多和田葉子さんの単行本“献灯使”から表題作以外の作品について。
どの作品も原発事故以後の日本を寓話的に描いている。
根底には原発事故に対する日本政府と国民の動きへの批評があると思う。
ドイツ在住の多和田さんだから、価値判断を抜きにして、より客観的に思考が進んでいるように感じられる。
立場によっては、ひとびとを過剰な不安に陥れる誇張あるいは歪曲した作品にも受け取れるし、実際に現状に不安を感じるひとびとにとってはやっぱりそうでしょ原発なんておそろしいでしょともいいたくなるだろう。
ぼくはあくまでもフィクションであるということを前提に、大胆な思考実験と問題提起が小説の中で展開されているんだと、そう思う。
“韋駄天どこまでも”
最初は漢字を分解した奇妙な文章から始まる。
しかしそれには特に意味はないように思われる。
東田一子が束田十子と喫茶店でコーヒーを飲んでいるときに大きな地震が起こる。
ひとびとがあわてて逃げるようすはさながら夢のなかのできごとのようだ。
悪夢というより非連続で荒唐無稽な夢。
辿り着いた避難所でのラストが切ないというかなんというか。
“不死の島”
2012年のアンソロジー“それでも三月は、また”に収められていた作品。
当時にこれを読んだときには、ちょっと過剰に反応しすぎじゃないの、実際に被害をこうむられたひとびとに対して失礼じゃないの、とも感じていたが、海外からの目はきっとこういうシビアなものなのだろう。
この作品が書かれたときには、きっと4年経った現在の東北が、日本が、まさかまだこんな状態だなんて想像もしなかったのではないか。
阪神淡路大震災のときの復興よりもスピードはかなり遅いような気がする。
“彼岸”
原発が事故を起こすのは地震や津波のせいだけではない。
この作品で描かれるような事態にはさすがにならないんだろうとは思うけれども、未来はどうかわからない。
とりわけ戦争状態になってしまった場合には。
近隣諸国に対する攻撃的な論調で支持を得ていた人物が、日本の災害に際してその近隣諸国の協力を得なければならなくなったときに陥る苦境。
自業自得ともいえるその状況ははたしてただの悪趣味なフィクションに過ぎないのか。
“動物たちのバベル”
地上から人類が消えた後の廃墟に生きる動物たちを登場人物にして戯曲仕立てで描いた作品。
動物たちのシュールな議論に想像力が追いついていかないが、よくわからないものをわかりたいという興味のこころを刺激されて心地よい。
――「献灯使」から――
多和田葉子