産経新聞連載企画  話の肖像画 

 

<歌手・さだまさし>と題して7月マンスリー企画。7月1日~31日、新聞休刊日(7月10日)を除き、毎日掲載。

 

本ページは<18>から、以下に掲載日降順(<18>が一番下)で掲載した。

 

 

 

 

歌手・さだまさし<30> 完

僕が「もらったもの」全部、次へ渡す―7月31日

 

 

《フォークデュオ「グレープ」のデビュー(昭和48年)以来、50年歌ってきた》

50年は、決して「あっという間」ではなかったですね。今、たくさんの仕事があるのが不思議ですよ。若いころの方がいっぱい働いていた気がするけど、あのころは〝手探り〟の時間が長かった。だから実際に手が届いたものは多くなかったのです。今はその手間がなくなったというか、判断が早くなったのでしょうね。

(俳優、ナレーターなど)音楽以外の仕事もやっていますが、オファーが来て、面白そうだなと思うと、断らないことにしています。それで、70歳にもなって(初のドラマレギュラー出演となった)『石(いし)子(こ)と羽(はね)男(お)―そんなコトで訴えます?―』(昨年、TBS系で放映)にも出たのですよ(笑)。

《本業(?)の音楽も50周年記念のイベントがめじろ押し。6月にはニューアルバム『なつかしい未来』をリリース。昭和の時代や故郷、WBCなど題材はバラエティーに富む》

『なつかしい未来』に込めた思いですか? 現在は常に「過去の上」にしかない。過去にまかれたタネが今花開く、あるいは枯れたかもしれない…。自分が「こんな花を見たいな」と思ってまいたタネが咲いて、「ああこんな色の花だったんだな」って感じるのが『なつかしい未来』ですね。まぁ、勝手に自分が作った座標でいいのです。そこにたどりつけるかどうかは、イチに長生き(笑)。

僕は命、心、時間…など人の力ではどうしようもないものをいろんな角度から歌ってきたつもりです。昨年のアルバム(『孤悲(こい)』)が「命」がテーマなら、今回は、やっぱり「愛」ですよ。大概の物事は「愛で解決できる」と最初に言ったでしょう。今回のニューアルバムには「愛」を強調した歌を何曲も入れました。こんな時代ですから、よけいにです。

《2月には「グレープ」として47年ぶりのアルバム『グレープセンセーション』を》

吉田(政美(まさみ))と昨年、酒を飲みながら話したんですよ。曰(いわ)く「(吉田は)どれだけ、さだの楽曲をよいものにするか、というプロデューサーの感覚だった」と。「グレープ」はデュオよりユニットだったのですね。久しぶりに組んでやってみて、昔はやれなかったことができていると思った。それは下手だった僕のサイドギターの腕が上がったこと、声帯が太くなったことが理由です。

パソコンの具合が悪くなったから再起動してみたら「サクサク動くじゃない」ってな感じかな。そういう意味では「グレープ」は今が最高潮。ソロとはテーマ選びもアプローチもまったく違うからやってて面白いですよ。これからもこの関係は変わらないでしょうね。

《毎年「ハードルを上げていく」という発言も》

上げたくはないけど、そうせざるを得ないでしょう。普通は年を取るほど「どんどん下げてゆく」。そうすると〝商売〟には、なるでしょうけれど、僕はそうしたくはない。

「終わる」ときは、パソコンで言うところの「強制終了」しかないでしょうね。昔は、ステージで倒れるのがカッコいいと思っていたけど、今は、一度舞台袖に下がってから倒れた方がいいのかな?って。

僕は本当に「人」に恵まれた。家族、友人、先輩、後輩、仕事の仲間…。年を取ったら僕が「もらったもの」を今度は全部、次に「渡す」。オレが持っているものを全部持ってけ!ってな感じですかね。

 

 

歌手・さだまさし<29>

日本語が下手になったら、この国は終わる―7月30日

 

 

《「僕はこの国を心から愛している」と著書『本気で言いたいことがある』(平成18年、新潮新書)に書いた。国家の基本となる外交・安全保障と教育についても一家言ある》

日本の外交・安全保障のあり方を考えることは、なかなか難しい。そもそも日本は〝完全な独立〟を果たしているとはいえませんから。戦後ずっとアメリカの〝属国文化〟の中にあったことは話しましたよね(4日付)。誤解を恐れずに言えば、安全保障をアメリカに頼り、「安価に繁栄を享受してきた」。これが間違いだったか、というと、悲しいけれど、真っ当な考えだったと言うしかない。日本は「戦争をしない」という前提で、角(かど)が立たないやり方をしてきた。「平和は自分たちの血であがなうしかない」と考えている人たち(国)に対して、日本は「だれかが守ってくれる」でやってきたのです。

ところが国際社会は複雑化してきている。僕たちは「自由と民主主義が一番である」と教わったけど、全体主義の強権国家が勢いを増しつつある。(国民の権利を考慮せずに強圧的なことが可能な)彼らの決定は「早い」。コロナへの対応を見ても分かるでしょ。ただ、日本の国民はそんな体制になることも、アメリカとの関係をそうした国との関係へと変えることも望まないでしょう。だったら国民に覚悟を問うべきなのに、まともな議論をしてこなかった。

このままでいいのですか? それとも徴兵制を敷きますか? 軍備強化のためにはいったいどれほどのお金がかかりますか? 核の問題はどうしますか? 経済の繁栄や今の豊かな生活を手放す勇気がありますか?―というような議論です。それをしないで来たというのは、日本人の〝ずるさ〟か、あるいは〝知恵〟なのか?

