本の話WEBというサイトに掲載されている川上未映子さんの連載の4回目を読んだ。
無痛分娩とか高精度の出生前検査とか、それにしても東京から大阪まで新幹線でわざわざ通うセレブ出産、とでもいうのだろうか、なかなかにして、庶民ではまねのできない出産事情ではあるので、あんまり参考にはならないような気もしてきた。
無痛分娩、ってどないやねん、産みの苦しみというものがあるからこそ、その結果生まれてくるこどもへの愛情もひとしおなんとちがうん? とも思いかけるが、よくよく考えると、とつきとおかの胎児との暮らしでも、充分、男性には想像できない苦しみというか苦悩というか苦労というか、もちろん同じく男性には想像できない喜びもあるんだろうけど、とにかく精神的にも肉体的にも苦労があるわけだから、無痛分娩をとやかく言われる筋合いはないのだろう、と思い直す。
ただ、経験できないものには意見する権利がないといわれると、それはそれでちょっと納得できないところもないこともないのだが、話がややこしくなるのでここではやめておく。
といいつつ、無痛分娩のために、新幹線で東京と大阪を往復するっていうのは、そもそも母胎へのダメージとかそういうのは大丈夫なんだろうかと心配してみたりもするが、まあ、そういうのもあるってことなんでしょうね。
前置きが長くなったが、今回のミソは、ラストの部分。
高精度の出生前検査の結果、特に何も気になることはなかったものの、所詮は確率の問題に過ぎないわけで、不安材料をさがせば出ないこともない、っていうそういう状況。
とにかく、出生前検査をすべきかどうか悩んだ結果、することにした理由のおおきな部分、いずれの結果が出るにしても早くわかっているに越したことはない、っていうところで、まあ大丈夫の確率が高い、っていうことがわかった、けれども、ちょっとだけ暗い気持ちが残る、それは、生まれてくる命を無条件で受け入れる、っていう姿勢には自分はならなかった、っていうこと、それで自分にちょっとだけ暗い気持ちが残っている。
そう、技術の進歩はそれまで不可能だったことをつぎつぎと可能にしていく。そして、その技術を活用することを選ぶか選ばないか、という選択の自由をひとびとにもたらす。(経済的その他の制約はあるにしろ。)
けれども同時に、選ぶ自由に伴う責任というものをひとびとに背負わせることになる。
こんな技術がなかったら、こんな苦悩を背負う必要もなかったのに、っていうことは、出産の話に限らず、社会にはたくさんある。
選ぶ自由を獲得するということは、もれなく、選ぶ自由を行使したあとの結果責任を負わされるということでもある。
それに、さきほどかっこでくくった、経済的その他の制約はあるにしろ、の部分もおおきな問題をはらんでいて、一見選ぶ自由があるように見えるものの、実は選べないという事態もあるわけで。
たとえば自分は出生前検査なんてやりたくない、と思っていても、夫や夫の親から有言無言のプレッシャーがかけられたりとか。
かといって、技術の進歩は人間を不幸にする、ってことになるかというと、そうではなくて、やっぱり人間がその技術をどう使うか、っていうところが試されていると思うのだ。
飛躍すれば、原発の問題なんかもそういうところに行きつくのではないかと。
とまあ、未映子さんの文章を読んでいて、勝手にこういう妄想を膨らませてしまったのだった。
――きみは赤ちゃん 第4回 出生前検査を受ける2――
川上未映子