『海道東征』は『森の歌』になれるか?
『海道東征』は『森の歌』になれるか?
音楽の力は恐ろしい。そう知っているからこそ、このコンサートを筆者は不気味に感じる。
※参考記事
《海道東征コンサート、建国の勇壮な調べ1700人魅了 大阪》(2018.2.2産経)
http://www.sankei.com/west/news/180202/wst1802020079-n1.html?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter
昨今の戦前回帰運動の担い手である産経新聞の主催するこのコンサートは、当日の会場写真を見ても、大入り満員のようだ。
なぜ、今、この曲なのか?
上記の参考記事にあるように、この曲のリバイバルは、もともとが産経新聞の企画だったようだ。復活上演ののちも、何度も繰り返し公演が行われている。報道記事によると、その度に会場は大入り満員になっているようだ。
なぜ、この『海道東征』を特に取り上げて、大手の新聞社が後援して、各地でコンサートが盛り上がるのだろうか?
どうしても色眼鏡で見てしまうのだが、以下のようなイデオロギー先行のキャンペーンがなければ、今の時代にこの曲が大々的に取り上げられることは、難しかったのではないだろうか。少なくとも、戦前の日本作曲家の楽曲を懐古的に聴く意義以上のものは、見出しにくいように思えるのだ。
※参考記事
《正論 新春対談 渡辺利夫氏 明治人を育んだ幕藩体制「明治150年、覚醒始まる」 新保祐司氏 強い民族に歴史回想の力「海道東征」はモーセ》(2018.1.3産経)
http://www.sankei.com/column/news/180103/clm1801030005-n1.html
常々思うのだが、クラシック音楽の場合、あれこれ能書きが先行する曲や演奏に限って、あまり心に響かない。ただでさえ、長い年月を生き残ってきた音楽なのだから、予備知識抜きで聴いても、心に響いてくるのがクラシックというものだ。
その点でいうと、この曲は、事前の能書き抜きで、それも他の作曲家の曲と抱き合わせで、普通にオーケストラの演奏会の演目として公演してみるといい。
果たして、その場合、会場は大入りになるだろうか? 感動したという聴衆の声がどれほど聞けるだろうか?
この『海道東征』のように、特定のイデオロギーに利用された歴史を持つ楽曲は、それをあえて復活させるにあたって、よほど慎重にやらなければ、結果的にイデオロギーを前提として聴く羽目になる。
この曲と似たような例が、ショスタコーヴィチのオラトリオ『森の歌』の場合だろう。
『森の歌』は、ショスタコーヴィチがスターリンに従う姿勢を示すために作ったスターリン讃歌だと言われている。その後、スターリン批判が行われてからも、あくまでソ連のイデオロギーを讃える楽曲だという扱いをされてきた。だから、日本で長くコーラス団体に歌い継がれてきた曲ではあるが、どうしても、イデオロギー的な臭いを払拭できないままだった。
その後、ソ連崩壊後、この曲は完全に忘れ去られるはずだった。なにしろ、ソ連崩壊の直後に発売されたこの曲のフェドセーエフ指揮によるCDは、「最後の録音」扱いされていたぐらいだ。
ところが、年月を経て、今では、複数の指揮者がこの曲を新たに録音するようになっているし、コーラスのレパートリーとしても復活してきているようだ。
※参考記事
エッセイ「クラシック演奏定点観測〜バブル期の日本クラシック演奏会」第15回ウラディーミル・フェドセーエフ指揮 モスクワ放送交響楽団来日公演 1988年
https://note.mu/doiyutaka/n/na3fde3ffc778
※参考CD
この『森の歌』の場合のように、能書き抜きでも愛唱され、愛聴されるようならば、その音楽は、イデオロギーを超えてクラシックとして聴き続けられるだろう。
『海道東征』は、そうなっていくだろうか?
そのためには、イデオロギーの垢を洗い落として、純粋にコーラス曲として、能書き抜きでコンサートを重ねていくしかないだろうと思う。この曲が長く聴き続けられるためには、今回のようなイデオロギー先行の公演はむしろ逆効果だと言える。
最後に、この『海道東征』がどの程度の「レベル」の曲なのか、筆者には本当のところ、よく分からないので、以下の文章を参考に挙げておく。日本を代表する作曲家のひとりだった団伊玖磨氏のエッセイの中に、戦前、皇紀2600年祝祭の際にこの曲を聴いた感想が書かれている。
※引用
団伊玖磨「どっこい パイプのけむり」より
《信時潔作曲の大掛かりな交声曲「海道東征」だった。この方は作詩が北原白秋の最晩年のものだっただけに、言葉は見事なものだったが、音楽は何処迄も続く四声体、そして実に簡単な和洋折衷が基本になっていた。
(中略)
その上管弦楽の書法が驚く程貧しかった。四声体を只管弦楽に置き換えただけの、今では考えられない驚きのものだった。》
このように、少なくとも作曲家・団伊玖磨氏の耳には、戦前の当時でさえ、『海道東征』が現代音楽としては価値の低い楽曲に聞こえた、ということだ。
※参考ブログ
『海道東征』をイデオロギー的に利用するコンサートには反対だ
https://ameblo.jp/takashihara/entry-12341517805.html