強権国家になることも、それにひれ伏すことも望まないのであればですよ、ずっとずっと将来、エネルギー問題も解決して世界に戦争がなくなるまで日本という国がどう生き延びるかを、考えねばなりません。もちろん軽々に結論が出せる問題ではありませんが…。

《教育問題に対する関心も強い。若者たちが本(活字)を読まなくなったことにも教育問題が関係しているという》

「活字」が生き残るには、もう一度、教育からやり直すしかないと思う。学校教育、ことに初等教育のミスです。初等教育というのは〝真っさらなもの〟に最初に何かを乗せる役だから、本来は最も優秀な人材(教師)を投入しないといけなかったのに、それをやらなかった。

その結果、考えることを拒絶するような子供や若者を育ててしまったのです。言葉を簡略化し、安易な方向に進んでしまう。「早っ、遅っ、うまっ…」などというだけで全部が表現できるようなね。僕は「日本人が日本語が下手になったらこの国は終わる」とずっと言い続けてきた。それが現実になってきているなと感じます。

今や、教師にも優秀な人材が集まらなくなっています。カネがすべての拝金主義、その多寡によって勝者、敗者とするくだらない価値観がまかり通るようになったからでしょう。そこに皆が巻き込まれています。

僕には、おカネを持っているだけで無防備でいられる感覚が分からない。僕が子供のころには、みんな貧しくて、服に継ぎあてをしているのが当たり前だったけど、誰も笑わなかったし、ちっとも不幸だと思いませんでした。それはもっと「別の幸福」があったから。

今の社会は幸福の価値観が変わってしまったのです。それを取り戻さない限り、日本語も戻らないと思います。(聞き手 喜多由浩)

 

 

歌手・さだまさし<28>

さっそく作ったWBC歓喜の歌―7月29日

 

 

《3月に行われた野球のWBCで世界一に輝いた日本代表。6月にリリースされたニューアルバム『なつかしい未来』には早速「マイアミの歓喜もしくは開運~侍ジャパンと栗山英樹(くりやま・ひでき)監督に捧(ささ)ぐ~」を収録》

栗山監督が帰国してすぐ後に僕の番組(NHK『今夜も生(なま)でさだまさし』)に出てくれました。そのとき、楽屋で(WBC優勝の)歌を作る話になって、彼にも「歌いに来てよ」と頼みました。サンバ調のみんなが歌いたくなるような曲を仲間の木村〝キムチ〟誠が書き、僕の詞もすぐできた。栗山監督は実際に、コーラスなどで参加してくれて、一番大きな声で歌っていましたよ(笑)。

アメリカで野球は〝古い球技〟と呼ばれて人気も下降気味だったけど、今回のWBCの盛り上がりで変わるんじゃないかな。大谷翔平のスゴいプレーに魅せられたアメリカの少年が何百万、何千万人といましたからね。少し時間はかかるかもしれないが、彼らによって野球人気は必ず復活しますよ。

《日本のプロ野球ではヤクルト・スワローズのファン》

僕は子供のころから長嶋茂雄さんが大好きで、巨人ファンでした。だけど、昭和55年に長嶋さんが監督を解任(第1次政権)されたのを見て「こんな仕打ちをする球団なんだ」と怒り、巨人がイヤになった。ただ、やっぱり好きだった王(貞治)さんが助監督(後に監督)として巨人に残っていたので、あまりむげにもできない。仕方なく6、7年は「空白」期間。決まった球団を応援することはありませんでしたね。

緩やかに巨人から離れていった後、62年に(長嶋さんと親しい)関根(潤三(じゅんぞう))さんがスワローズの監督になった。僕は「次かその次」の長嶋スワローズの誕生を確信し、今のうちにスワローズファンになっておこう、と。

そのうちに栗山、秦(真司)ら、後には古田(敦也)らの各選手とも親しくなり、一気に僕の「スワローズ愛」が高まっていきます。松園(尚巳(ひさみ))オーナーが同郷(長崎)だったし、僕が通っていた国学院高校が神宮球場の向かいにあったから、通学途中に選手とすれ違ったりして、親しみがあった。もともと、好きなチームのひとつだったのです。

《その縁で、始球式や国歌独唱を務めたことも度々》

「国歌独唱は、さだまさしさんです」のアナウンスを受けて、白いスーツで登場。まず、国歌(『君が代』)独唱です。それが終わってから、しばらくしてもう一度アナウンス。「始球式は、さだまさしさんです」。球場はワーと大ウケ。僕はダッグアウトに駆け込んで今度はユニホームに着替える。この〝二刀流〟でやった人は他にいないでしょうね。

ただ、反省点がひとつ。(MLBのボストン・レッドソックスや西武ライオンズで活躍した)松坂(大輔)さんから、始球式をやるときは、先発投手のために〝マウンドを汚さない〟ようプレートには立たない、と聞きました。次にやるときは僕も「前」から投げますよ。

《ゴルフも好きなスポーツのひとつ》

僕は70歳を超えたから、前(のティー)で打っていい、ということになりました。すると、ドラコン(第1打の飛距離を競うコンテスト)でいきなり優勝しちゃった(苦笑)。老人になるとこんなメリットもあるわけですよ。

次は「エージシュート」(年齢以下のスコアで18ホールを回ること)ですね。これをいつ達成するか? 僕はいま71歳だから、もうちょっと先かな。(聞き手 喜多由浩)

 

 

歌手・さだまさし<27>

「ケンカっ早いな!」と拓郎さんに言われ―7月28日

 

 

《10年前、ベストアルバム「天晴(あっぱれ)~オールタイム・ベスト~」を出すとき、ファンに人気投票を募った。1位に輝いたのは『主人公』(昭和53年のアルバム『私花集(アンソロジィ)』に収録)》

『主人公』の1位は不動ですね。この曲はメロディーが先にできて、別の詞がついていたけどそれが僕にはつまんない。もう時間がなくて(自宅があった千葉の)市川から(スタジオがある)東京都内まで自分で車を運転し、信号で止まるたびにメロディーを口ずさみながらノートに詞を書き続けました。

「自分の人生の中では誰もがみな主人公…」。これだったら(メロディーに)乗るなって思ったのだけど、こんなセリフはさんざんステージで言ってきました。それこそ「グレープ」時代からです。いまさら誰が感動する?と思ったものの、他に思いつかない。ちょっとだけ〝抵抗〟してガイドブック→「旅行案内書」、メトロ→「地下鉄」と表記したのですけど…。

