千里中央のセルシー、昭和の夢のあと
千里中央のセルシー、昭和の夢のあと
先日、岸和田駅周辺の凋落ぶりを見て、北大阪と南大阪の格差について書いたが、
※大阪の南北格差を垣間見た
https://ameblo.jp/takashihara/entry-12875642964.html
今度は、北大阪の中でも、昭和に栄えた地域が、令和の今、滅びつつあるような気配を感じた。
大阪府豊中市の千里中央、セルシーは昭和の高度経済成長期に、最先端だったショッピングセンターで、現在のショッピングモールのはしりだった。
セルシーの、この写真のステージでは、過去、多くの歌手やアイドル、アーティスト達がライブを行った。
今は、もう廃墟化しつつあるこのセルシーの広場と、ショッピングセンターの建物は、昭和の雰囲気を色濃く感じさせる独特のデザインだ。
千里中央といえば、70年大阪万博に際して吹田市と豊中市、茨木市にまたがる千里丘陵が大規模開発されたのち、交通と住宅地の拠点として出来上がった人工都市だ。千里中央の広い敷地に、阪急の百貨店とホテルが核となって、商業スペースが配置され、地下鉄(北大阪急行)のターミナル駅ができた。この駅から徒歩圏内に多数の住宅、集合住宅が建ち、勤め人はここから始発に乗って大阪市内の中心部に楽々と通勤できた。さらに、この千里中央の敷地のそばを、新御堂筋と中央環状線のメイン道路が交差して走っていて、自動車やバス・タクシーで新大阪や大阪市内の御堂筋に直結していた。中央環状線(中環)は、東西に伸びて神戸方面と京都方面、さらに大阪南部へのメイン道路となっていた。
こういった交通と生活の中心地としての千里中央のショッピングセンターに、セルシーという名の文化スペースが作られていて、前述のライブだけでなく、昭和の時代の最先端だったスポーツクラブ、スイミングスクールもあった。
筆者は大阪府の北摂地域、茨木市の出身だが、子どもの頃からセルシーの名をよく聞いた。それは幼少期から通ったスイミングスクールで、記録会という大会があって大阪市内の大きなプールに出かけて行くと、強敵として「セルシー」の泳者が活躍していたからだった。セルシー、といえばスイミングでめちゃくちゃ早く泳ぐスクール、という第一印象だった。
もちろん、のちにはライブスペースとしてのセルシーもお馴染みとなったし、勤め先の関係で、食事や買い物でしょっちゅう立ち寄る場所となった。
今、改めてみると、セルシー、千里中央は実によくできた人工都市だと実感する。それでも、北大阪急行線が千里中央終着ではなく延伸し、箕面まで延びて、千里中央が途中駅になってしまった現在、徐々に千里中央の存在感は薄れて行くだろうと予感する。
昭和のセルシーの跡地を、どのように再開発しても、あの輝かしい栄光は2度と戻らないだろう。
千里中央の核としての千里阪急ホテルも、レトロな良いホテルなのだが、いつまで営業していてくれるだろうか?