今村翔吾さんが
こどものころの弟さんとのエピソードを絡めて
紹介していて
読みたくなったので読んだ。
本人の意に反して
からだがどんどん大きくなってしまい
そのことで周囲からからかわれ
悲しい思いをするけれども
やがてその大きなからだがみんなの役に立つ
みたいな話を想像して読み始めた。
まず目に飛び込んでくる
滝平二郎さんの画の力強さとかっこよさに
しびれる。
--むかしな、秋田のくにに、八郎って山男が住んでいたっけもの。
秋田の話か。
そういえば八郎潟ってあったような気がするけど
どこだったかな。
読み進めていくと
思っていたのと違って
八郎はみずからまだまだどんどん大きくなりたがっていた。
こころも優しい。
そしてこの斎藤隆介さんの文章のリズムと響きの心地よさ。
この文章が秋田弁かどうかはわからないけど
ぼくなりに秋田弁をイメージしながら読んでみる。
文章も画もダイナミックで鷹揚で
まわりの空気があたたかくふくらんでいくような感じ。
やがて海が出てくる。
これはもしや
と思い
そこからはぼくにとっては土地の神話めいて見えてくる。
かつてのぼくは
自己犠牲によって多くのひとを守る
という物語が無条件で好きだったけど
いつの頃からか
自己犠牲は安易な解決法だと考えるようになり
いまでは
できるだけ自己犠牲は避ける方法で対策を練り
それでもどうしても自己犠牲しか手段がないときに限って
みずからの決断で自己犠牲を選択する
という物語を求めるようになった。
だからこの話の結末は
ぼくのいまの考え方には少しそぐわないかもしれないけど
神話だと考えるとそれでいいとも思う。
それにしても
この物語では
海辺の田を持つ農民にとって
命が助かるだけでは十分ではなく
じぶんの田が塩水をかぶってだめにならないように
ということも望むというところが
より現実的な気がした。
命あってのものだねとはいうが
命だけではだめで
やっぱり生活のよりどころとなる生産手段も残らないといけない。
その視点をいまは軽視し過ぎているのではないか
というようなことも
物語の本質とはずれるだろうけど考えた。
--八郎--
斎藤隆介作/滝平二郎画