《勝手ながら、還暦過ぎおじん記者の1位は『つゆのあとさき』(52年のアルバム『風見鶏(かざみどり)』に収録)。付き合っていた彼女が男から巣立って(見捨てて?)行く切ない歌だ》

『つゆのあとさき』はアマチュア時代からの〝中途半端な〟3つのメロディーがもとになっています。それぞれ全然違う歌詞がついていたのですが、これを1曲にまとめると、これが意外に良かった。それにふさわしい詞を書こうと、最初は「卒業 セレブレーション」のようなタイトルで書き始めたのですが、なかなかハマらない。書棚にあった文学全集に(永井荷風の小説の)『つゆのあとさき』を見つけて、いける!って。

ただし、女性が自分(男)から〝卒業〟してゆくテーマは変えたくない。蛹(さなぎ)が蝶(ちょう)になる彼女を見送ろう。(梅雨と卒業の)季節の違いは仕方がない…。

これ、やっぱり男の子は泣きますよね。でも、女の子にはウケるんですよ。私が成長するためにアナタから離れてもいいでしょ。踏み捨ててどこが悪いの?ってね(笑)。

《令和3年に、アルバム『アオハル 49・69』をリリース。吉田拓郎、井上陽水、かぐや姫、赤い鳥、オフコース…といったフォーク・ロックの往年のヒット曲をカバー、『北山杉』(うめまつり)という知る人ぞ知る名曲も歌った。数字は49年目、69歳(当時)という意味も込められている》

拓郎さんですか? 僕にとっては「最初に穴を掘った」人。その穴には、みっともないものを捨ててもいいんだ、と教えてくれた偉大な人です。

プロテストソングのイメージが強く、左翼のテーマソングみたいだった「フォーク」と「歌謡曲」の橋渡しをしてパイプでつないだ人でもある。左だ、右だ、じゃない、みんなで歌おうって。

「ニューミュージック」という言葉も最初はレコード会社が拓郎さんを売り出すためにつくった。まさに、「最初に穴を掘った」人でしょう。

昔、フォークシンガーが多数集まるイベントに拓郎さんを出させようとして、武田鉄矢さんと南こうせつさんと一緒に口説きにいったことがある。「出ないよ」とゴネている拓郎さんに僕はとうとうキレて「穴に汚いもんを捨ててもいい、って言ったのはアンタでしょ。出ないのはおかしいだろう」と詰め寄りました。結局、拓郎さんは出てくれましたけどね。

その後、僕がパーソナリティーを務めるラジオ番組の〝代打〟で拓郎さんが、出てくれたことがあって、冒頭で「さだって、ケンカっ早いな!」だって。そんな拓郎さんが僕は好きです。向こうはそうでもないかもしれないけれど…(苦笑)。(聞き手 喜多由浩)

 

 

歌手・さだまさし<26>

震災と「風に立つライオン基金」―7月27日

 

《平成23年の東日本大震災。ギターを持って被災地を回り歌い、励まし、語り合った》

かつての僕は大きな自然災害が起きても支援物資や支援金を集めて送るくらい。阪神大震災(7年)のときも、現場には入っていません。借金があったし、コンサートのスケジュールもぎっしり…というか〝売名行為〟のように取られるのがイヤだったのかもしれませんね。

初めて現地に行ったのは新潟県中越地震(16年)のときでした。ギターをもってマイクもなしに歌い始めると、だんだんと人が集まってきて泣いている人もいる。「こんなに喜んでくれるんだな」ってうれしかったなぁ。ただ同時に、歌でどれだけ被災者の力になれる? 何の役に立つ?という無力感も消えなかったのです。

変わったのはやはり東日本大震災ですね。(笑福亭)鶴瓶(つるべ)ちゃんに誘われて、(23年の)5月1日に石巻市(宮城県)へ行きました。そこで見た風景、嗅いだ匂い、出会った人たちのことは一生忘れないでしょう。この世のものではない、本当に凄惨(せいさん)な光景でした。

(NHKの)テレビクルーが一緒でした。カメラの前で被災者は同じことしか言いません。「来てくれて感謝しています」「応援が支えになった」。ところがカメラが離れたとき、被災者の男性が僕の腕を痛いくらいにつかみました。「おふくろを(津波で)もっていかれた。女房、孫も…。早く見つけてやりたい。辛(つら)いわ」って。僕はかける言葉も見つからず、一緒に泣くしかできません。鶴瓶ちゃんとは長い付き合いだけど初めて彼に感謝しましたよ(笑)。被災地に誘ってくれたことに、です。僕はそれから休みごとに東北に行くと心に誓いました。

《東日本大震災には多くの若者たちがボランティアとして駆け付けた。その拠点があった遠野市(岩手県)では…》

いくつかの被災地を回って遠野に着いたのが夜の8時ごろ。学校がボランティアの本部になっていました。僕は彼らの熱意に感動し、歌で励ましたいと思った。最初は「教室で」という話だったのですが、僕の歌を聴きたい人の希望を聞いてみると、全員が手を挙げたというではないですか。結局「体育館」で歌うことになったのです。

「おまえらがんばっているな。スゲーな」って叫びました。その日の〝ステージ〟は被災地を回った中で一番盛り上がったように思いますね。

《27年『風に立つライオン基金』を立ち上げた(29年公益財団法人認定)。「いのち」「平和」を守るために奉仕・慈善活動を行う団体や個人への支援。大規模災害の被災者支援。人材育成を行うのが目的。事業のひとつに「高校生ボランティア・アワード」がある》

誰かのため、地域のために役立ちたいという高校生の「志」を応援する大会です。

僕らの時代はボランティアというと、どこか気恥ずかしかった。今でも彼らは〝異端児〟ですよ。ゴミ拾いよりも恋愛に興味がある世代ですからね。そんな中でボランティアを胸を張ってやる、みんなでやろうという意思表示をする。いいエネルギーを持った若者を応援したい、大人に伝えたいのです。

