物語に沿ってまっすぐに結末に向かって進んでいくページを次から次へとめくっていく読書を線的な読書と表現するなら、この小説を読むことは面的な読書と表現できるかもしれない。
ストーリーという道ができあがっていて、その道をどこかに必ずあるであろう目的地に向かって歩いていく感覚と、方向感覚さえ失わせるような見渡す限りの平原をあるのかないのかわからないどこかに向かって歩いていく感覚はまったく異なる。
あるいは、平原ではなくて砂漠であるとか大海原であるとか言い換えてもいい。
面的な読書とは、そういう平原やら砂漠やら大海原やらをさまよう感覚に似ている。
この小説。
原題は
The End of The Story
小説の終わりを探す話。
主人公の女性が、若い男性と愛し合い、やがて彼のこころは彼女から離れてしまうのだが、彼女は彼をいつまでもこころに留めている。
そのころの様子を何年もしてから、小説に描こうと試みる主人公。
当時の出会いと別れとその後の苦悩、そして現在それを小説にいかに表現するかという苦悩。
正直いって、読むのはたいへんだった。
やっぱりある程度、筋のようなものがある方が読みやすい。
あてどもなくさまようような読書になってしまった。
けれども、いや、だからこそなのかもしれないが、小説のなかの表現に、はっとすることが多かった。
おとなの恋愛あるある、といえなくもないのだが、そのレベルはかなり高い。
よくもまあ、これだけ自らのうつろいやすい心象をもれなく掴み取って、文章に変換できたものだと感嘆する。
めくるページめくるページ、かならずうまい表現に出会う。
まあ、あくまでも主人公目線での心象なので、男性の側がおなじ事柄に対して果たしてどのような心象であったのかはわからないのだが、結局、人間っていうのは、自分が中心でしかないのだから、それは当然といえば当然のことなのであった。
しかし、自分が経験したことを小説にする、っていうのはどういう行為なのだろう。
日本は私小説がお家芸みたいなところがあるのだが、リディア・デイヴィスさんのこの作品のような感じの私小説はあまり読んだことがないような気もする。
やはりお国柄のちがいというものはあるのだろうか。
主人公が書いているように、そのまま書くこと、誇張して書くこと、オブラートに包んで書くこと、写実的に書くこと、抽象的に書くこと、書かないこと、創作すること、それらの表現のなかからどれを選ぶかをひとつひとつの場面について決定していくという行為の繰り返しなのだろうか。
おとなの恋愛あるあるであると同時に、小説執筆あるあるでもあるのだった。
話の終わり。
遠くの町の書店で店員がくれた、濃くて熱くて苦い紅茶の経験。
――話の終わり――
リディア・デイヴィス
訳 岸本佐知子