9月・学びをつくる会  Mさんと春佳さんの報告を聴いて  2024,9,7

 9月7日(土)、『学びをつくる会』―。開催は午後1時半。

 南武線の快速電車に乗り立川駅で下車。中央線に乗り換える。東京行きの止まっている電車にのって空席に座っていると島﨑君が乗って来た。国立駅で一緒に下りる。

「島﨑君、お昼食べてきたの?」

「駅で食べてきました」

「そうなんだ。ぼくは、そこでお握りを買うよ」

 売店でお握りを1個買った。唐揚げ入りで320円。ずっしりと重みのあるお握り! 後で食した時ぼくには量が多すぎた!

 2人で、国立ひかりプラザまで歩いた。「暑いね」「暑いね」と言いながら…。

 10分ほど歩いて会場につくと、エレベーター前にサングラスをかけた“ちょっと危そうな男”が立っていた。

「やあ!」

 と挨拶。この男、西田さんね!

 部屋は5階。村角さん谷口君がすでに会場にいた。遠く山梨からの参加。國貞君や増田さんたちと一緒に、『学びをつくる会』を支えてくれている。感謝だ。

 ミカン君を真ん中に昼のお弁当を食べているのは清二さんと和美さん。おいしそうだね。

                  ※

 最初に参加者による簡単な自己紹介。今日は、遠く埼玉から佐藤隆さんや片岡洋子さんも参加。学びをつくる会が誕生した時からの世話人なんですよ、お2人は! それから、薮ちゃん石井さんも! そして、若い仲間たちも参加。総勢20人くらいになったかな。(参加者みんなの名前に触れていないけどゴメンナサイ) 

 今日の報告は若いM君と千葉春佳さん。ゆったりと深く胸に落ちる話だったね。

 以下、報告全体には触れられないが、ぼくの心に残っていることをいくつか記しておきたい。

 

M君(以下Mさんで…)の報告から

 Mさんは初めての学級担任。いろんな思いを抱えて大学で学び、学童の指導員をしたり企業に1年間勤めたりしながら「どうしても教員になりたくて」この道に入る。でも20代前半かな、若い!

 2年生のクラスは27名。みんな賢い子たちだけど学習塾や習い事に通っている子がほとんど。学校に来て、やっと仲間とであったり遊んだりしているみたいだとのこと。

 報告は、2人の子どもに焦点をあてたもの。A君(男児)は、好奇心旺盛。しかし、奇声をあげて走り回ったり黒板などにいたずらしたり。気持ちが高ぶるときは「目が泳いでしまう」。そして友だちとのトラブルも。

 もう1人の子K君(男児)。勉強が苦手。嫌なことがあると物を投げたり大声で叫んだり走り回ったり…。クラスは賢い子どもたちの集まりだけれど、この2人に引きずられるように席を立ち歩く子たちもいた。

 この対応の難しいクラスで、悩み、胸を痛め、いろんな工夫をしながら学級を進めてきた数カ月についてMさんは率直に語った。

 この報告を聴いて、クラスの状況をすぐに解決できる“魔法の言葉”や“方法”はない。しかし、Mさんの報告には、とても魅力があった。ぼくは、少しだけそのことに触れて発言させてもらった。(以下、発言風に…)

1、 Mさんの報告、ぼくは「とてもいいな」と思った。その第1は、語る言葉に確かな力があるということ。ひとことひとことに思いが込められていて、子どもを見つめる視点や子どもたちへの関わり方が、しっかりと伝わってくる。言葉にウソがない。子どもの事実を、Mさんの眼差しでしっかりとつかんでいる。そうした報告になっている。(生意気な言い方だが)豊かな教師としての可能性を感じる。

2、 第2に、対応の難しい子、A君やB君について語られたが、そうした状況に対する丁寧な対応がとてもいいなと思った。例えばA君について、君は、朝彼を迎えてやさしく語りかける。A君の今朝の気もちや状態を受け止め、その日の彼の行動の見通しをたてて何らかの対応をしようとしている。それってすごいことだと思った。初任の君にこんな丁寧な対応ができることに驚かされた。

3、 全体としては焦らなくていいと思う。教室を飛び出す子や走り回る子たちをどうクラスとしてまとめていくかはとても大変だ。でも、2年生のこの1年間で、(ぼくの推測だが)“失われていたり損なわれていたり”する“人間的感覚とその土台”をゆっくりと育てて行ってあげる気持ちでいいのではないか。