あるとき、「ネパールの貧しい子供たちに食料支援をしたい」という高校生たちにオバサンがかみついたことがあります。「日本が先だろう。〝イイ子〟ぶるんじゃないよ」って。

ところが、彼らは平然としている。「そんなことは言われ慣れてますから」と。スゲーな、お前らって僕は感動した。そう。イイ子ぶるなら、みんなでイイ子ぶろうぜ。
(聞き手 喜多由浩)

 

 

歌手・さだまさし<25>

永六輔さん、山本直純さん支えてくれた先輩

―7月26日

 

《多くの先輩に愛された。いろんなことを教わった。ここでは、作詞家で放送作家の永六輔(えい・ろくすけ)さん(1933~2016年)と作曲家、指揮者の山本直純(なおずみ)さん(1932~2002年)の2人の話を少し…》

永六輔(詞)・中村八大(はちだい)(曲)コンビの歌が子供のころから大好きでした。テレビの「夢であいましょう」(NHK、昭和36年放送開始)で2人の歌に出合い、今でも「今月のうた」(このコーナーから『上を向いて歩こう』『遠くへ行きたい』などのヒット曲が生まれる)は全部、歌えるくらい。

後に、永さんに聞いたら、歌づくりに際して、「お茶の間バラエティーだから親と子供が一緒に聴(き)いて気まずくならないテーマにしよう」と八大さんと確認し合っていたそうです。それが僕の原点であり、今でも僕の歌の基準になっています。

歌だけじゃありません。僕の今の活動の全部が「永さんの影響」だと言っていい。永さんの旅番組のまねをして、僕はラジオで同じようなコーナーをつくった。その旅先で出会った人や神社仏閣、文物などに興味を持ち、その話を歌にしていく面白みも教わりましたね。

《永さんとは「グレープ」デビュー時の面白い逸話も》

「グレープ」のデビューが決まったとき、僕の父の知人だった郷土史家の宮崎康平(こうへい)先生(『島原の子守唄』の作者)から「永さんを訪ねなさい。TBSで番組を持っているから」と紹介していただいた。ところがいざ会ってみたら、どうも話がかみ合わない。永さんは僕が噺家(はなしか)志望の青年で入門する師匠の紹介を頼んできたと勘違いしていたのです(苦笑)。歌い手? えっ、そうだったの?

永さんとは、誕生日(4月10日)も同じ。永さんが病気で亡くなる前に、八大さんとの名曲を僕が歌うアルバムをつくったときは、すごく喜んでくださった。「まさしは僕が辛(つら)いときにエールをくれる。元気をもらったよ」って。

《直純さんはソロでやっていく自信を持たせてくれた人》

直純さんは僕のことをなぜか気に入ってくださり、よく食事やお酒をご一緒させていただきました。ソロになって〝中途半端な音楽家〟という思いが消えない僕に、「おまえはできる。全部できるよ」と励まし、恐怖心、疑心を吹き飛ばしてくれたのも直純さんです。

《『親父(おやじ)の一番長い日』(昭和54年リリース)は直純さんの依頼で生まれた名曲だ》

53年の春先でしたか、直純さんから「軽井沢音楽祭」のゲストで来い、(そこで披露する)25分の曲を書け、と。そして「全国のおやじが感激して号泣する曲を考えろ」って。下見に行った「旧軽」の教会の結婚式を見たとき、僕は雷に打たれた。そうだ(バージンロードで)「娘がお父さんの腕を取るまでの物語を歌にしよう!」。

『親父…』のタイトルはすぐ決まった。『日本の…』のもじりです。詞は「おやじが語る」と生々し過ぎて感動を呼べないから「兄貴のモノローグ」の方がしっくりくる。結局、時間は〝注文〟の半分(12分半)になったけど、ギター1本で直純さんに聴いてもらったらすごく喜んでくれました。

直純さんがつけてくれたアレンジは、親友の岩城宏之(いわき・ひろゆき)先生が「一世一代のアレンジ」と絶賛されたほど。岩城先生は、交通事故で軽井沢音楽祭に出られなくなった直純さんに代わって伴奏のオーケストラの指揮をやってくださったのです。

《異例の長い曲『親父…』は果たして世のおやじたちを号泣させ、大ヒットを記録する》

 

 

歌手・さだまさし<24>

大好きな僕の故郷・長崎―7月25日

 

《故郷・長崎への思いは強い。中学1年生で独(ひと)り上京。体や心が辛(つら)くなって、長崎へ帰ると、家族や仲間、街がいつも温かく癒やしてくれた》

中2の春でした。帰郷する僕に、上京中のおやじ(雅人(まさと)さん)が東京駅へ電車賃を持ってきてくれるハズが…なかなかやってこない。午前10時半東京発の急行「雲仙」号。僕は(当時下宿していた千葉の)市川駅の入場券で東京駅まで行き「雲仙」の中で待っていたけど、発車までに、とうとうおやじは来なかった。僕のポケットの中には一銭もない。よくあんな、むちゃができたものです。

僕は横浜あたりで引き返せばいいや、と気軽に考えていたのですが(これがキセル行為に当たることは知らなかった)、車掌さんがすぐに検札に来たため、僕は切符を探すフリをしました。

すると、向かいの座席の大学生のお兄さんが「盗(と)られたんじゃないか?」と助け舟を出してくれました。そして、僕が同じ長崎まで行くことを知ると、切符代を立て替えてくれただけでなく、長崎まで食事時ごとに、駅弁を僕の分まで買ってくれたのです。それだけじゃありません。長崎に着くと、歩いて帰るという僕を呼び止めて、市電代として100円をくれた。うれしかったなぁ。これが「本当の親切」ですよ。

驚いたのは、そんな思いをして帰ってきた僕を見た母がまったく普通に「おかえり!」って迎えてくれたこと。その日のうちに母の親類にお金を借り、カステラを持ってお兄さんのお宅にお礼に行きました。辛いときに逃げ帰る親元(故郷)があったのは幸せでしたよ。帰ればまず食べ物の心配をしなくていいし、何をして過ごしてもいい。僕は小さいころからこの街(長崎)が大好きでした。

