むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。
おじいさんとおばあさんはさしておおきなトラブルに巻き込まれることもなく、それなりに穏やかに暮らしていましたが、それはお互いに干渉しないように配慮してきた結果でした。
ある種の諦念といってもよいかもしれません。
わかかりし頃はよく言い争いにもなりました。
わかい頃のおばあさんはわかい頃のおじいさんによくこう言ったものです。
やれ、家に居てもちっとも話を聞いてくれない、やれ、いつも疲れた顔をしている、やれ、家事はほとんどわたしがやっている、やれ、たまにはどこかへ連れて行ってよ、エトセトラエトセトラ。
わかい頃のおじいさんも言われっぱなしではありませんでした。
やれ、だんだん化粧がおろそかになってきた、やれ、あまりにも世帯染みてきた、やれ、自分に対する尊敬というものが足りない、やれ、たまにはひとりにしておいてくれよ、アンドモア。
ときには涙を流しながらやりあっていましたが、いつの頃からか、これを言うと気まずくなるな、ということはお互いに言わないようになりました。
そんなのさびしい、という意見もあるかもしれませんが、なんでも言い合える、っていうのは案外どこかに無理があるものなのかもしれません。
とにかくおじいさんとおばあさんの選んだ方法は、お互いに干渉しない、ということでした。
そして何十年かして、ふたりがもうわかくなくなったある夏の終わり、おじいさんはおばあさんのふとしたときの身のこなしに目が留まりました。
なぜならそれがあまりに自然でうつくしかったからです。
このひとはこういう仕草をするのか、という発見でした。
思えば出会った頃のおばあさんは、重力などないかのように軽々と歩いたものでした。
所作のひとつひとつが鳥のようになめらかでした。
わかい頃のおじいさんは、その動きのすべてに惹かれたのでした。
そう、思えばおじいさんはおばあさんの身のこなしのうつくしさを知らなかったのではなく、忘れていただけなのでした。
あまりにもおじいさんがじっとみているのでおばあさんは、気味がわるいわね、どうしたの? とひとこと言いました。
おじいさんはどう答えようかといっしゅん思案しましたが、いまさら正直にうつくしいなんていうのも照れくさく、いや、べつに、とただ口ごもったのでした。
――夏の終わりの――
鷹師