卅日(みそか)、日光山の麓に泊る。あるじの云けるやう、「我(わが)名を仏五左衛門と云(いふ)。万(よろづ)正直を旨とする故に、人かくは申侍(まうしはべる)まま、一夜の草の枕も打解(うちとけ)て休み給へ」と云。いかなる仏の濁世塵土(ぢょくせぢんど)に示現(じげん)して、かかる桑門(さうもん)の乞食順礼(こつじきじゅんれい)ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとどめてみるに、唯(ただ)無智無分別にして正直偏固(しょうぢきへんこ)の者也。剛毅木訥(がうきぼくとつ)の仁に近きたぐひ、気稟(きひん)の清質(せいしつ)、尤(もっとも)尊ぶべし。
芭蕉の人柄が垣間見える。
理屈抜きにとにかく真面目で正直っていう旅籠の主人を賞賛している。
ぼくなんかは逆。
素朴に真面目なひとっていうのはちょっと注意が必要だと思っている。
というのは状況によって態度が容易に変わりうるタイプだと思っているからである。
たとえ悪意がないとしても。
無邪気な素直はときに始末が悪い。
もちろん真面目で正直で素直っていうのは美徳であるには違いない。
その価値は否定しない。
っていうか芭蕉と同じく賞賛の対象であると思う。
でもやっぱり自分の頭でしっかりと考えたうえでの真面目で正直であってほしいと感じる。
まあ人間の直感っていうのはえてして核心を突くものなので
中途半端な思考の結果よりもいっそ
生まれつきの真面目さの方が信頼できるのかもしれないけれど。