吉田秀和と宇野功芳の2人が日本人の音楽受容に与えた影響の大きさ | 作家・土居豊の批評 その他の文章

吉田秀和と宇野功芳の2人が日本人の音楽受容に与えた影響の大きさ

吉田秀和と宇野功芳の2人が日本人の音楽受容に与えた影響の大きさ

 

※参考本

文藝別冊「吉田秀和 音楽評論を確立したひと」河出書房新社編集部(編集)

 

https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784309979731

 

 

30年以上前から、吉田秀和を読んでクラシックを聴いてきた。改めて思うのは、吉田秀和と宇野功芳、この2人が日本人の音楽受容に与えた影響の大きさだ。良くも悪くも音楽をロマン主義的にしか聴けない傾向を、日本人に植え付けた。

吉田秀和には、現代音楽をどうしても愛せない自分について論考した著作がある。正直で良いのだが、その吉田の姿勢は、日本人の多くの音楽ファンに、現代音楽忌避のお墨付きを与えたように思う。

宇野功芳の場合は、もっと影響力は少ないが、音楽マニアの中に少数だが極端なロマン派偏重の、コアな層を生んだ。

吉田秀和と宇野功芳があまりに人気がありすぎたため、日本人の音楽批評は後期ロマン派的な印象批評が本流?になり、アナリーゼをきちんとやる音楽批評がマスメディアに根付かなかった。

そのせいで、日本の批評には音楽批評がジャンルとして確立されないままだ。主要新聞でも文化欄で音楽批評は寂れている。

音楽批評をマスメディアに書いたり解説したりする需要が乏しいため、音楽を専門に学んだ若い人たちが、ライターになる機会がほとんどない。他の批評分野では若手が育っていく道があるが、クラシック音楽批評やライターは、物書き業としてもマスメディアの解説者としても、成り立たない。書いているのは、いつも定番の人ばかりだ。

ネット時代になっても、クラシック批評だけは、検索しても素人ブログが上位にくる。音楽批評のプロが少ないし、読者からの需要も少ない。

だが、このことは、日本のクラシック音楽のジリ貧状態をまねいた原因の一つだ。批評、論争なきジャンルには発展がないからだ。今や、クラシックの演奏会やCDがメディアに論争を巻き起こすことは、絶えてない。

ちなみに、筆者自身も数年来、プロのオーケストラの記者会見や取材をあれこれ体験してきた。その経験から、マスメディアの中で、クラシック音楽批評の需要がいかに少ないかを痛感した。筆者の関係したのが在阪のオケばかりだから、特に需要が少ないのも残念ながら事実だ。だが、かつてはそうではなかったはずなのだ。日本の場合、音楽でさえ東京一極集中でありすぎる。

また、せっかく取材、記者会見を見ても、大手のマスメディアの報道は、通り一遍でしかない。

さらに、音楽マネージメント自身が、一部の音楽批評以外を拒絶している現状がある。フリーの立場の筆者が新進気鋭のアーティストから取材しようとしても、マネージメント会社が遮断する。そういうわけで、通り一遍の宣伝記事しかメディアに出ないことになる。

日本人のクラシック演奏家は、いつから閉鎖的な囲い込みの中に隠れるようになったのだろう?

20年前ぐらいまでは、そんなことなかったはずだ。近年では、新進気鋭の演奏家に独自インタビューしようとしても、記事を発表しようとしても、マスコミルートじゃないと断られる。

一方、マスコミ側は、よいしょ記事しか載せない。

一体、よいしょ記事ばかり読んで何が面白いのか?

吉田秀和や宇野功芳の書いた音楽批評記事は、それこそ印象批評だが、けちょんけちょんに批判する記事も多々あった。一方で、大絶賛する批評もあった。批判と絶賛の両方があるから、読者は彼らを信頼して、演奏会やレコードを買って聴いたのだ。

よいしょ記事では、聴き手は信頼できない。

たとえそれが印象批評だとしても、音楽批評家が大絶賛する演奏とこき下ろす演奏には、それなりの基準がある。好みの合う批評家が大絶賛するなら、聴きに行こうと思うことも多いのだ。そもそも音楽批評とは本来そういうものではなかったか。

マスメディアのよいしょ記事ばかり読まされては、自分たちが音楽の何を好むのかさえ、わからなくなりかねない。

例えば、自分たちがたまたま聴いた演奏会やCDが、どうもいまいちだったとして、マスコミのよいしょ記事ばかりを読まされては、自分の耳が変なのかと思わされかねない。

また、自分の聴いた音楽演奏が気に入ったとして、よいしょ記事を読んでちょっと違うと感じても、自分の聴き方が間違いなのかな?と考えてしまうかも知れない。

現在のクラシック音楽批評は、マネージメント会社の言いなりに書いたよいしょ記事ばかりがマスコミで流される。こういうことでは、日本人の音楽鑑賞力が衰えるばかりだ。批評力ももちろん衰える。

これは、実は本当に重大な危機なのだ。

特に近年、戦前の国粋主義的な楽曲を賞賛する演奏会が繰り返されているのは、かなり怖い事態だ。本当の鑑賞力を持たない多数の聴衆が、国粋的な楽曲を褒め称えるマスコミのよいしょ記事を間に受けて、その音楽が素晴らしいのだと思い込まされてしまうのは、国民を一定の方向へ誘導するために実に有効な方法であることを、前世紀の歴史はすでに知っている。

今また、同じことが繰り返されようとしているのでは、20世紀の音楽批評は一体何だったのか、わからなくなるではないか。

 

 

※参考記事

『海道東征』は『森の歌』になれるか?

音楽の力は恐ろしい。そう知っているからこそ、このコンサートを筆者は不気味に感じる。

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12350085204.html

 

 

 

吉田秀和『世界の指揮者―吉田秀和コレクション』

 

https://www.amazon.co.jp/dp/4480423923/ref=sr_1_67?qid=1554900483&refinements=p_27%3A吉田+秀和&s=books&sr=1-67

 

 

宇野功芳『指揮者・朝比奈隆』

 

https://www.amazon.co.jp/dp/4309266134/ref=sr_1_42?qid=1554900584&refinements=p_27%3A宇野+功芳&s=books&sr=1-42

 

宇野功芳『新版 クラシックCDの名盤』

 

https://www.amazon.co.jp/dp/4166606468/ref=sr_1_2?qid=1554900649&refinements=p_27%3A宇野+功芳&s=books&sr=1-2