《昭和62(1987)年8月6日、「夏 長崎から」の野外コンサートを始める。入場料は無料。20年目の平成18年まで60万人近くが集まった》

その前年、広島でのピースコンサートに僕は呼ばれた。長崎の仲間と飲んだとき「なぜ長崎であんなコンサートができないのか?」という話になったら、仲間曰(いわ)く「わいがせんけんたい(お前がやらないからだ)」って。そうか、じゃあやるか。でも(映画『長江(ちょうこう)』でつくった)借金もあるしなぁ…。

調べてみたら、会場の設営やゲストの宿泊費、警備のアルバイト代などでざっと3千万円はかかる。それなのに僕は「無料」にこだわった。小さな子供を持つ「家族がそろって」来てもらうには無料にするしかないと思ったから。(事務所を預かる)弟にそう話すと、お茶碗(ちゃわん)を落としそうになるほど驚いていた。えっ、無料か?

開催日を、8月9日(長崎原爆の日)ではなく、8月6日にしたのは、警備の問題があったからです。9日には、いろんな人たちが長崎に集まる。それこそ右も左も…。そこに僕が何万人も参加するコンサートをやれば、とても警察の警備が追いつかないと言われたのです。それよりも6日に長崎から広島の空へ向かって歌おう、って。

《さださんの母方の親類には被爆者が多い。かわいがってくれた母の妹は原爆症で内臓にがんが広がり、67歳で亡くなった。だが、叔母は原爆に対して一切、恨みつらみを言ったことがなかったという》

平和コンサートと言われると僕はカチンとくる。「原爆ハンターイ」「戦争ハンターイ」とも叫びません。僕の音楽は思想・宗教・政治に偏りたくないと思っていたから。ステージからはただひとつのことを言い続けました。「あなたの大切な人の笑顔を守るためにあなたに何ができるかを考えてほしい」(聞き手 喜多由浩)

 

 

歌手・さだまさし<23>

続くバッシング…大仏さまの前で「前向きに」―7月24日

 

 

《ヒットを飛ばしながらバッシングは続いていた。軟弱、女性蔑視…。日露戦争を題材にした映画(「二百三高地(にひゃくさんこうち)」)の主題歌となった『防人(さきもり)の詩(うた)』(昭和55年7月)では「右翼」のレッテル貼りまで…》

この歌が「戦争を賛美している」と言われるなんて、僕は思ってもみなかった。ある人からは「勝った戦争(日露戦争)だから標的にされたんだよ」と指摘されましたが、実際に右翼の街宣車がこの歌を流しながら走っていましたからね。

そして僕が革新政党系の主催だとは知らずに、あるコンサートに出たら街宣車が来て「裏切り者!」だって(笑)。(『防人の詩』のバッシングのとき)助けてくださったのは同郷(長崎)の文芸評論家、山本健吉(けんきち)さんです。「キミの『防人の詩』はいいね。詩は昭和文学史に残るよ」と。どれほどこの言葉が支えになったことか。

でも、悪口が堪(こた)えない人なんていないでしょう。会ったこともない人まで「アイツ(さださん)はこんなヤツなんだ」。あぁ、こうやって人間は引きずり降ろされるんだなって。音楽を批判されても僕はイラ立たないけれど、人格まで攻撃されるとつらい。公演のお客さんも少し減りましたが、それでもたくさんの方が来てくれた。僕にはこんなに「味方」がいるんだ、と勇気をもらいましたね。

《この年(55年)の10月、奈良・東大寺大仏殿昭和大修理落慶記念行事に参加。大仏さまの前で歌うことになった》

中国で続けていた映画『長江(ちょうこう)』の撮影を一時、中断して奈良へやって来ました。今から思えば『防人の詩』でバッシングされたことで心がボロボロになって、僕は中国へ逃げたい気持ちがあったのかもしれません。東大寺のコンサートはそんな最中に行われたのです。

お寺で大きなコンサートを行うなんて聞いたことがありません。NHKが中継し、多くのメディアが取材に駆け付けていました。お客さんは立錐(りっすい)の余地もないほど。もし僕が失敗したら、もうこんなコンサートはできなくなる…と思うと、がんばらなきゃなって。

いざ、歌い始めると、しっとりとしたバラードの間奏で、後ろから、ゴーン、ゴーンといった鐘の音や、お坊さんが読むお経(きょう)の声が聞こえてくる(苦笑)。お坊さん曰(いわ)く「毎日やっていること。その前であなたが歌っているだけですわ」。

そもそも僕は歌を奉納するのに大仏さまに尻を向けている。これはいいのだろうか?と尋ねました。(後に東大寺別当(べっとう)・華厳宗(けごんしゅう)管長になった)狭川(さがわ)(普文(ふもん))さんがまだ若いころです。「大仏さんのこころはもっと大きいでっせ。衆生のためにあなたの歌をささげるつもりでやったらよろしいわ」って。

《東大寺のコンサートをきっかけにして、さださんは全国の著名な神社仏閣で数々の公演を行うことになる。それを題材にしたヒット曲も多い》

神様も仏様も音楽に関しては境界はありません。僕らとしては、命を削ってつくった音楽をささげる、という意識ですかねぇ。音楽によって僕らは生活を支えられている。ありがたい、おかげさまで、というお礼の意味もありますね。

日本の古い伝統的なものへの思いは強いですよ。最初に京都にハマり、続いて奈良へハマった。奈良はある意味〝置き去られた都〟。だからこそ残ったものがある。そこに感動して奈良通いを続けました。

そのことを通じて、僕の生命観、人生観の枠が広がった気がする。その最初が東大寺のコンサート。「やり直そう」という気持ちにさせてくれたのです。(聞き手 喜多由浩)

 

 

歌手・さだまさし<22>

映画「長江」で借金28億、みんなに助けられた―7月23日

 

