二流文楽論 | (本好きな)かめのあゆみ

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かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

読んですっきり。


ぼくはひとを食ったひとが結構好き。


弱い人を食うんじゃなくて

世間的にえらぶっているひとや気どっているひと

盲目的に権威にすがるひとなんかに

そんなたいしたもんでもないでしょうよ

なんてからかうやりかたが好き。


これは勇気がいることだ。


イワシの頭も信心から

なんていうけど

王様は裸だ

っていうのは命がけだ。


織田作之助さんの

二流文楽論

の前書き部分を読んだ。


二流文楽論

で検索すれば読める。


前書きだけなら10分もあれば読める。


織田作之助さんは愛情をこめて

文楽は二流の芸術であると言い切る。


妄信的に文楽を一流の芸術であると主張するひとたちを

懐疑的に批評する。


かつて自分自身も文楽は一流の芸術であると解釈していたともいう。


けれども考え方をあらためて

文楽を一流であると論じるひとたちは

結局文楽の魅力なんてちっともわかっていなくて

その筋の専門のひとたちが一流だといっているから一流なんだろう

と長いものに巻かれているに過ぎないという。


ああこれは文楽に限らずいろんなことにいえる話だな。


ぼくは大阪人でありながら

正直なところ文楽の魅力はわからないので

芸術一般について考えてみる。


映画でも音楽でも芝居でも小説でも絵画でもなんでもよいのだが

あの作品はおもしろい

とセンスのあるひとたちが評価していれば

自分にはちっともおもしろさが理解できなくても

おもしろいですよね

といわずにはいられないことってよくある。


センスのあるひとがおもしろいっていっているのに

それをおもしろくないなんていったら

自分にはセンスがないと思われやしないだろうか

なんて。


たとえば

たまたま何かの賞を受けたからといって

それまでの遮二無二な感じを失って

なんだか急に一流気取りをするひとなんてみかけると

なんだかからかってやりたくなる。


この

二流文楽論

の論理展開は実に痛快だ。


そして正直だ。


中盤には文学についても書かれているけれど

当時の一流っぽい作家たちに対してそりゃあもうけちょんけちょんだ。


けれどもその内容はきわめて的を射ているように思える。


日本人には西洋人のいう一流の小説は絶対に書けない。


二流であることを自覚して本物の二流の作品を生み出すべきだという。


ここでいう二流とは

一流よりも劣るものというよりも

一流とは一線を画したあらたな世界のことだという気がする。


織田作之助さんのことばはものすごく辛辣で

ぼく自身の胸にもぐさぐさと突き刺さるのだけれど

ほんとうに刺激的でとても戦後すぐの昭和21年に書かれた作品とは思えない。


いい読み物に出会えたなあと思う。


それにしても文楽。


小学生のころに1回観に行っただけだなあ。


大阪だから文楽劇場もすぐ近くなのにね。


けれどもこれは文楽に限らず

能でも狂言でも同じなのだ。


どうもああいうのは

エンターテインメントというよりは

教養が前面に出すぎていて

敷居が高くなりすぎているような気もする。


理解できないひとはご覧いただかなくて結構

とでも言いたげな。


いや

伝統を守ることに必死で

そもそもそんなことは何も考えていないのかもしれないな。


伝統や格式や理屈も大切なんだろうけど

いまを生きる日本のひとの喜怒哀楽に直接はたらきかけるという

原初の姿もとりもどす必要があるんじゃないかな。


外国人に好まれる作品

教養人に好まれる作品

庶民に好まれる作品

といろいろあってもいいのではと思う。


いうなれば

芥川賞的作品も

直木賞的作品も

本屋大賞的作品も

いろいろあってみんないい。


ひとの胸をうつ芸術は

時代の波に洗われてさらに磨きがかかっていくものだと思う。


――二流文楽論――

織田作之助