たまには現在を書きたくなりました。
だって2002年から今までの転記は気が遠くなりますし(笑)
ま、それだけの年月が経ってそれだけ子どもたちも成長し、私も大きく成長したということです。
そういうことにしておきましょう♪
忘年会で景品にお菓子をもらい帰宅してみると、家にいたのは長男一人。
今日は帰りが遅くなるからごはんは食べておくようおでんを作りおいていたのだけど、案の定まだ食べていません。何かに夢中になると食べなくて平気だという特性・・・いつまでも続くのでしょうかね???
でも、こだわりが「こだわらなくなってきた」場面は多々あります。
例えば今日「お菓子もらってきてん。割れてるけど食べる?」と聞く私。
「食べるで~」と即答する長男。
「おお~成長したねぇ~」と笑うと、
「おう。味は一緒や」と普通に返ってくる。
割れていたら「割れてるぅ」とうつむいて悲しそうに小さくつぶやいていたのはいつの頃までだったかな?!
小さい頃、割れていると食べないんだ~
壊れていると嫌なんだね。じゃあ食べ過ぎているときは割っておけば食べすぎ防止になるね~と、後半わざと割って「あら~(残念そうに)割れてるからかあさんが食べるね♪」と私が食べていた時もあったっけな。
つらいんだろうな~と寄り添うことも大事だけれど、だから絶対に割れていないものばかりを用意して回避するのではなく、一緒にお菓子を食べていている私が「割れてても、味一緒やし♪」と言いながら平気そうに食べて見せ続けることも必要かと思ってきました。
もちろん誰もが壊れていないお菓子の方が好きだろうけど、割れることもあるし
「だって、しゃーないやん」(仕方ない)はよく使うワードだったかも。ちなみにいろんな意味で今もよく使います♪
しゃーないやん・・・と流せるようになれば、生き方が楽になると思っていて私からは外せない言葉ですね(笑)
自閉症スペクトラム、グレーゾーンかも?のこだわりの強い子にはこだわりには受容してあげることや寄り添うことで心の安定はあるのは事実なのですが、世の中には「しゃーないこと」があるのも事実。
関西弁「しゃーないやん」標準語にすると「しょうがないよね」と、こっちも困った表情をしながらの声かけは、この世界で生きていく上でかなり必要なのでは?と思います。もちろんだからどうしたら幸せか?を考えられるように。
長男は、割れたものを受け入れられない気持ちより、少しくらいの犠牲を払っても食べたい欲求が心の中で打ち勝つようになってきて今があるのでしょうね。