《「雨やどり」や「関白宣言」の大ヒットで売れっ子になった、さださんに映画『長江』(昭和56年公開)製作の話が持ち上がる。監督・出演・音楽はさださん。製作総指揮は父・雅人(まさと)さんが務めたドキュメンタリー映画である》

もとは、戦争中に中国にいたおやじの強い思いから始まった企画。「長江源流の最初の一滴をみたい」というモチーフで、僕の事務所と中国の中央電視台(テレビ局)の共同制作で約1年半かけて撮影を行いました。

3班の撮影隊を組み、川を遡(さかのぼ)ってゆく。街ごとに、雨、雪、快晴とそれぞれの光景が全部撮れたと思います。僕は第1班で、湖南省の張家界や桃源にも行きました。張家界は後に、米映画『アバター』のモデルになったり、すごいロープウエーや透明の橋ができたりして有名になりましたが、当時は何もない。圧倒的な大自然が広がっていて素晴らしかった。

桃源へは、湖南省の省長とジープに乗って行きました。僕が思い描いていた光景と違ったのを察したのか、省長は「お前が見たがっている桃源はさらに西へ250キロ行かなきゃならない」と言って連れて行ってくれた。初めて外国人が足を踏み入れた場所も多かったし、中国の人民解放軍のヘリを使って撮影したり、今じゃ考えられないことがいっぱいありましたね。

後に、僕らが撮影したフィルムを中央電視台が独自取材を加えて再編集を行い、ドキュメンタリー番組として中国で放映した。これが、大人気を博し、今の50、60代の中国人で、この番組を知らない人はいない、と言ってもいいくらい。ただ元のフィルムを「日本人が撮影したこと」がSNSなどで話題になったのはここ数年のこと。まぁ、プライドが高い民族ですから、あえて明らかにしなかったのかもしれませんが。

《映画『長江』はドキュメンタリーとしては異例のヒット(配収約5億円)となったが、製作費が異常に膨らみ、28歳のさださんは約28億円もの巨額の借金を背負うことに》

当時、ヒット曲の印税などで約2億円なら出せた。もうかっていたんですねぇ(笑)。映画の製作にあたっては当初、日本のテレビ局と組む予定で、カネの面はOKかなって。ところが、いろんな事情で、僕の事務所が単独でやることになった。一瞬、カネのことが頭をよぎったけど、僕は「大丈夫です」と。個人が「日本」を背負ってしまったわけです。

28億円のうち、中国側に支払う撮影権料が約8億円。残り約20億円が撮影にかかった経費です。ある日のコンサート終了後の夜遅く。28の後ろにゼロが8つ、赤字でマイナスを示す横棒…「これがお前の〝財産〟(借金)だ」と突きつけられたときは、えっオレ? とびっくり。「当たり前だろう、お前に貸したんだから」と…。

どうする? って仲間に相談したときは「無理だ、投げちゃう(自己破産)しかない」という声が多かった。でもねぇ、自己破産は「逃げるようでイヤだな」と思った。破産した後はどうするんだ、という気持ちもありました。

自分に恥ずかしくてもう歌えないでしょう。だから「ダメになるまで頑張らせてください」と頭を下げました。

危機はいっぱいあった。不渡りを出したことは2度。7億円の支払期限が迫って「もう無理かも」と覚悟したことも。そのとき、業界のいろんな方が手を差し伸べてくださったのです。「まさしをつぶすな」って。感謝と恩しかありません。

金利を含めて35億円? いやもっとあったでしょう。全額を返すことができたのは30年後、58歳のときです。僕は得難い経験ができた、運が良かったと思っています。(聞き手 喜多由浩)

 

 

歌手・さだまさし<21>

大ヒット「関白宣言」とバッシング―7月22日

 

《ソロ第2弾シングル『雨やどり』(昭和52年3月)でヒットチャート1位(オリコン)に輝いた、さださん。周りの環境も激変してゆく》

1位になったことを、(第2弾アルバム『風見鶏(かざみどり)』の)レコーディング中のアメリカで聞いたことは話しましたよね(21日付)。実はこのレコーディング、僕にとっては忘れられないものとなりました。

ソロになったとき、「アルバム2枚までは好きなようにやっていい」という約束をレコード会社から取り付けていたので、ダメもとで、(サイモン&ガーファンクルの名盤)『明日に架(か)ける橋』の弦アレンジをやった米の名編曲家・作曲家のジミー・ハスケルさんにお願いしたら、やってくれるという。

僕らはそれがうれしくて、渡米前からそわそわして『雨やどり』のキャンペーンどころじゃない(笑)。実際行ってみたら楽しくて楽しくて、一生ここに住みたいと思ったくらい。レコーディング後は約3週間の旅程を組んで、(アレンジ担当の)渡辺(俊幸(としゆき))さんと一緒にヨーロッパ旅行に行く予定でクーポンを買っていました。

ところが、「『雨やどり』1位」の報を聞いたナベちゃん(渡辺さん)が僕の所へ来て、「1位になったらすごい人たちが(公演を)聴きにくるだろう。(バック)バンドもこのままじゃ通用しないから僕は先に帰って鍛え直しておくよ。ヨーロッパには1人で行ってくれ」って(苦笑)。

旅行クーポンがもったいないから、仕方なく僕は1人でパリとロンドンを回りましたけどね。

《『雨やどり』の後も、さださんは『案山子(かかし)』『檸檬(れもん)』などのヒット曲を連発してゆく。そして54年7月、『関白宣言(かんぱくせんげん)』がリリースされた》

そのころ出会った(作曲家・指揮者の)山本直純(なおずみ)さん(1932~2002年)が紹介してくれた京都・先斗町(ぽんとちょう)のスナックに僕は通うようになった。ママさんが母(喜代子(きよこ)さん)と同い年でね。お客さんが来ないと、店を閉めて一緒にご飯を食べに行ったりして、2週間に1度くらい足しげく通っていました。

あるとき僕らが「最近のオンナはダメだな」なんてオダを上げていると、ママさんから「それはオトコがダメだから。オトコはん、しっかりしとくれやっしゃ」と言われました。そしてそんな歌を書いてくれ、と。

