🔷 「私の想い」の中の「私にとって由美子はどのような存在だったのか」の前半を掲載します。🔷
タイトルは『由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い』
(ハードカバー 四六版 モノクロ264ページ)です。
2016年1月25日 発行
著者 藤巻 隆
発行所 ブイツーソリューション
✍『由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い』(第14回)✍
「私の想い」の中の「私にとって由美子はどのような存在だったのか」の前半を掲載します。
私の想い(4)
私にとって由美子はどのような存在だったのか
最愛の妻であったことは言うまでもありませんが、私の良き理解者であり、「唯一無二」の存在でした。そして、現在も未来もずっと「唯一無二」の存在です。なぜなら、由美子は一人娘の可奈を産んでくれ、二十一歳まで育ててくれた、この世で、いやあの世も含め、たった一人の女性だからです。私には、由美子の代わりはいません。私が本気で愛した女性は、由美子ただ一人だからです。
誰がなんと言おうと、私にとって、由美子は最高の妻であり、最高の女性であり、最良の理解者です。過去形ではありません。永遠にそうです。今、一番逢って話したい人です。
「永遠の愛なんてあるのかな?」と考えたことがあります。
今なら言えます! 断言できます! 永遠の愛は存在する!
「愛」という字の中には、「心」が真ん中にあるので真心で、「恋」という字の中には、「心」が下にあるから下心だ、と言った人がいます。由美子への想いは、もちろん「愛」です。
永遠の愛は存在する! ダサいと言われそうですが、そう固く信じています。
愛には、「夫婦愛」「親子愛」「家族愛」「異性愛」「同性愛」「動物への愛」「植物への愛」があります。他にはモノに対する愛もあるかもしれません。見返りを求めないことが真の愛だ、と考えています。見返りを求めるということは打算です。打算はすべてが計算の上に成り立っています。それは、愛ではありません。自己都合を第一とした考え方です。「利己」です。「利他」ではありません。ただひたすらに、相手のことを思いやり、見返りを一切求めず、与え続けることです。与え続けるのは、モノではありません。心です。愛です。
瀬戸内寂聴さんは、『生きることは愛すること』(講談社文庫 二〇一〇年七月一五日第一刷発行)の中で仏教における二種類の愛について語っています。
「愛は、仏教では『渇愛(かつあい)』と『慈悲』にわかれます。
『渇愛』というのは、煩悩(ぼんのう)の中に入ります。これはいくら愛してもらっても、いくら愛してもらっても足りないのです。(中略)『渇愛』は見返りを要求します。わたしはこれだけ愛しているのだから、あなたはそれに利息をつけて返してちょうだいという愛です。だから、つねに満足していない。もっともっと愛してという思いがつきまといます。
『慈悲』のほうは、まったく無償の愛です。自分はその人を愛するけれども、相手からその見返りを要求しない。期待もしない。これは人間にはできないですよね。それは仏の愛とか神の愛になります。だけど、そういうものがあるということを知って、それに近づこうと努力することはできます」(前掲書 一一四~一一五ページ)
(PP.41-43)
<次回に続きます>
➳ 編集後記
第14回は「私の想い」の中の「私にとって由美子はどのような存在だったのか」の前半を書きました。
永遠の愛は存在するのか? そんな哲学的な命題を考える機会を得ました。結論は出ないですね。「渇愛」と「慈悲」という二項対立は永久に交わることはないでしょう。