飛び出す子は、抱き留めて(抱き上げる)あげてもいいんじゃないか。(その子は驚くと思うよ!こんな体験なかったかもね!)抱き留めながら彼の思いを聴き取る。その姿を教室のみんなに見せて行く。「君のここは好きだよ。でも、ここは辞めようね。できるかな…」そんな風に言って。

「ぼくもやって!」と言う子がいたら同じことをしてあげればいい。ぼくは思うのだが、それくらい今の子たちは、“人間そのものに、人間の愛に、密度のある人間関係に飢えているのではないか”―。そのことに支えられて初めて、次のステップに挑戦することができるんだと思うだ。

 困難を受け止めて行くって教師には大変なこと…。よい結果は容易には訪れないかもしれないけれど“危機の時代”を子どもと共に乗り越えるやりがいのあるしごとだと思うよ。

 

千葉春佳さんの報告から

 千葉春佳さんとは長い付き合い。初めて春佳さんが教師になった頃、ぼくの教室にやってきて授業を見学してくれたし、ぼくが勤務した品川区・大田区の学校で、金曜の夜開催した“教育実践ゼミ”にも参加してくれた。夏の北海道の教科研釧路大会にも春佳さんの友人たちと一緒にやってきてくれて教室の今を語ってくれた。忘れられない。

 そうだ! 春佳さんの結婚式にも呼ばれた。友人・佐藤博さんと2人で。素敵な彼ともその時出会った。懐かしい。

 さらに、東京で開かれた教科研大会の最終日、薮内さんと春佳さんと鈴木君の3人に登場してもらって、若い教師たちの今を語る場をもったんだけれど、その時の内容がとてもよかった。「本にしましょう!」と、編集者からの誘いがあって、『みんな悩んで教師になる』(佐藤博・山﨑隆夫編著、かもがわ出版、2012年)を出版した。その時の佐藤博さんの講演と共に3人との大切なやりとりを掲載させてもらった。(※今を生きる若い教師たちが読んでくれたらうれしい。等身大でやさしく、しかも勇気を与えられ、読み応えのある本だと思う)

 そんな春佳さんが、教師になった初めての日々から今を振り返りつつ、大切にしてきた思いを語ってくれた。

 ぼくの感想をいくつか。

1、春佳さんは、大学で臨床教育学のゼミに所属し、そこで学んでいた。(臨床教育学は、当時まだそんなに教育界の公的場に登場していなかったと思う…。ぼくも春佳さんが卒業した後、田中孝彦さんの後を引き継いで3つあった臨床教育学のゼミの1つを担当することになる)それを振り返りながら、現場に出た時、自分のやってきたことの専門が他の人と較べて「どうなのか…」という悩みがあったと語った。

 ぼくは、春佳さんの人間的な教師の軸にある“子どもを見る目”“やさしさ”“深い人間観”は、持って生まれたものでもあると思うが、この大学での学び・臨床教育学の学びと不可分に結びついていると感じている。春佳さんの、目の前の子どもを前にした時の「状況に流されないでその子の生きている今をしっかりと見つめ、安易な解決に向かわない“強さ”」は、誇りを持っていいと思う。素敵な、そして揺るがぬ“専門性”を身につけているのではないか思う。それが、この日の報告を含め、今、多くの仲間の教師たちを励ます魅力となっている。

 

2、「わたしが教育実践で大切にしていることは…「子どものねがい」を受け取り実践に活かすこと」と春佳さんは語る。

 今日、教育実践において「子どもを統率(管理的に…山﨑)すること」がよい教師であるとみられがちだが、春佳さんは困難な子どもたちと、“統率”とは違った方法で日々接し生きる中で“かけがえのない宝物”を彼らからプレゼントされる。発見すると言ってもいい。

 例えば、日本語がまだ曖昧な周君が「さんさん、ぱか」と千切れた紙に書いて来た言葉を読んで、「こんなことを書いて!」と叱るよりも、「周君が書いてきてくれたことがうれしい!」とその事実をとらえる。

 この報告を聴いた時、佐藤博さんもぼくも、そこにいた久富先生や佐藤隆先生ほかみんなも、周君の春佳先生に心を寄せる姿がそこにあって、教育実践の魅力がそこにつまっていることを実感し、その意味や価値を指摘させてもらった。

 春佳さんの教師を生きる日々には、困難な6年生たちや小さな子どもたちの言動と向き合う日々があった。その困難は言葉では言い尽くせないほどの苦労があったというが、その共に生きた日々を通して、一筋縄ではいかなかった子どもたちが、別れの日が近くなって思わぬ言葉を発してくれる…。

