去年の秋に初めて読んで、それからお気に入りの掌編。
すでに秋の定番。
作家のノオトに記された、秋のあれこれ。
秋の海水浴場は夏のまつりの夢の跡。
ぼくなんかはもう夏のにぎやかな海になんてこれっぽっちも行きたいとは思わない。
紫外線の恐怖。
けれども学生時代の海の思い出はいつまでも色褪せることがなく、むしろ日増しにあざやかになっていったりして。
海水浴のあとの車のなかで聴くロックやポップスがここちよい気怠さとともに記憶に焼き付いている。
年を重ねるにつれて、夏にひそむ秋の気配に敏感になってきた。
もう7月には秋の予感さえ脳裏をよぎっている。
わかい頃にはそんな感覚はなかった。
夏は夏、秋は秋。
まるではっきりとその境界が定められているかのように。
けれども実際には秋は夏と同時にやってきている。
夏の中に秋はこっそりと隠れている。
詩人にはそれがわかる。
ならばぼくも少しずつ詩人に近付いているのだろうか。
猛暑のあいだは、はやく涼しくなってくれ、夏なんてもううんざりだ、なんて夏を邪魔者扱いしていたわりには、ちょっと涼しくなったらもう、夏が終わるんだなあ、なんてなんとなくセンチメンタルになってみたり、寂しさを感じてみたり、いい加減なもんだ。
夏の終わりに寂しさを感じたところで、どのみち9月や10月の眩しい日射しに汗ばんでみたりして、まだまだ暑いわね、なんて愚痴ってみたりもするのである。
そして、夏大好きなひとは別として、おおかたのひとは、過ごしやすい秋、食欲の、芸術の、スポーツの、なんだかんだの秋を満喫するに違いないし、それがまっとうでもあるのだ。
けれどもそんなときに少しは思い出してほしい。
夏が去りゆくときに感じたあの切なさを。
――ア、秋――
太宰治