しばらくまえにNHkのEテレで観た番組、「SWITCHインタビュー 達人達」で、作家の平野啓一郎さんと、アルピニストの野口健さんがお互いの仕事場を訪ねあって、興味のあることを聴きあう様子が印象深かった。
野口健さんには、バラエティ番組でみかけたときに風変わりな登山家の印象を抱いていたが、そこはさすがのアルピニスト、深い精神性はバラエティ番組では知ることのできないものだった。
極限状態、生死の境での心と体の動きを他ならぬみずからの経験として知っているひと。
いっぽう、平野啓一郎さんといえば、作品を読んだことはないが、「分人主義」なる考え方を作品中で追及しているらしいと、しばしば耳や目にしていた。
この番組のなかで引用されていたのが、この「空白を満たしなさい」で、その内容に心惹かれたので、読んでみた。
なかなかいいじゃないか。
妻と1歳の息子のいる主人公。
彼は一度死んだのだが、3年後によみがえる。
彼の死因は、自殺として扱われていたのだが、よみがえった本人には、まったく自殺の動機が思い浮かばない。
家族にも仕事にも恵まれ、充実と幸福の絶頂だった自分が、自殺するなんておかしい。
ある出来事の逆恨みである人物に殺害されたのではないかと彼は考える。
こういう話なんだけど、このあたりまでならよくある内容。
けれども、平野さんは、練りに練って、考えに考え抜いて、ある哲学的な考え方をこの作品に盛り込む。
それが分人主義。
ほんとうの自分、といわれる個人に囚われることなく、相手ごと、場面ごとに異なる自分をあるがままに肯定しようという考え方。
それは自己喪失でも乖離でもなく。
対人関係の数だけ存在するたくさんの分人のなかに、ほんのわずかに自分が嫌いな分人がいたとして、それは決して自分のすべてではないのだから、自分のすべてを嫌いになる必要なんてなくて、むしろそういうときには自分が好きな分人たちに意識を向けて、嫌いな分人を見守ってやるという、そんな自分のあり方。
かなりの思考実験を繰り返していると思われる。
誰も経験したことなどないはずなのだが、真実味にあふれている。
ぼくの説明では伝わらないけれども、平野さんの、作品に対する、あるいは生きるということに対する、誠実な姿勢が全編を包み込んでいるのを感じた。
ゴッホの自画像のアイデアには、迫力があった。
唯一無二の自己を過剰に信じるが故の逃げ場のない苦悩から、平野さんの提唱するこの分人主義という考え方が救ってくれるような気がした。
500ページ近い大作だが、読む価値あり、の作品だった。
――空白を満たしなさい――
平野啓一郎