祈り | (本好きな)かめのあゆみ

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かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

祈り といおうか お祈り といおうか、今は 祈り といいたいそんな気分、もっとも特にはっきりとした定義づけを自分なりにしているわけでもなく、単に お祈り っていうと 朝のお祈り みたいに定例化、習慣化させた、ちょっとひどいいい方をすればマンネリあるいはルーティン・ワークの匂いがするから、っていうだけで、そういうありふれたのとは違う特別なっていう意味を持たせたいが故の 祈り。年の初めの祈りの場は貴重です。僧侶いわく、この部屋に入ってしまった以上これから少なくとも20分間は買い物に行くことも仕事をすることもできないわけだから、諦めて意を乗せることに集中してください、薄暗い部屋、読経の声や太鼓の音、鐘の音などは祈りに集中するための環境です、わたしたちにできることはそういった環境づくりです。なるほど、世事を諦めて祈りに集中するわけですね。日常生活ではなかなか得られない貴重な状況。祈り すなわち 瞑想、って勝手な都合で言い換えてみるけれども、本当ならば、普段の生活のいたる場面に瞑想のチャンスは転がっているはずですが、そのチャンスをモノにできない俗物には、強制的に瞑想させていただけることはありがたいことこのうえなしです。考えてみれば、単調な作業をしているときこそ瞑想に相応しいのかも、たとえば、ただ歩いているとき、ワイシャツにアイロンがけをしているとき、何百枚もの定型の書類にスタンプをひたすら押しているとき、お風呂に入っているとき、マンネリやルーティン・ワークは瞑想と相性が良いのかもしれません。棒の先に付いている白いふさふさした紙で頭をなでられると、目をつぶっていることとあいまって、正座の上半身がわさわさとさざなむ感じ、邪気が取り払われる感じ。瞑想は静けさの中にあると思いがちですが、体験上はほどよく音に包まれている方が入り込みやすいのです、実感です。法螺貝の二重奏、読経のハーモニー。燃える炎は原始的に神秘的、それは動物時代の記憶なのか、マグマの地球の記憶なのか。年末の忘年会を思い出す。ぼくはパチンコはやらないのであれのどこが楽しいのかちっとも分かりませんが、すごく人間的に優れた尊敬すべき同僚はパチンコが大好き。パチンコのイメージはドロドロに世俗にまみれているのですが、その同僚がやっている姿を想像すると、いかにもパチンコ台に向かっての瞑想、あるいは座禅、起きて半畳、寝て一畳。同僚は、そんなあほな、と否定するけれども、ぼくは、パチンコは瞑想である、といってしまいたくてしようがなくて、いってしまう。あの耳をつんざく騒音に包まれての座禅。耳を殺し、目を殺し、触覚、嗅覚、味覚まで麻痺させて、そこに残るのはただひたすらに想念。無とか空とか。そして思う、この場に居合わせた人たちは、何ゆえにこの場に居合わせたのか、と。一言ではとうてい語れないような、ワラにもすがる思いでやってきた人もいるに違いない、勝手にいろいろ妄想を膨らませるがここではいうまい、というより、こんなときにそんなことを考えているぼくの煩悩。全ての居合わせた人々の祈りが届きますように。正座で足が痺れることもなく、楽しい20分の祈りの時間はあっという間に過ぎ去り、あらためて僧侶いわく、新年のこの思いを忘れないように、といっても人間は弱いものですから忘れてしまうでしょう、気を抜くとそこには魔が入り込んできます、魔がさすでしょう、ですからできるだけ忘れないように、間もなく阪神淡路大震災から16年、亡くなった方にとっては17回忌を迎えます、私の祖父母は一つの布団で寝ていて、崩れた梁の下敷きになって祖父は亡くなり隣の祖母は無傷、同じ布団のうえでも生死が分かれるこの世界は実に不安定なもの、一期一会を大切に。徒歩で片道20分の道のり、行きは特に何も考えず歩いていたけれども、帰りは何だか脳内に色々な思いが噴出してきているのにこころ穏やか、道ですれ違う人々の来し方行く末を思い幸福を祈るぼくは何様のつもりか、まさに透明な存在となっていて、瞑想の時間をありがとう。この歩き心地は何かに似ている、そう、いい映画を観た帰り、あれこれと考えているあの歩き心地、これって感化?安っぽいのか安っぽくないのか、ともかくも、瞑想の時間が気に入り、なおかつ、日常生活のなかに瞑想の時間を取り入れることなぞきっとできないであろうぼくだから、ことしはなにしろどこかのタイミングで、今流行りの修行体験、座禅とか滝行とか、そういうのに行ってみたいと思いつつ。一期一会、さあ覚悟を決めて明日から仕事に真面目に取り組むぞ、と思うのも束の間、具体的な仕事を思い出しただけで、胸がキュンとなる、この胸キュンは恋するときの胸キュンと生理的には同じだが、心理的には何の甘い記憶とも結びつかず、ただただ心臓に悪いだけに違いないのだが、そういうわけで、やっぱり気が重くなるのも人間社会の摂理、それを食い止めるための瞑想、そうだ、お寺へ祈りに行こう、というエンドレス、無限のルーティーン。