僕は「プロポーズソング」にしようと思った。オトコ(夫)は、あれこれオンナ(妻)に意見はするけれど、実は大好きなんだ…といった落語の「替(かわ)り目(め)」のような話です。

《タイトルでもめた。候補に挙がった『関白宣言』を、さださんは懸念したが、結局、これで行くことに。歌は大ヒットしたが、果たして時代錯誤、女性蔑視などの批判が…》

このときも僕らはアメリカでレコーディングをしていたので、最初は「日本で何か騒ぎになっているみたいだよ」っていうくらいでしたけど、騒ぎはどんどん大きくなるばかり。全国紙の社会面で賛否両論が取り上げられて「アナタはどっち派?」とか、テレビで知らない人から僕の人格まで批判されたり…。そういう人たちは歌を最後まで聴いてはくれないのです。そう、批評ではなくて批判。もうむちゃくちゃでしたね。

《逆風の中で応援してくれたのが政治家、女性運動家の加藤シヅエさん(1897~2001年)だった。オトコもオンナも歌も「これでよし」と》

加藤さんは戦後、女性代議士の第一号になった中の一人ですよ。うれしかったなぁ。すごい勇気をもらいました。(聞き手 喜多由浩)

 

 

歌手・さだまさし<20>

シャレから生まれた「雨やどり」―7月21日

 

《昭和51(1976)年、さださんはソロとなる》

ソロになって初めてのシングル『線香花火(せんこうはなび)』(51年11月リリース)は季節外れ、と笑われましたねぇ。でも、つくったのは「夏」なんですよ。レコーディングを経て発売となると、11月でしょ。「翌年に取っておかなかったのか」なんて、言われましたけど(笑)。

制作はアルバム(『帰去来(ききょらい)』、同月リリース)の方が先行しましてね、8月の終わりにはほぼ全曲ができていました。こっちのレコーディングも秋にやった。歌入れをすっぽかして、10月25日に当時の後楽園球場で行われたプロ野球日本シリーズ、巨人対阪急(現オリックス)を観戦しに行ったからよく覚えている(苦笑)。阪急の足立(光宏)投手に巨人がヒネられた試合でしたか。アルバムの発売が11月25日だから、ギリギリでしたねぇ。僕はいつもそうなっちゃう。今もそうです。

ソロになってもやっていることは「グレープ」時代とそんなに変わらない。ただし、それを全部僕一人でやらなくちゃならない。それは重荷でした。

《52年3月にリリースしたシングル第2弾『雨(あま)やどり』が大ヒット。チャート1位(オリコン)に輝く。恋愛経験が少ない女性のステキな出会いを温かい家族のまなざしを通してコミカルに描いた歌だった》

『雨やどり』はね、シャレで書いたんですよ。『精霊(しょうろう)流し』や『無縁坂(むえんざか)』みたいな曲ばかり、みんな求めるから、ちょっと変わった、面白いものをつくってみよう、と思って、いいかげんにつくり始めたのです。

「それはまだ私が神様を信じなかった頃…」という詞の書き出しはすぐできた。曲はメロディーじゃなくてコード(和音)で動かしてみよう、なんて考えるうちに面白くなってきて、そうだ「なぜ神様を信じるようになったのか」の物語を書こうと。ラストは、あなたの腕(の中)。タイトルは「雨やどり」にしようと決めました。

つくった翌日か、翌々日のコンサートで「こんなヘンな歌つくったんだよ」って、すぐに披露したら、お客さんの反応がすごい。もうドッカン、ドッカン。歌詞も最初は「…ませませ」じゃなかったけれど、ふざけて「…ませませ」と歌ったらまたまたドッカン、ドッカン(笑)。その様子を客席で聴いていた(レコード会社の)ディレクターが終演後、楽屋に駆け込んできて「シングルだ、これをシングルにするぞ!」と叫びました。え? これをシングルに? 僕は、もっとちゃんとした歌にしようよ、って反対したのですけどね。

《レコードを急いで発売するため、コンサート会場でライブ録音にすることに》

(52年の)2月中に4つの会場で録(と)ったかな。そのうちの埼玉・熊谷で録ったのが、お客さんの笑い声などが一番上手に入っていた。それをレコードにして発売が3月10日だから、すごいスケジュール。僕はそのころ(山口百恵さんに提供した)『秋桜(コスモス)』(52年10月リリース)を書いていたのだから、めちゃくちゃ忙しかったなぁ。

僕としては、こんなふざけた歌(『雨やどり』)が売れるなんて思いもしなかった。発売後すぐに、僕は(アレンジ担当の)渡辺(俊幸(としゆき))さんらと次のアルバム(『風見鶏(かざみどり)』)制作のため、アメリカへ行っていたのです。レコーディングの約3週間、日本で何が起きているのか、僕らは知りません。

打ち上げの席で、同行していた放送局のプロデューサーが立ち上がって、「報告があります。『雨やどり』がオリコンの1位になりました!」。えっ? 何の1位? 部門は?。オー、すげえじゃん、って。(聞き手 喜多由浩)

 

 

歌手・さだまさし<19>

遠慮と負い目「グレープ」解散の真相―7月20日

 

《吉田政美(まさみ)さんとのフォークデュオ「グレープ」は『精霊(しょうろう)流し』『無縁坂(むえんざか)』などのヒットを飛ばしながらも、昭和51年4月に解散する。さださんの体調不良などが理由として挙げられたのだが、実は…》

確かに、体の調子も悪かったのですが、理由はそれだけじゃありません。一番は「2人のバランス」が良くなかったことですね。僕が詞、メロディーを書き、歌い、バイオリンを弾き、ステージトークまでやる。ソロでやるよりも吉田と一緒の方がずっとラクなのですが、僕としては、「もうちょっと吉田を目立たせたい。吉田を生かせられないか」という遠慮がありました。吉田は吉田で「全部さだにやらせている」という負い目があったでしょう。

