから水を飲む

と思われる。

これだけの聴衆のみなさんに水を飲んでいるところを見られるのは

かなり恥ずかしい。

でも水を飲まなければだんだん声がかすれてくるかもしれない。

それでもぼくはやはり水を飲みません。

今日の帰りの電車の中でみなさんが

又吉は水を飲まなかったなあ

と思ってくれたらおもしろいなあ。

 

とこういう意識の流れを書くだけでもめちゃくちゃおもしろい。

 

本の値段を高いというひとがいるが本は安い。

 

何回でも読める。

 

こどもの頃から本は何回でも読むものだった。

 

家族に本を読むひとがいなかった。

 

本を読んでいると父からからかわれたりした。

 

本は隠れて読むものだった。

 

煙草を隠れて喫うのと同じような感覚だと思う。

 

1回目よりも2回目

2回目よりも3回目がおもしろくなる。

 

ぼくはもともと本を読む身体能力が低いのかもしれない。

 

鍛えていくと

1回目を読む時点で2回目3回目の読み方の予感がある。

 

そうなるともはや読むのではなく本に入り込む感覚になる。

 

おとなになっても本を買う金がなく

古本ばかり読んでいた。

 

金はないけど時間はあるので

古本屋ばかり巡っていた。

 

各店の値段を熟知していた。

 

村上龍さんのコインロッカー・ベイビーズの下巻が安かったので

上巻はいずれ買うとしてひとまず下巻を買っておいた。

 

1年くらいしてコインロッカー・ベイビーズを見つけて

たしか家にあるぞと思い

まさか下巻から先に買っているわけはないだろうから

家には上巻があるはずと考え

下巻を買って帰り

けっか家には下巻のみ2冊になった。

 

なぜか最終的には下巻が3冊になった。

 

まあそんなふうに古本ばかり読んでいたから

新刊を見ると紙の白さがまぶしい。

 

言葉が好きなので本屋でタイトルを見ているだけでもたのしい。

 

タイトルを見ているだけでおもしろい本がわかる。

 

背表紙が光っている。

 

これはほんとう。

 

で1行目を読む。

 

1行目でおもしろいかどうかわかる。

 

念のため2行目を読む。

 

間違いない。

 

実際は1ページくらい読む。

 

そこまでがおもしろければ

その後のページがたとえその繰り返しであったとしてもおもしろい。

 

新潮新人賞の選考委員をやることになったけれど

ぼくは何を読んでもおもしろいので向いていないかもしれない。

 

自分の大好きな恋人が

世界恋人選手権とかに出ても

地区予選で負けると思う。

 

自分の母親が自分にとってはとても好きな母親であるとしても

世界母親選手権に出たら

地区予選の2回戦どまりだと思う。

 

自分の好きなものってそういうもの。

 

この本はつまらない

と言ってもいいような風潮があるけれど

ぼくにしてみたらおもしろくするのは読者である自分。

 

本の水準を上げていこうとする批評家の役割を否定するわけではないが

おもしろくするのは読者。

 

えっといま2時58分ですか…

 

ちょっといま3時まで待とうとしてしまいました。

 

こんなことは絶対にあってはなりませんね。

 

(と、ここから質問コーナーがスタート)

 

こういうところではあんまり手が上がらないんだけど積極性がすごい。

 

小説の1行目は考えるというより出てくるのを待つ感じ。

 

それもただ待つのではなく出てくるような環境をつくる。

 

「火花」の主人公の徳永という名前は

初めてパソコンで検索というのをしたときに

自分の名前で検索してみたら

そこにはちょっと言葉を選ばないといけないんだけど

いつも憂鬱そうな有名人として

ぼくとその有名なミュージシャンの名前が

ってこれは言ってはいけない話かもしれませんね。

 

登場人物は勝手に動きます。

 

いや勝手に動くことなんてなくてあくまでも作者が考えている

という作家もいますがあれは嘘だと思います。

 

「火花」の神谷が放った言葉の意味が作者の自分でも理解できず

どういう意味やろと考えているうちにその後の物語ができた。

 

「人間」にも出てくるけど

矛盾のないものは信用できない。

 

作り手の覚悟として

時間をかけたものにしかひとはお金を払ってくれないと思っている。

 

鑑賞する側になるとちょっと違って

どんなものでも楽しみたいと思う。

 

でもやっぱり汗をかいていないものは楽しみにくい。

 

(でけっきょく最後まで水は飲みませんでした!)

