ナカノシマ大学【秋の特別集中講義】大阪論 Ⅱ「大阪文学に潜むもの」/Ⅲ「海民がつくった都市」 | (本好きな)かめのあゆみ

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「大阪アースダイバー出版記念」

ナカノシマ大学【秋の特別集中講義】

大阪論 Ⅱ「大阪文学に潜むもの」/Ⅲ「海民がつくった都市」


昨日に引き続き行ってきました。


一昨日の寺子屋トークもあわせて

3日連続の中沢新一さんのお話。


まさに集中講義。


講義っていってもはっきりいって趣味ですから

学生時代にはなかったくらいの熱心さで聴いていましたよ。


っていうか学生のときにももっとちゃんと話を聴けば

おもしろい授業もあったかもしれないと思うともったいないったらないです。


こぼれたミルクに泣いても無駄ですけど。


今日の会場は

追手門学院 大阪城スクエア。


全面の窓から見渡せる大阪城の天守閣と公園が贅沢な眺めでした。


豪華。


会場には昨日と同じく和クラシック系の音楽がかかっていましたが

大阪出身の大栗裕さん作曲の

大阪俗謡による幻想曲

というそうです。


祭囃子とクラシックの融合。


まさに

大阪アースダイバー

にうってつけの音楽です。


さて

Ⅱ「大阪文学に潜むもの」。


はっきりいって中沢先生は大阪文学をテーマに話すことを失念されていたか

きかされていなかったかで終わりの方まで文学の話は出てきませんでした。


日本人は中国やロシアやフランスで起こったような社会をひっくり返すような革命は求めていない。

政治と民衆が分断されると革命が起きる。

水戸黄門が好まれていたのは政治と民衆をつなぐ役目を果たしていたから。

けれども革命は起こさず最後には権威の象徴である印籠を示して事態をおさめる。


よくわかるたとえですね。

変わってほしいけどひっくり返ってほしくはないという感覚は確かに感じます。

いっぽうで民衆の蜂起による革命に憧れる気持ちなんかもあったりするんですけどね。

なんかドラマチックで。


今の日本は政治と民衆が分断されている。

政治と民衆を結ぶルートが必要だがそれがなくなっている。

分断されると社会が停滞する。

大阪では庶民から政治家がうまれる土壌ができあがっていてそれが政治と庶民を結び社会に動きを与える。


ぼくは素人が政治家になる大阪の風潮はあまり好きではありませんがこういう見方をされるとなんだか魅力的に思えるから不思議です。


この講義でキーワードになったのはシェークスピアのマクベスのなかのこのセリフ。


きれいはきたない きたないはきれい


きれいときたないは分かちがたくつながっているのが自然の状態だ。

きれいはきたないにきたないはきれいに容易に反転しうる。

人間はそもそもきれいもきたないもあわせもった生き物である。

きれいはきれい きたないはきたない と分けたがるのが近代社会。

分断すると停滞を招く。

きれいときたないをあわせもつことは自己の内部に矛盾を抱えることにもつながるためひとは不安を覚えがち。

きれいはきれい きたないはきたない とわけると安心できるがこれは自然な状態ではない。

無理がある。

きれいはきれい といいたい人はきれいな行為を目指す自分だけしか見えなくなり自分の中のきたないを他人に押し付ける。

他人に対するきたない批判は実は自分に向けられていることに気付かない。

これは国家レベルでも起こる。


ああこれもわかるなあ。

きれいなことは立派に見えるけど同時に不自然さが漂っているものなあ。

きれいを追及することに伴う切迫感や緊張感もぼくとしては嫌いじゃないけどね。

こういうところが権威主義的なのかな。

江戸の武士は食わねど高楊枝もいいと思うんだけどね。


大阪にはきれいときたないをあわせもった組織がたくさんある。


これはちょっと皮肉が利きすぎているような気もしますがうなずかざるを得ません。

でも中沢先生は皮肉というよりも肯定的に語ってるんですよね。


東京の文化がひらたくいえばええかっこしいであるのに対して大阪の文化はええかっこを嫌う。


四天王寺にまつわる物部一族と大和朝廷の争いの話でもう一つのキーワード

負けるが勝ち

が出てきました。


大阪人に根付いている負けるが勝ちの思想はこれからの日本全体で共有していかなければならない。

日本は今後負ける側にまわっていく。

太陽のように蛇のように再生を繰り返していくためにも負けるが勝ちで実をとるという思想が重要になる。


さびしいことですけどぼくも日本斜陽説派なんですよね。

残念ながらかつてのような右肩上がりの成長は日本には起こらないような気がします。

だからこそ右肩上がりの幸せパターンではないあたらしい幸せの哲学が必要なんですよね。


きれいはきたない きたないはきれい

負けるが勝ち


記憶に留めておきたいと思います。


でいちおうあとで大阪の文学にも触れられていました。

素材は織田作之助さんの昭和21年の作品。

二流文楽論。

これは内容がかなり過激で中沢先生の話そっちのけでおもしろかったです。


昨日配られていた資料には

今東光さんの闘鶏

谷崎潤一郎さんの阪神見聞録

織田作之助さんの可能性の文学

が載っていましたが本日は特に触れず。


でも読んだらどれもおもしろいですよ。

谷崎潤一郎さんの阪急電車でのこども放尿の話はぼくはちょっと好きではありませんけどね。

こういうところにもぼくの権力志向があらわれているのでしょうか?

そんなつもりはないんですけど。


Ⅲ「海民がつくった都市」 は

中沢先生と江弘毅さんのトーク。


ここらでぼくも息切れしてきたのでメモの手を休めてお二人の話に耳を傾けました。


東京人は高いところに昇って下や遠くを見下ろすメンタリティ。

大阪人は通天閣を下から見上げて塔に重なる夕日に感激するメンタリティ。

大阪人はよく

あほと煙は高いところにのぼる

というがそれは海民の血をひくメンタリティなのではないか。

京都のまちは設計されているので情報化しやすい。記号になっている。

大阪のまちは人間の営みの中でつくられているので情報化しにくい。

つまり他に代替不能なその土地ならではの都市。

人間は西洋人と人類に分けられる。もちろん人類になるべき。


これだけ読んでもなんのことやら伝わらないと思いますが大阪人みずからが大阪の良さを思い出してグローバリズムに呑み込まれないように自由な大阪を取り戻そう

っていうことでしょうかね。


かなり乱暴な記事でもしかしたらぼくの独自の解釈が独り歩きしているかもしれませんがとにかく元気が出てくるそんな3日間でした。


これから

大阪アースダイバー

を読んでいきますよ。