《〝暗め〟の歌ばかりがヒットするのでイヤになったという噂については?》

これはシャレです(苦笑)。実はそこにあまり不満はありませんでした。それよりも、吉田の志向はジャズ・ロックで、ずっと我慢してフォークをやっているのではないか?という思いが僕にはありました。だけど僕はロックをやれないし、どこかで決断しないといけない…。忙しくなり、疲れるほどに、こんな思いがジワジワとのしかかってくる。僕は〝燃え尽き〟に近い感覚になり、最後は〝投げちゃった〟のです。

もうこれ以上はできない、やめるしかない、となったときに所属事務所をどう説得するか?という問題が残りました。吉田と相談して結局、僕の体調不良を名目にしたのは、それが一番カドが立たないだろうと考えたから。「半年間、休ませてくれませんか」という僕の要望が受け入れられなかったので〝解散カード〟を切ったというわけです。「グレープ」の活動でヒットも出て世間に認知され、人脈もできていたから、今なら吉田が思う音楽がやれるバンドをつくれるだろう、という考えもありましたしね。
 

僕ですか? 解散公演中から解散後までずっと悩んでいましたよ。オレはいったい何をしたいのかな? ものすごい勢いで思いは巡り続け、くるくると考えが変わりました。

《悩んだ、さださんは新たなバンド結成や長崎放送への就職を考えるも断られてしまう。なぜなら周りの意見は「まさしはソロで歌うべきだ!」》

事務所サイドの考えは当然「(解散後も)さだは歌い続ける」だったでしょう。だけど、当時の僕は歌うことにそれほど強い願望はなかったし、ソロでやっていける自信もない。さりとて、生活もある。食べていかなくちゃいけない…。

そこで、(アレンジを担当していた)渡辺俊幸(としゆき)さんに、思い切って新たなバンドの結成を持ちかけたら言下に断られた。「まさしはソロでやった方がいい」と。(地元の)長崎放送に音楽番組だけをつくるセクションがあり、履歴書をもって「入社させてください」とお願いに出向いたものの制作部長に鼻で笑われ、履歴書を捨てられた。「キミは歌っていなさい」

やっとソロで歌う決心をしたのは「グレープ」の解散から約3カ月後、(昭和51年の)7月ころだったでしょうか。
 

 

歌手・さだまさし<18>
「精霊流し」大ヒット、でも騙されるな―7月19日




《「グレープ」のシングル第2弾となった『精霊(しょうろう)流し』は、昭和49(1974)年1月、滞在中の福岡・博多のホテルの部屋でつくられた》

海の事故で亡くなった、いとこの兼人(かねと)の精霊船をレコーディングのために担ぐことができず、悔しい思いをしたことは話しましたね(18日付)。もうひとつ、兼人の両親が離婚していたために、両方の家から2艘(そう)の船が出た。これは長崎ではやっちゃいけない。たとえ夫婦別れをしても心ひとつにして船を出すというのが決まりです。

こうしたことが思い出された僕は兼人のことを描こうと決めました。それも、送り出すときの「チャンコンチャンコン…」のにぎやかな騒ぎではなく、船を流した帰り道の寂しさ、(遺族が)とぼとぼと歩く悲しい姿を描こう、って。

実は(「グレープ」デビューのきっかけをつくってくれた)宮崎康平(こうへい)先生(『島原の子守唄』の作者)からも、以前から、『精霊流し』は生活歌だろう、長崎にとって最も大事な行事をなぜ歌わないのか?と言われていたのです。

正月明けに博多のホテルのトリプルルームに僕ら2人とマネジャーが泊まっていたときでした。僕は壁に向かってギターを弾きながら曲づくりをしていると『精霊流し』の1番がすぐにできた。テレビを観(み)ていた吉田(政美(まさみ)さん)に聴かせると「これ2番は?」って。「2番も必要か? 長いよ」と答えると吉田は「まだ言い切っていない。言いたいことを全部書けよ」とアドバイスをしてくれた。その日のうちに完成し、すぐ長崎で初演となりました。

《レコード会社のディレクターが最高の評価をくれた一方でプロデューサーの反応は芳しくない。「ラジオでかけるには長すぎる」とか「こんな暗い歌は売れない」と…》

イニシャル(初回プレス枚数)も少なかった。期待されていないことは分かっていました。ところが、発売前のデモテープを聴いた東海ラジオの女性アナウンサーが『精霊流し』に感激して、自分の番組で繰り返しかけてくれたのです。するとどんどん手紙やはがきが来て「どんな話が背景にあるのだろう?」と〝妄想〟の議論が盛り上がった。レコード発売(昭和49年4月)の約1カ月前のことです。フタを開けてみたら名古屋だけでドーンと売れた。思えばラジオからヒット曲が生まれる時代だったのですね。

それから『精霊流し』は演歌みたいにジワジワと売れました。地方ごとに火がつき、東京で売り上げが1位になったのは9月でしたから。次の第3弾シングル『追伸』は強烈なラブソングでまぁ売れたのですが、『精霊流し』の陰に隠れてワリを食ってしまったほど。

賞レースにも加わり、いろんな賞をもらった。レコード大賞は何と作詞賞。「なぜ作曲賞じゃないのか」とちょっと寂しかったですけどね。

やっていける自信ができたかって? そんなものはありません。まぁ「一発屋」で終わるだろうなぁ。吉田とは「騙(だま)されちゃいけないぞ」って。

というのも、ヒットの前、地方のレコード店にキャンペーンに行ったとき、マネジャーがサイン書きましょうか、と聞くと店主は「2、3枚でいいよ」って。それも違うレコード会社の色紙を出してきた。それが、『精霊流し』の後には、同じ店主がまるで手のひらを返したよう。お茶にお菓子まで出た。

店主が悪いのではありません。これが業界の〝正直な反応〟なのです。再び売れなくなったら、また前の反応に戻るだけでしょう。「絶対に騙されないようにしよう」というのはそういうこと。そんな業界に僕らは入ってしまったのです。