火花

劇場

ときて

人間。

 

又吉さんの

繊細な感情をていねいに拾いこんだ葛藤の表現

が好き。

 

特に

表現を志すひとなら誰でも一度は考えるであろう思考

の表現については

毎作興味深く読んでいる。

 

こういう内容について描かれた作品で

もっと高度に専門的で洗練された表現のものもたくさんあるだろうけど

又吉さんの文章はぼくにはちょうどフィットする。

 

主人公の永山が暮らすことになった

ハウス

の住人たちの不器用なもがきっぷり迷走っぷりがいたたまれないが

こういう激しい主張の応酬っていうのは

ぼくにとっても懐かしい思い出だったりする。

 

もういまはこういうことはできないしやらない。

 

飯島、仲野、田村、めぐみ、奥。

 

読んでいて腹が立つことも多いけど

みんなそれぞれ必死に何かとたたかっている。

 

あるいはたたかうことから避けている。

 

そして

ぜったいにやってはいけないことが起こってしまうが

こういうことが起こるのも必死なひとびとが集まっているからこそ。

 

そして十数年後の

ナカノタイチと影島のやりとり。

 

それを読む永山。

 

影島のナカノタイチへの執拗で徹底的な批判を読んで

胸のすく思いと同時に

自分に対する批判とも感じられる。

 

このあたりの感覚もしばしば経験したことがあるような気がする。

 

ナカノタイチはたしかに

おまえ仕事をなめてるやろ

と言いたくなるタイプの人間だが

それを完全に否定することは難しいし

なにしろ世間にニーズらしきものがあるから

ナカノタイチが仕事をできているっていうのもある。

 

いいことかわるいことかというのとは関係がない。

 

現実の多くの表現者が

ナカノタイチであらざるを得ない自分を影島のように批判して

ひとりで葛藤していると思う。

 

中盤あたりから

カスミを含めて

どこか妙で

あれ?なんでこうなるの?

マジック・リアリズム的な表現を狙っているの?

それとも奇譚めいたなにか?

という部分が随所にあって

その効果に疑問がないわけではなかったが

沖縄の部分でなんとなくその理由がわかったような気がする。

 

東京での繊細な暮らし

沖縄でのもっと自由でもっと自然な暮らし。

 

どっちがいいとかわるいとか言えない。

 

永山のお父さんのむちゃくちゃぶりには腹も立つけど

お母さんの接し方を見ていると

そういうこともあるのかもな

っていうことは思う。

 

余談だが

永山のお父さんとお母さんのやりとりを見ていると

じゃりン子チエのテツとヨシ江さんを思い出した。

 

ぼくなんかも昔から

いろいろ考えるわりにはぜんぜん考え足りてなくて

やみくもに葛藤ばかりしているのだが

ときどき

なにも考えてないひとは楽でいいだろうな

なんてことも思って

でもそれってものすごく相手をみくびっているってことで

なにも考えてないように見える人でも

じっさいにはいろいろと考えていたりするわけで

人間ってわからない。

 

永山のお父さんだって

ときどき鋭いことをしたり言ったりしている。

 

哲学めいていることさえある。

 

永山のお母さんだって

ただ素朴なだけじゃなさそうだ。

 

ちょっと話が逸れるが

女性と話していると

こちらがきいていることに答えないで違う話が始まって

あれっ?ぼくの質問が伝わらなかったかな?

って思っているとしばらくほかの会話をした後に

さっきの質問の答えが返ってきたりして

なんだ伝わってたのか、じゃあなんでそのときに答えてくれないのかな?

ってなることが多いんだけど

永山のお母さんもそんな感じ。

 

女性の時間の流れ方は

きっとたゆたっている感じなんだろうな

っていまは解釈している。

 

聖書のように人間失格を読む。

 

そんな愛読書があるっていうのは

困難な世界で生きていくのには

とてもこころづよいと思う。

 

 

 

 

 

--人間--

又吉直樹

古市憲寿さんは好きで

平成くん、さようなら

はけっこう気に入ってるんだけど

今作はちょっとぴんとこなかったな。

 

なぜだろう。

 

毒舌が影を潜めてたからかな。

 

古市さんの

どこにも属さない位置からの

軽薄な毒舌

あるいはこれまでの経過や感情を無視した客観的な批評性

がぼくは好きなんだけど

そういうのを期待していたのでしっくりこなかったのかもしれない。

 

ビルの外側からの窓ふきっていう仕事は

やったことのないひとからは興味深い仕事だと思うので

もっと掘り下げてほしい気もしたけど

そういうのを狙ってるんじゃないんだろうな。

 

お金持ちの老婆との関係性も

とってつけた感があって

最後まで腑に落ちなかった。

 

出会いと依頼に無理があるとしても

その後のやりとりに必然性を与えるのも可能だと思うけど

そうはなっていなかったと思うんだよね。

 

主人公がビルの窓ふきを仕事にしている理由も

もうちょっと描いてほしかったな。

 

批評性としては

ビルの内側のひとは外側で窓をふいているひとを

同じひとだとみなしておらず

その存在を完全に無視している

ってことだと思うんだけど

それ以外に何かあったかな。

 

意味のなさがねらいとか?

 

それとももしかして

ぼくがこの感性についていけていない?

 

今作はたまたまぼくにはフィットしなかったけど

軽薄なうつくしさというものはあるはずなので

そういう作品を期待したいと思う。

 

ところで

装画 古市憲寿

ってあるんだけど

こんな絵を描くんだね。

 

なんかいい。

 

 

 

 

 

--百の夜は跳ねて--

古市憲寿