なんともうつくしいタイトル。
雨を聴く。
どんな雨なんだろうと想像が掻き立てられる。
辞書をひいてもこのことばは出てこない。
でも
きっとこのことばはある。
坂田三吉の晩年の将棋を主人公が回想するていで紡がれるこの作品。
横紙破りな棋風と破天荒な言動で異彩を放った坂田。
正当な名人がいるにもかかわらず
勝手に名人を自称したりして
棋界から距離を置かなければならないはめに陥る。
棋界から離れて16年。
68歳の坂田は当代きっての棋士2人と対局することになる。
ぼくは自分では将棋を指さないが
将棋の世界のあれやこれやは大好き。
九九八十一マスの盤面は宇宙。
棋士の思考は哲学。
16年ぶりの対局の初手
素人のぼくからみても無謀な手を坂田は指す。
それが自らに課せられた使命ででもあるかのように。
オダサクは例によって
このアクの強いだめな坂田を
これまた当時不遇な時期を過ごしていた主人公の心象とあわせて
張りつめおどけテンポよく語っていく。
あいかわらず描写のシンプルな美に蕩けそうになる。
世間との間にどうしようもない隔たりがあるがゆえに魅力的な人物
っている。
現代ではもちろん当時でも
勢いを失った晩年の坂田の将棋は勝つ見込みのないものであるが
そこに注がれるオダサクの視線が
やりきれなくやさしい。
体温が感じられる。
オダサクなどの洗練された短編を読むと
ぼくたちがふだんたのしんでいる現代の短編をぬるく感じる。
もちろん現代の短編にも味はあるのだけれども
それでもこの時代にしか出せない密度のようなものがあるに違いない。
ところでこの作品は
「新潮」昭和18年8月号に掲載っていうから
あの戦争中にこういう作品が出版できているっていうことに
すくなからぬ当惑を覚えたりもするのだった。
――聴雨――
織田作之助