アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること | (本好きな)かめのあゆみ

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かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

ひさしぶりにガツンと読み応えのあった作品。


こういう軽やかにシリアスなのは好き。


人間ってなんだ? って考えさせてくれる。


原題は

What We Talk About When We Talk About Anne Frank


8つの短編が収められた本の、表題作で、最初に登場する。


レイモンド・カーヴァ―の“愛について語るときに我々の語ること”を読んだことはないのだけど、それをもじったこのタイトルは、なんだか声に出して読みたくなる心地よさ。


アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること、っていうんだから、ナチの時代のユダヤの迫害みたいなことを、現代のわかもの目線で描くのかな、って想像しながら読み始めたのだが、なんだか違う。


2組の夫婦の会話がメイン。


正直、この作品を読んでいるときには、またもやアメリカの、知的を気どった、ひねりのある作品なのかな、って感じて、うんざりもしていた。


が、次の“姉妹の丘”でやられた。


これはもはや現代の神話。


おそろしい。


信仰とは何か、正しさとは何か、愛とはなにか、という問題を激しく突きつけられる。


ラビたちによる裁判のシーンとそのあとのショーシャナとアヘレトのある意味決斗のシーン、さらにフィニッシュのシーンでは、あまりの緊迫感に身が震える。


こんなことってあっていいの?


森鴎外の高瀬舟をはじめて読んだ時のような重苦しい読後感に襲われた。


けれどもこの刺激がうれしくもあるのだ。


人間はまだまだ解けない不条理な問題を山のように抱えている。


“僕たちはいかにしてブルム一家の復讐を果たしたか”、“覗き見(ピープ)ショー”、“母方の親族について僕が知っているすべてのこと”ときて、“キャンプ・サンダウン”でまたもややられる。


ナチの時代に残酷な仕打ちを受けたユダヤ人の生き残りの老人たち。


彼らは、夏のキャンプで出会った老人をナチの衛兵の生き残りだと思い込む。


彼らは何十年も過ぎ去った今でも、年老いた今でも、決してナチを許さない。


たとえそれがごく末端の衛兵であったとしても。


罪とは何か、時間とは何か、老いるとは何か、復讐とは何か、正義はどこにあるのか、ここでも厳しい問いが投げかけられる。


“読者”はこの短編集の中ではやや異色だが、ぼくはこの作品を気に入っている。


作者と読者の細くても力強い関係。


うらぶれた寂しさをはらみつつも、書かれた作品を読むということは、それを読む者にとってだけでなく、それを書いたものにとってもかけがえのない行為である、と訴えかけてくれるようで、こころが居場所を与えられるようだ。


そして最後の“若い寡婦たちには果物をただで”。


これも出色の作品。


普通に生きているものには絶対に理解できない激しい憎悪。


自分自身もその憎悪のとばっちりを受けながら、なおも教授に哀れさと慈しみを感じる果物の露天商の男にぼくは共感する。


教授の忌まわしい生い立ち。


それによって形成される人間への憎悪。


そんな教授を理解しながらそれでも露天商は悲しげに息子に語る。


「だけどなあ、息子よ、誰が死ぬべきか決めるだなんて、俺たちはいったい何様だよ?」


思考実験。


安全な立場でならそう呼べるような究極的な問い。


けれどもこういう場面は、きっと小説の中だけでなく、実際に起こることなんだろう。


最後までこの短編集を読み終えてから、あらためて最初の表題作を読み返してみる。


最初に読んだときには気づかなった入り組んだ人間の問題がここにも横たわっていた。


すごいぞ、ネイサン・イングランダー。


敬虔なユダヤ教徒の少年として成長し、やがて棄教。


信仰を棄てるとはどういうことなのか、そもそも信仰をもたないぼくには想像がつかないが、それまでの自分のアイデンティティを全否定するくらいの破壊力があるのではないだろうか。


裏表紙にもあるとおり、すみずみまでユダヤ人を描きながら、どこまでも普遍的であることの不思議。


読みながら、さらにいろいろと考えさせてもらえる素晴らしい読書の時間であった。






――アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること――

ネイサン・イングランダー

小竹由美子 訳