草枕 | (本好きな)かめのあゆみ

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かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、---

あまりにも印象的なこの書き出し。

潔癖のピアニスト、グレン・グールドが愛読するのも納得である。

夏の読書。

ずいぶん久しぶりに読んでみた。

学生のころに読んだときにはおそらくピンと来ていなかったであろう部分でさえ
いまのぼくにはよくわかるような気がする。

いや
やはり学生のころには学生のころなりの感想があったに違いなく
それはそれで誤りではなかったのかもしれない。

とまれ
芸術とは何か。

主人公であるひとりの画工の考え方が
この作品を貫いている。

いまもまったく色褪せないその考え方。

もちろん必ずしも唯一の正解というわけではなく
芸術観なんてものは十人十色で構わないのだが
非人情
ということばで表現される彼の考え方はぼくも好き。


この作品で描かれる芸術への追求はもちろん
そうでない部分も含めて
夏目漱石ならではの
語彙の豊かさと
文章の格調の高さ
そして矛盾するようだが
文章の読みやすさと親しみやすさ
というものすべてがぼくを満足させる。

ありふれた筋書きといえばそういえなくもない。

けれども
この話の筋を現代に持ってきて書き換えたとしても
同じ満足は得られないだろうと思う。

それは
この作品が発表された明治39年という時代の空気によるのかもしれない。

ちなみに
明治39年の4月に坊ちゃんを発表したそのあと
9月に草枕を発表している。

そういう時期も少し興味深い。

漱石自身が熱く勢いのある文学へのこころざしを抱いていた時期
といえるかもしれない。


この草枕のマドンナは
温泉場の出戻り娘である那美。

いい。

漱石の描くマドンナは
ある種一面的で
女性の内面を細密に描いているとはいいがたいのだが
学生のころから現在に至るまで
ぼくは漱石の作品に出てくるマドンナたちが好き。

現実でもついついそういったタイプを求めてしまい
しかしながら現実の女性はこのように一面的ではないので
たちまち幻想は崩れ去ってしまうのであるが
凝りもせずまたこのタイプを追いかけてしまう。

長良の乙女。

オフェリヤ。

那美と主人公との会話ややりとりが粋。

周囲から狂人めいた娘と噂されようとも
いっこうに頓着しないそのスタイル。

なんかいいなあ。

ひとつひとつの場面が美しくウィットに富み印象深い。

憧れる。

ちかごろは人情を求めつつあるぼくではあるが
ひととき非人情の美をあらためて見直したのである。




--草枕--
夏目漱石