この悲しみにさようなら。
あたらしい世界にこんにちは。
おれは今この苦々しい世界と決別するために人里離れた山奥の吊り橋の上に立って川を見下ろしている。
靴なんて揃えない。
遺書も書かない。
あたりには誰もいない。
さて飛び降りるか。
――あの、すみません。
びくっ。突然背後から声をかけられた。振り返ると男が立っている。
――もしかして、今から飛び降りようとされてますか?
誰もいないと思っていたところに人がいただけでもびっくりしているおれは、この質問に対して咄嗟にはなにも答えられないでいた。しばらくの沈思黙考を経て、ようやく言葉を絞り出しておれは言う。
――止めないでくださいよ。あなたには関係のないことですから。放っておいてください。さあ、見世物じゃないんだからさっさとあっちへ行ってください。
――あ、やっぱりそうですか。いえ、止めません。あなたの命はあなたに生殺与奪の権がありますからね。平たく言えば、あなたの命はあなたのものですから。ただ、ひとつご相談させていただきたいことがありまして。
おれはこの期に及んで別に雰囲気を大切にしたいわけではないのだが、この男があまりにも緊迫感のない応答をすることに少し調子が狂ってしまい、柄にもなく気が立ってしまった。
――相談?一体なんだって言うんだ。ちょっとはこっちの気持ちを察してくれよ。この状況で相談なんかに乗れるわけないだろうが。おれは自分のことでもういっぱいいっぱいなんだよ。
――あ、申し訳ございません。お気を悪くなされたのならお詫びいたします。しかしながら、ひとつあなたに人助けをしていただけないかと思いまして。
――人助け?なんだよそれ。おれが助けてもらいたいくらいだよ。いや、おれのことはもういいんだけどね。助けてなんてくれなくたって。もう決めたんだから。それともあれか、あんたは悪魔か何かでおれと取引きでもしようって魂胆か。ファウストだかなんだかでそんな展開があったな。
文学好きが災いして、うっかり相手に話のきっかけを与えてしまったようだ。
――そう。ファウストですよ。といっても私は悪魔でもなんでもありませんで、いたって普通の商売人なんですがね。いや、ファウストに倣ってあなたに若返りのチャンスを差し上げようかと思ったんですよ。
――悪魔ではなくて普通の商売人なんだったらおれを若返らせるなんてできないだろう。っていうかおれは別に若返りたくともなんともないんだ。ここから飛び降りてこの世とは縁を切らせてもらいたいだけなんだ。頼むから本当に邪魔をしないでくれ。
――いや、あなたがファウストなんていうから話を合わせてみただけですよ。けれど若返らせるというのは本当です。ただし、あなたの臓器を若い肉体に移植するという意味でですがね。
ははーん。そういうことか。やっとわかった。この男は臓器ブローカーというわけだな。