小川国夫のスピーチ(2007年9月29日藤枝にて、藤枝市郷土博物館・文学館の開館記念パーティー) | 作家・土居豊の批評 その他の文章

小川国夫のスピーチ(2007年9月29日藤枝にて、藤枝市郷土博物館・文学館の開館記念パーティー)

小川国夫のスピーチ(2007年9月29日藤枝にて、藤枝市郷土博物館・文学館の開館記念パーティー挨拶)

 

僕は、挨拶やりたいって言ったわけじゃない。やれっていうから、やむをえず。

それで、今日、新文学館で、愛語の話をしました。わが道元禅師は、肝心なことを、二字につづめて見事に言ってるわけですね。僕は、大変感心しているわけです。大変感心して、しょっちゅう考えるんだけど、今や、ちょっと理屈っぽく言うと、わが日本の言語状況は、大きくカーブを切っておりまして、例えば、言語を集める人は、少し前は、カードを使った。それは、僕は聖書の翻訳をやったから、たちまちぶつかったんですが、大きな箱がありまして、そこに単語カードがぎっしり入っていて、すぐれた翻訳者は、「これは私が作った」と誇りにしている。

ところが状況が変わりまして、今はコンピューターの中に全部仕込むと。翻訳者は大変それを嫌いまして、「このようにして、日本の言語学者は、言葉を自分から離していっている。私どもの頃は、この箱の中にあるのが私の言葉だ、という認識で、今やコンピューターソフトの中にある無数の言葉が私の言葉だ、という認識をもっている、これは甘い」という。言葉というものは、自分の肉体の中に持っているからこそ言葉なんで、外に自分の作った、いかに大きな字引ないし字引のようなものがあっても、ひとたび身から離れちゃったものは、その人の言葉ではない、という大変参考になる厳しい認識を語ってくれました。

それで、いにしえの本を読みますと、ソクラテスというのは、後にマルクスやレーニンが弁証法の元だといって褒め上げた哲学者ですけれども、本が嫌いだったという説があります。なぜかというと、自分の考えを本にしてしまったら、藤枝にいても、焼津にいても、東京にいても、自分の肉体の中に備わっている言葉じゃなくなってしまう。その本を藤枝に置き忘れたら、もうその言葉を自由に駆使することはできない。それで大変すぐれた定義ができまして、言葉というのは能動的瞬間である、といったのです。能動的瞬間というのは、例えば、ある問答をしかけられたら、即座に答えられる言葉であり、待ってくれよ、本みてから、っていうのは、その人のほんとの言葉じゃない、と思います。

これは、我が母校である藤枝東高校のサッカー部をよく観察すればわかることで、ボールが目の前にポンっと弾んだとき、ボレーシュートにするか、ワントラップで蹴るか、ツートラップで蹴るか、というのは、即座の判断で、それができない人は名選手とはいえない。だから僕の認識からいいますと、言葉というのは、すぐに使えるように、目の前に落ちてきたら、すぐにそれに対応して使えるような状態になっていなければ、自分が言葉を持っているとはいえないわけです。

ですから、能動的瞬間であるという定義がソクラテスから出てきたというのは、大変正しい説だというふうに思います。だから、今日のカードにしろ、コンピューターにしろ、かりそめのもので、それを使って私どもは大変便利な思いをしておりますけれど、本当に自分の言葉というのは、我が身に備わっていなければいけない。

ですから、我々は、ある言葉使いをすると、その人は大変ノーブルだ、貴族だと言われる場合もあるし、あの人は漁師だといわれる場合もあるし、あの人はお百姓だと言われる場合もありますけれど、それは、言葉がその人の身分をそのまま表すわけです。

ここに役者さんがいてですね、漁師でもないのに、ありありと漁師を演じてみせるというのは、漁師の言葉をよくよく研究して知っているからで、今まで私がお話したことでお気づきだと思いますが、小説書く人は、やっぱりそれができなきゃいけない。本のなかに、言葉を体系的に蓄積したとしても、それではもちろん、小説は書けません。肉体の中に言葉を持っていて、臨機応変に原稿用紙に表現できなければ、「私は言葉を持っている」ということは言えません。

それで、今日、藤枝市は、言葉を愛するという土地柄になってきたら、どんなにいいだろう、という意思を、趣旨のことを申し上げたけれど、言葉を愛するということ、そういうことでありまして、ま、ちょっと厳しく申し上げると、「僕は日本語なら知ってる」というを安易にいう人がいますが、必ずしもそうは言えない。我々は日本語を知らないのです。だから、知らない以上は知る努力をするのは当たり前のことにある。またその努力をすべき分野はですね、大変、どなたも、私もしかりですが、これから努力しなきゃいけない分野を抱えているわけです。だから、やってもやっても苦労が尽きない。換言すれば、楽しみは尽きないわけです。そういう覚悟で過ごしたらいかがか、と。自分を人に押し付けるような言い方で、ちょっと恐縮ですが、そういうふうに考えます。

なんかちょっときつい話になりましたが、言葉を覚えてください、ということですね。ただ勉強して読んだというだけでは足りない。肉体化した言葉をお持ちください。ということなわけです。話はかたくなりましたが、一応ぼくの話はこれで終わりですから、かたいところは取っ払ってですね、愉快な夜になさってください。どうも、失礼いたしました。

 

(文責・土居豊)

 

※参考ブログ

没後15年、小川国夫の再評価を待ち望む

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12797439580.html

 

 

 

スピーチする小川国夫(2009年9月)

 

 

 

 

 

小川国夫宅(静岡県藤枝市)

 

 

(小川国夫がいつも待ち合わせに使った喫茶店、JR藤枝駅前)