1年を振り返ってみて
特に時間をかけてぼくが考えていたことを
思いつくままにあげてみる。
キーワードは
●選択と決断
●引用
●脳と身体
この3つである。
それぞれについて
簡単に整理をこころみる。
●選択と決断
政治的なもの社会的なものから
個人的なものまで
ぼくたちの現在は
選択と決断の積み重ねの結果である。
たとえば
地震が起こったときにどのように行動するか。
津波が後ろから迫ってきているときに
動けない家族がいたらどうするか。
海水を注水するか。
仕事をなげうって被災地に駆けつけるか。
どこまでの節電に協力するか。
原発をこのまま動かすか。
どの程度の募金をするか。
消費税の増税を認めるか。
TPP協議に参加するか。
新市長か現職か。
こういう大きな問題も
今日のお昼は何を食べようかというような
小さな問題も
すべてはぼくたちが選択し決断していくことになる。
あるいは
無関心な態度をとったり
誰かに判断を任せたり
という選択もある。
いずれにしても
選択と決断の結果については
それがよい結果でもわるい結果でも
自分で責任を負えるような
そんな生き方をしていきたい。
●引用
川上未映子さんの
すべて真夜中の恋人たち
のなかで聖が言っていたように
ぼくたちの行動やことばや考え方や感覚は
まったくもって
かけがえのないわたし特有のもの
などなにひとつなくて
すべて過去のどこかの誰かの
引用でしかないのかもしれない。
たとえば喜びや怒りの感情でさえも
これまで生きてきたなかで
みたりきいたりしてきたことの
引用に過ぎないのかもしれない。
しょせん引用であるのにもかかわらず
あたかもそれを実感しているかのように
感じることが腹立たしい。
奇しくもことしの読書サロンで
阿部和重さんが
自身の作品における引用の意味について
語っていたのが興味深い。
誰もが知っている
どこかの誰かの物語のイメージを
自身の作品にコラージュのように
潜り込ませることによって
多層的な世界観を構築できる
みたいなことだったと理解している。
けれども
あんまり最近の作品の世界観を
引用するのはいただけないと感じてしまう。
なんだか
引用の引用の引用の引用の・・・・・・・・
みたいな感じで
引用するたびにそのものが痩せてきて
オリジナルとは似ても似つかぬ
貧しいものになっていきそうだ。
どうせ引用するなら
ギリシャ神話や古事記の世界観を引用するほどの
ダイナミズムがほしいとぼくなら思う。
そういうわけで
ぼくはできるだけ古いものに
源流に
触れてみたいという欲求を抱いてしまうのだ。
●脳と身体
脳が身体を支配していると
考えてしまいがちだが
そんなことは全くの錯覚で
むしろ身体の制約の範囲内でしか
脳は世界を広げられないという。
言い換えれば
脳は身体に支配されているということ。
心臓や胃は脳ではコントロールできない。
はっきりいって脳のあずかり知らぬところで
身体は動いている。
ついつい脳を中心に世界を捉えてしまうが
結局のところ脳は心臓や肺や筋肉や骨と同じように
肉体の一器官に過ぎないのだ。
脳が考えることにだまされてはいけない。
身体のほんの一部に過ぎない脳に頼り過ぎずに
身体全部を使って世界と与していきたい。
さて
来たる年
何を考えてぼくは生きていくだろうか。