メメント・モリ×2 | (本好きな)かめのあゆみ

(本好きな)かめのあゆみ

かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

人はいつか死に

恋人たちはいずれ別れる。


ということを自覚すると

無性に今がいとおしくなる。


メメント・モリにはそういう効用がある。


自分が死んだあともこの世界が続くという保証はない。


生きていると思っているぼくが認識できることは

すべてぼくを主人公とした誰かの創作ではないか。


ぼくが認識したときだけ演じる役者たち。

世界の出来事や歴史さえ。






 いつもの箕面までの散歩道。片道1時間、途中の喫茶店で休憩と読書を兼ねて1時間過ごすので、都合3時間かかる。秋の過ごしやすい気候のおかげで歩く気分も清々しい。清々しいからこそ、散歩のテーマはあえて「メメント・モリ」ということにする。死について考えるのは、心身ともに健康なときに限る。

 ぼくが死んでも世界は続くと思い込んでいるが本当にそうであろうか、とふと疑念が脳裏をかすめる。ぼくが認識している世界はあくまでもぼくだけのものであって、認識するぼくが死んでしまえば世界も同時に消滅する可能性はないのか。

 いや、世界では日々たくさんの人が死んでいるが世界は消えずに続いている、だからぼくが死んでも消えるはずはない。そうだろうか。世界で日々たくさん死んでいる人々はもしかしたらぼくの認識する世界だけの出来事なのかもしれないではないか。

 ぼく以外の人々はそれぞれが自意識をもちながらそれぞれを中心とした世界を生きていると考えること自体がぼくの認識に過ぎないのではないか。家族も友人も道ですれ違う人たちも実はぼくの認識のなかだけの登場人物でぼくの視界に入っていないときにはその存在自体がないのではないか。

 いや、視界に入っていなくてもその存在は認識できる。たとえば目を瞑っていても触れ合えばそこに存在することは確かに分かる。ん、それは確かか。確かといえるのか。目を瞑っている以上、たとえ触れた感触や聞こえる声がその人であったとしても、もしかしたらそれはぼくの脳内で合成されただけの非存在の情報かもしれない。

 そうやって考えるとそもそも視覚さえもが疑わしい。すべてはぼくの脳内の電気信号の組み合わせなのか。自分が認識しているものだけが存在して、認識していないものは存在しない。ああ、わけが分からなくなってきた。

 五感を疑うとぼくの手には負えないので、ここではひとまず五感で認識できることは存在することとする。

 あ、いま買い物をする女性とすれ違った。すれ違った女性は存在するか。ぼくの視界に入っていたあいだは、存在していたこととする。しかし視界からはずれた瞬間、その女性は消えているかもしれない。そして振り返った瞬間に何事もなかったかのように現れるかもしれない。

 それはすれ違った女性だけではなくぼくの視界の外側はすべて消えているのかもしれない。消えていないかどうかを確認するすべはない。しいていえば消えたものが再び現れるよりも速く視界を動かす方法がある。ためしにものすごく速く首を回して振り返ってみる。

 まだまだだ、こんな速さでは到底奴らの正体を暴くことはできない。もっと速くもっと速く。頑張って首を素早く回しているとこんなことを思い出した。鏡で自分の後頭部を見る実験。後頭部を鏡にうつしておいて、すばやく首を回転させて後頭部の残像を視界におさめる。これにいまだかつて成功した人類はいない。もっと速くもっと速く、そう光よりも速く。

 いや、光よりも速くなんて無理。首が痛いわ。首がちぎれて飛んでいってとんでもないスプラッターやわ。しかしそんな、これまでは不可能と思われてきた光よりも速い首の動きも、ニュートリノの原理を応用すれば可能な時代がやってくるかもしれない。(ニュートリノが光よりも速いかどうかはまだ確定していないし、きっとこれから、光よりも速い物質の存在があっては都合が悪い闇の組織が暗躍してやっぱりあの実験結果には間違いがありました、っていう結論になるのだろうが・・・)

 これでついに鏡で自分の後頭部を見ることができる時代が到来する。ばんざーい。いや、自分の後頭部を見ることだけなら、今でも鏡を2枚使えば見られるし、美容院などではおなじみだし。カメラで撮影するっていう方法もあるし。

 何の話だっけ。そう、自分の視界から外れている世界は存在していないかもしれないっていうことだ。たとえばぼくが、誰かの小説か何かの登場人物、それもいちおう主人公だとする。小説の世界では、書かれていることだけが世界で、書かれいていないこと、いわゆる行間は読者の想像の産物である。したがって、登場人物であるぼくの認識できる世界は書かれていることだけである。この小説を書いているのは、神といってもいいかもしれないし、もっとくだらない存在の単なる暇つぶしかもしれない。あ、なんかこういうの読んだことがあるなあ。ソフィーの世界ってこんな感じだったっけ。

 そういえば、視界から外れた世界は消滅している、っていうのもマトリックスっぽいな。そういう意味では、プログラムのコードを解読すれば、ありえない速さで首を回して消えている本当の世界をみたり、逆に望みどおりの世界につくりかえたりもできそうだな。

 いや、それにしてもどれもこれも受け売りじゃん。まいったなあ。オリジナリティあふれる妄想だと思っていたのにな。だめだこりゃ。

 そう考えているうちに、箕面の滝道に入り、昆虫館を抜け、瀧安寺あたりまでやってきた。時間があれば滝まで行くが、今日はなんだか望海丘展望台に登りたい気分。いや、登ったことはないんですけど。で、登り口には展望台まで380段との表示が。380段くらいならちょろいちょろい、と簡単に考えて登ることにした。このとき、なぜか380段イコール380歩とイメージしていたのが、軽率といえば軽率だった。

 一段一段数えながら登る。数段登った段階で、1段イコール1歩ではないことに気づく。しかし引き返しはしない。なぜならばそこに展望台があるからだ。100段も登らないうちに息が上がってくる。200段を過ぎるころにはただならぬ激しい息遣いになってしまっていた。

 すれ違う人がほとんどいなかったから良かったものの、変質者ばりのはあはあ言いようだった。378、379、380。通報もされずになんとか望海丘展望台に到着。若い男女がそこのベンチで休憩しているのが視界に入ったが、視界から外すことによってその存在を消滅させる。甘いささやきあいの声が聞こえたが、これはぼくの脳が電気信号でつくった幻聴ということにする。

 展望台からの眺めはなかなかのものだった。望海とはいえ海はさすがに見えなかったが大阪平野が一望できて高いところ好きにはもってこいの場所だった。アベック連れがいなかったらこの景色はぼくの独り占めだったのに。っていうか、きみたち、景色を見ないならとっととここから去ってくれたまえ。とは到底言えず、変質者ばりの息遣いがようやくおさまった頃合を見計らって、階段を下る。

 登りは心肺に厳しかったが、下りは膝腰に厳しかった。それにしても、あのアベック、まだ密月だな、と思う。付き合いが長くなると、「登ってみようか?」「いや、わたしはパス」「だよねー」ってなるからだ。あそこまでふたりで登れているだけで幸せの渦中だ。絶頂期だ。そんなテンションはそう長くは続かないぞ。完全に幻影に惑わされているぼくであった。