進化について考えよう | (本好きな)かめのあゆみ

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かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

生物の進化、人類の進歩、なんぞという。

科学技術の発展、ともいう。

進化も進歩も発展も意味としては肯定的に使われることが多いが、逆に否定的に用いられることもある。

いわく、科学技術の発展により人類はむしろ幸福を失っている、など。

人間は医療技術の発展によって平均寿命が延びたり不治の病が治ったりするようになったが、それがそのまま人間の幸福に繋がっているかというとそうでもない、というのは近頃多くのひとがなんとなく感じ始めていることだ。

自分の意志とは無関係にいろんな生命維持装置をつけられて、無理やり延命させられるというのはいったい誰のためか。誰がこれで幸福になるのか。

これに対する反論はすでに多く用意されているだろう。

延命しているあいだに医療技術が進んで治る可能性ができるかもしれない。それは患者本人にとっても望ましいことではないか。

あるいは、患者本人のためではなく、患者を長く生きさせたいという家族のためだ、というのもある。

もっと大きな観点から、長寿は個々の患者の問題ではなく人間存在そのものの目的である、とか、延命の是非を問うなんて高度に倫理的な問題を患者本人や家族や医療関係者に委ねては気の毒なのでとにかく何が何でも延命するって決めているのだ、その方が思考停止できて楽でしょ、なんぞということもあるだろう。

ひねくれた見方をして、医療関係者の収入に繋がるから、というひとだっていてもおかしくない。

医療技術の発展は必ずしも人間の幸福には繋がらない。

というよりも、進化、進歩、発展と幸福のあいだにはなんらの相関関係もないというのが正しい見方なんだろう。

まったく異なる出来事になんらかの敷衍性を見出そうとしてしまうぼくの悪い癖かもしれないが、これは医療技術に限った話ではなく、すべてに通じることである。

生物の進化にしても、サルからホモサピエンスに変わることが進化だといっているのは、人間の都合にほかならない。

サルからしてみれば勝手な妄想だということになる。

わたし、サルですけど、あなたより幸福です、それが何か? みたいに思われても不思議はない。

微生物と人間を比べたっておんなじ。

そもそも異なるものを比べることに意味がない。

人間は人間だし、サルはサルだし、微生物は微生物なのである。

1人の人間でもそう。

昨日より今日の自分が進歩するように、なんてスローガンをしばしば目にするが、昨日できなかったことが今日できるようになったからってそれを進歩といって喜ぶなんてどうかしている。

できなかったことができるようになって逆に幸福を失うことだってたくさんある。

知らなきゃよかった、ってことはよくあることだ。

進化することではなくて幸福になることが大切だと言いたいわけではない。

幸福にだって必ずしもならなくてもよいとさえ思う。

幸福かどうかは気の持ち方次第でどうとでもなる、というのはある程度精神の修行を積んでからでないと言えないかもしれないがまあそんなところだろう。

だから同じ状況に置かれても不幸なひとは不幸だし、幸福なひとは幸福なのである。

つまり幸福か不幸かなんてこともたいした問題ではない。

人間が生きる目的は幸福を感じるため、というわけでもないのだ。

幸福を感じることが目的でないのと同じように進化することも目的ではない。

ではなにが生きる目的なのか。

生きることそのものが目的なのである。

すべてのひとに等しく訪れる死を迎えるまで生きるのが目的なのである。

生きるために生きるのである。

あるいは死ぬまで生きるのである。

進歩のためでも幸福のためでもない。

そんなことが楽しいのか、意味があるのか。

そう問うひとにはこう問い返したい。

楽しくなければ生きられないのですか、意味がなければ生きられないのですか。

楽しくなくても、意味がなくても生きるのだ。

生きているから生きるんだ。

犬だって猫だって鳥だってクラゲだって意味がなくても目的がなくても生きているんだ。

結局のところ、もしもほんとうのことがあるとすればそれは、人間も世界も、望もうが望むまいが、変化、流転するということだけだ。

その変化、流転でさえも、宇宙の存在からすれば誤差にも入らない微細な現象なのである。


だからといってね、どうでもいいや、って開き直るのはうつくしくないのですよ。