不思議な作品だ。
近未来のディストピア小説だとは思う。
思うがちょっと違う。
ディストピア小説といえば、酷い世界で抑圧された者たちが、支配する者に対して反撃を試みるのが一般的だと思うが、この小説では愚痴はいうものの反撃まではいかない。
そもそも支配者と非支配者という関係性が希薄だ。
何らかの原因で汚染された日本列島。
東京はかつての繁栄を失い、仮設住宅にひとびとは暮らす。
繁栄しているのは北海道、東北、沖縄。
ひとびとは沖縄に暮らすことに憧れるが、条件が厳しくて、移住できるのは限られたひとだけだ。
そしてこのころの世界は、ひとつの国の問題が世界中に影響を及ぼすグローバルな仕組みをやめて、それぞれの国の問題はそれぞれの国が解決するというルールに則り、鎖国的な状況になる。
日本では外来語の使用も控えられる。
戦争が起こっているわけではないが、閉塞的な状況だ。
と、こういうことは読み進めるにつれてわかっていく。
そしてそういう設定自体もおもしろいのだがこの作品のおもしろさは文章そのものにある。
読み始めはきわめて奇妙だ。
いったい何が書かれているのかよくわからないくらいのシュールな表現の連続。
大丈夫かな、読み続けられるかな、と心配になるが、だんだんとこの世界にも慣れてくる。
なれてくると俄然おもしろくなってくる。
シニカルなユーモアで全編が覆い尽くされている。
これは多和田葉子さんの作品ならではだ。
不思議な少年“無名”と彼を育てる曾祖父“義郎”を中心に話が進む。
100歳を超えても健康で元気な義郎とは対照的に無名は弱々しい。
弱々しいのは無名だけではなくて、その世代のこどもたちに共通の現象だ。
けれどもこどもたちは、そのことで悲観的にはならない。
最初からそれがあたりまえだからだ。
弱々しく、希望もなく、かといって絶望しているわけでもなく、ただただやさしいこどもたち。
ぼくは思う。
現在のこの世界に生きるぼくたちからみて、この小説のなかの世界はきわめて残酷な世界であるように思われるが、はたしてそれはそうなのか。
はじめからその状況であれば、別にそれが普通なのではないか。
むしろぼくたちのこの世界がおかしいということはないのか。
いや、たしかにぼくたちのこの世界はすでにおかしいんだけど、そのおかしいとはレベルが数段違う意味でおかしいってこと。
そういうふうに読者に思わせた時点でこの作品は成功しているのかもしれない。
いや、やっぱりこれはとりたてて意味のない寓話と読まなければならないのかもしれない。
いろいろと読み方があるというのは優れた小説に共通の特徴である。
小説でこそ挑める思考実験。
ただ思うのは、ぼくたちの生き方が、ぼくたちのあとの世代の生き方に良くも悪くもはっきりと影響を残すということを覚えておかなければならないということ。
――献灯使――
多和田葉子