大前研一さんのような「世界に通用する傑出した人物」は、
日本にも世界にもあまりいません。
私は大前さんの足元にも及ばないちっぽけな存在ですが、
そんな小さな私でも、世の中で役に立ちたいと熱望して
います。
年齢は関係ないと思っています。
やろうとする意思と一歩踏み出す行動力ではないか、
と考えます。
その2つに付け加えるならば正しい方向性でしょうか。
これはなかなか定めるのが難しい。
自分で正しいと判断しても、必ずしもそれが正しい針路を
とっているかどうか確かめることが困難だからです。
メンター(師匠)がそばにいれば、たとえ間違った方向へ
進んだとしても、謙虚な気持ちで従うならば修正は可能
でしょうが。
私にとってのグル(精神的指導者)は大前研一さんです。
もちろん、大前さんがはそんなことを知る由もありませんが。
以前、大前さんの下で働いていた学生の方
(今では社会人として働いていることでしょう)
からメールを頂いたことがあります。
そのメールの中で、身近で見た大前さんの気さくで、
ユーモアあふれる人柄に触れたことを伝えてくれました。
マッキンゼーの会議は、断じて儀式ではない。
論と論を闘わせる「知的格闘場」だ。
だから発言しなければそれだけで、その人は批判、
又は評価の対象になる。
なぜなら、発言しないというのは、論と論を
闘わせて問題の核心を徹底的に追求するという、
知的格闘場の参加者全員に課せられた義務を、
果たしていないことになるからだ。
今日の名言 1 〈409〉
それに、自分が納得できないことに反論するのは、
マッキンゼーの行動規範に定められてた義務でも
ある。相手が上司やクライアントだからといって、
遠慮して反論を控えるようなことは、固く禁じられ
ている。
今日の名言 2 〈410)
また、事実の裏付けがないことをいおうものなら、
「それはお前の意見だ。そんなものは聞きたくない。
事実に基づいた発言をしろ」と、途端に非難の礫
(つぶて)が飛んでくるのも、マッキンゼー式会議
の特徴だ。
今日の名言 3 〈411)
【会議も変わる】
日本企業の会議は概して、形式化しています。
前もってレジュメが用意され、それに則って
会議が進行します。
議題についてのプレゼンが行われることもありますが、
通常は、会議は粛々とスケジュール通り行われます。
一種のセレモニーと言えます。
「根回し」がされているため、反対意見や疑問点の
提起は極力排除されます。
長老のご意見番が釘を刺すこともありますが、
きわめて稀です。
会議は、本来、その場で決定する場ですが、
会議の前にすでに決まっているのです。
会議に出席するだけで、特別な立場と見なされ
ますが、発言しなければ、本来、その場にいない
のと同じです。
つまり、日本の多くの「会議」は経営方針や
経営戦略などの重要議案の「決定」の場ではなく、
「通達」の場と化しているのです。
発言しなければ存在理由がない、という評価が
される米国と、地位の下の者は発言が許され
なかったり、異議を唱えること自体がご法度の
日本という、彼我の違いを意識せざるを得ません。
しかし、こうした状況は徐々に変わりつつあります。
好むと好まざるとにかかわらず、会議も米国式の
やり方に変貌してきているからです。
トップに外国人が就任したり、外資系企業の
日本法人で経営に携わった経験のある人が、
経営に加わることが普通のことになってきたから
です。
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