人間 又吉直樹 | (本好きな)かめのあゆみ

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又吉さんの

繊細な感情をていねいに拾いこんだ葛藤の表現

が好き。

 

特に

表現を志すひとなら誰でも一度は考えるであろう思考

の表現については

毎作興味深く読んでいる。

 

こういう内容について描かれた作品で

もっと高度に専門的で洗練された表現のものもたくさんあるだろうけど

又吉さんの文章はぼくにはちょうどフィットする。

 

主人公の永山が暮らすことになった

ハウス

の住人たちの不器用なもがきっぷり迷走っぷりがいたたまれないが

こういう激しい主張の応酬っていうのは

ぼくにとっても懐かしい思い出だったりする。

 

もういまはこういうことはできないしやらない。

 

飯島、仲野、田村、めぐみ、奥。

 

読んでいて腹が立つことも多いけど

みんなそれぞれ必死に何かとたたかっている。

 

あるいはたたかうことから避けている。

 

そして

ぜったいにやってはいけないことが起こってしまうが

こういうことが起こるのも必死なひとびとが集まっているからこそ。

 

そして十数年後の

ナカノタイチと影島のやりとり。

 

それを読む永山。

 

影島のナカノタイチへの執拗で徹底的な批判を読んで

胸のすく思いと同時に

自分に対する批判とも感じられる。

 

このあたりの感覚もしばしば経験したことがあるような気がする。

 

ナカノタイチはたしかに

おまえ仕事をなめてるやろ

と言いたくなるタイプの人間だが

それを完全に否定することは難しいし

なにしろ世間にニーズらしきものがあるから

ナカノタイチが仕事をできているっていうのもある。

 

いいことかわるいことかというのとは関係がない。

 

現実の多くの表現者が

ナカノタイチであらざるを得ない自分を影島のように批判して

ひとりで葛藤していると思う。

 

中盤あたりから

カスミを含めて

どこか妙で

あれ?なんでこうなるの?

マジック・リアリズム的な表現を狙っているの?

それとも奇譚めいたなにか?

という部分が随所にあって

その効果に疑問がないわけではなかったが

沖縄の部分でなんとなくその理由がわかったような気がする。

 

東京での繊細な暮らし

沖縄でのもっと自由でもっと自然な暮らし。

 

どっちがいいとかわるいとか言えない。

 

永山のお父さんのむちゃくちゃぶりには腹も立つけど

お母さんの接し方を見ていると

そういうこともあるのかもな

っていうことは思う。

 

余談だが

永山のお父さんとお母さんのやりとりを見ていると

じゃりン子チエのテツとヨシ江さんを思い出した。

 

ぼくなんかも昔から

いろいろ考えるわりにはぜんぜん考え足りてなくて

やみくもに葛藤ばかりしているのだが

ときどき

なにも考えてないひとは楽でいいだろうな

なんてことも思って

でもそれってものすごく相手をみくびっているってことで

なにも考えてないように見える人でも

じっさいにはいろいろと考えていたりするわけで

人間ってわからない。

 

永山のお父さんだって

ときどき鋭いことをしたり言ったりしている。

 

哲学めいていることさえある。

 

永山のお母さんだって

ただ素朴なだけじゃなさそうだ。

 

ちょっと話が逸れるが

女性と話していると

こちらがきいていることに答えないで違う話が始まって

あれっ?ぼくの質問が伝わらなかったかな?

って思っているとしばらくほかの会話をした後に

さっきの質問の答えが返ってきたりして

なんだ伝わってたのか、じゃあなんでそのときに答えてくれないのかな?

ってなることが多いんだけど

永山のお母さんもそんな感じ。

 

女性の時間の流れ方は

きっとたゆたっている感じなんだろうな

っていまは解釈している。

 

聖書のように人間失格を読む。

 

そんな愛読書があるっていうのは

困難な世界で生きていくのには

とてもこころづよいと思う。

 

 

 

 

 

--人間--

又吉直樹