 その魅力は、ひと言では語りつくせない。困難や危機と向き合って彼らの見捨てないで生きてきた中で、そっと見せてくれた彼らの“人間らしい灯”とも言えて、ここまで到達するには並大抵のことではなかっただろうと思った。

 

3、春佳さんの報告の中で、ぼくはとても重要だと思うところが他にもあった。それは授業のこと

 ぼくは、今日の様々な生きづらさを抱える子どもたちが、学校で、教室で、様々な悪態や“荒れた”言動を見せるけれど、ひとつは彼らが生きる授業の場で、どれだけ人間的な心深まる学びの時間を持つことができるかも、大いに今日の教育実践において問われていると考えている。

 子どもの許しがたい表現・表出した言動だけをとらえ、これを叱責したりたしなめたりして“よい方向”に持っていく「指導」だけをしていたのでは、子どもの深い隠された感情やそこから自身の未来や憧れに向かって生きていこうとする力は、容易には湧いてこないと思っている。

 それを、仲間と学び合う授業の中で発見していくことの重要性を思う教材に深く触れることで内面が揺さぶられることが大切なのだ。自身の押さえこんで来た感情と学びの場で出会うことも大切なのだ。それは、国語の文学教材だけでなく、説明文にだって、算数や理科とか社会においてだって、大切にされるべき視点だと考えている。

 仲間の声でハッと我に振り返る。刺激されて何かをクラスのみんなに語りかける時、それがたどたどしい言葉であっても仲間や教師に認められるときの喜び! こうした体験が1人の少年や少女を変えていく力になると思っているし、そういう事実とも出会ってきた。(このことについては、何冊かの拙著でも触れている)

 春佳さんの『スイミー』の授業記録、総合学習『ともに生きる』の授業記録にはそのことが見事に描かれている。だから、多くの仲間に学びとってほしいなとも思った。

 

4、次にぼくがいいなと思ったこと。それは「教科書を教えるんだけど、そのちょっと先を考えて実践する」というところ。何か特別な教師が、特別な実践をして、周囲を驚かせたり、何かで発表したりして得意になる(それは、それで否定されるべきことじゃないけどね…)のではなく、小さなドキドキを授業の場面に工夫して持ち込んでいくことの大切さね。

 子どもたちは、教科書をなぞるだけだったら面白みはないし飽きてくる。春佳さんの学校の子どもたちは塾通いの子たちが多い。「そんなこともう知ってるよ」「もう学んだよ」という子たち。だけど、ちょっとした工夫で、驚きを持ち込んだり、子どもたちの生活実感がそこに登場したりしてくるとき、学びは突然これまでの姿とは変わって、主体化していく。この努力をほんの少しの時間でいいから取り込んで実践していくことに務めていることが素敵だと思う。

 お母さん先生の、様々な多忙さの中にあってもこの努力をしていこうとする姿がとても魅力的だったと思うし、学年の仲間たちも、こうした実践の工夫は、その人なりに展開できる可能性とつながっているね。

 

5、最後に、春佳さんの語った「『日本一のいいクラス』って言ってもいい」という言葉に共感を覚える。

 『日本一いいクラス』と『学級王国』はちょっとつながりやすい言葉だし考え方だ。どちらも否定されやすい。でも春佳さんは言った。「学校が楽しくないって言っていた娘が「日本一いいクラス」になろうっていう先生や友だちと出あって学校が楽しい!って言って毎日通っていくんですよね。この言葉を安易に否定してはいけないんじゃないかと…」(正確な引用ではない…山﨑の聞き書きによる)

 ぼくは、春佳さんに言った。グループ討論の終わったあたりでだったかな。

「教師はひとり1人、個性があって、生きた歴史があって、大切にするところやこだわりなんかも違うよね。そして、クラスには子どもたちがいる。1組の子どもたちと2組の子どもたちが織り成す風景や雰囲気は当然違ってくる。ここを“みんな同じ”にする必要なんてないし、そうしたら子どもと一人の教師が生きる豊かで個性あふれる魅力が失われてしまう。それぞれのクラスが『日本一いいクラス』をめざせばいい。

(※勿論、それは“言葉のあや”で、実際に『日本一いいクラス』などは実在しないしありえない。だって先ほどいったようにそれぞれの持ち味や価値がみんな違っているんだから、どこが一番なんて較べようがないし言えやしない。でも、子どもたちとそんな“憧れ”や“誇り”は持っていてもいいんじゃないかと思うね…)

そして、隣のクラスのあり様を尊重し、自分たちにはない魅力を認めあっていく。教育実践のドラマはそうした日々の丁寧なかかわりから生まれてくると思うの」