上町台地から日の沈む西をのぞむとそこにはかつて海であったミナミの地が浮上していた。
ミナミっていうのは船場や島之内からみてミナミではあるものの上町台地のアポロン軸からみれば西であるというのが興味深い。
日の沈む西。
西は死に近い。
道頓堀って安井道頓さんが開削を始めたのね。
先日この仕入れたての知識をひけらかそうと友人に
道頓堀って誰が造ったか知ってる?
と尋ねるとあっさりと
安井道頓でしょ。
と正解を告げられてがっかり。
知らぬはわが身ばかりなり
なのだった。
かつての千日前は刑場と墓場。
刑場の死とそこにつながる芸能。
没落していくものにやさしい土壌。
愛隣とか飛田とかはぼくの感覚ではミナミからは外れているけれども大きくいえばミナミの雰囲気とつながっているのかな。
没落したものたちを受容するやさしさとふところの深さがこのまちの魅力でもあるのだとは思うがながらく大阪で暮らすぼくにとっても少々落ち着かない場所なのである。
アジア的猥雑さというか無秩序さというか。
まあこのアジア的なることばもうさんくさい表現ではあるのだが。
ちなみにぼくはキタ派です。
ぼくの解釈ではキタはおとなでミナミはこども。
要するに秩序のキタと奔放のミナミってことね。
ミナミのまちが死と生を薄膜一枚で隔てているという表現は実感としてなんとなくわかる。
そこに生きるひとはそれとは意識せずとも死を身近に感じているような気配が漂ってくる。
じつは生まれたてのこどもの方が死と近しいのである。
新世界の雑踏はぼくにとっても異空間だ。
時代設定が混乱するまち。
ジャンジャン横丁のなかの将棋倶楽部。
きわどい生活をおくるひとたちの真剣勝負が繰り返されるらしい。
そもそも将棋って知的な野生だよね。
対局中の棋士の目は冷徹な獣のようだ。
さながらうつつの世から遊離しているかのような深遠なる真理の世界。
中沢新一さんが引用する坂田三吉さんのことばが興味深い。
「このレンコンの糸の上でダンスができるかナ――何をアホなて? 心の世界のことや。おのれをなくす、つまり自分というものが空中に消えてなくなれば、十四貫五百のこの身体も糸の上に立てるはず。そやろ。将棋も同じや。おのれにとらわれ、勝敗にこだわってるうちはあかん。アテは五十年間、この無心の心で将棋を指そうとし、苦しんできた。」(『いまに生きる なにわの人びと』朝日新聞社)
まだまだぼくには修行が足りません。
――大阪アースダイバー 【第3部 ミナミ浮上】――
中沢新一