かなり前に“檸檬”と“桜の樹の下には”が読みたくて手に入れた新潮文庫の短編集。
まだ全部読めていないのだが、若干、ぼくとは相性がよくないみたい。
“Kの昇天”がいまのところのぼくの梶井基次郎ベスト。
で、“冬の日”を読んでみた。
陰鬱。
陰鬱自体はぼくの好むところではあるのだが、やはりどうにもしっくりこない。
表現の巧みさも、独特の内的感性もわからなくはないのだが、どうにも甘い感傷が出過ぎているような気がする。
なぜぼくは、梶井基次郎をいまひとつだと感じてしまうのか考えてみた。
たとえばこの作品は1927年3月に発表されている。
1901年生まれの梶井基次郎が26歳になる年。
そうか、これは病ゆえに陰鬱ではあるけれども、エネルギーに満ち溢れた20代中盤に書かれているのか。
だから、既にエネルギーが満ち溢れている時期を過ぎてしまったぼくには、心的状況が伝わってこないんだな。
つまり、梶井基次郎は、10代から20代までに読むべき青春小説だということか。
それならなんとなくわかる。
少年時代からの肺結核があるとしても、そもそもの生命力は若さについてくるものなので、みなぎっているはずだ。
こころとからだのアンバランス。
だからこその陰鬱。
もっと早くに出会っておくべきだった。
もし出会っていたら、あのころの甘い感傷も含めて、いまの自分を見つめることもできるかもしれない。
折田との会話の場面がよかった。
男どうしの不器用な気遣い。
そして最後の2ページの、落日。
初夏に読むよりも初冬に読むほうがしっくり来るかもしれない。
――冬の日――
梶井基次郎