産経新聞連載企画  話の肖像画 

 

<歌手・さだまさし>と題して7月マンスリー掲載。7月1日~31日、新聞休刊日(7月10日)を除き、毎日掲載。

 

以下に掲載日降順(<1>が一番下)で<1>~<17>を掲載した。<18>以降は別ページで掲載(リンク)

 

 

歌手・さだまさし<17>

「グレープ」デビューはしたけれど…-7月18日

 

《宮崎康平(こうへい)さん(1917~80年)は島原鉄道の経営者にして、『島原の子守唄』をつくったり、『まぼろしの邪馬台国』のベストセラーを書いた郷土史家。さださんの父、雅人(まさと)さんは宮崎さんと親しく、その縁がフォークデュオ「グレープ」の誕生にひと役買うことに》

「グレープ」のプロデューサー役は吉田(政美(まさみ)氏、リードギター担当)でした。長崎の僕の実家でセッションをしているうちに、クラシックバイオリン(さだ)とジャズギター(吉田)のフュージョンという形は面白いんじゃないか、と盛り上がっていたのです。

ある日、おやじと一緒に宮崎先生のお宅へうかがい、僕らの歌を聴いてもらう機会がありました。宮崎先生は興味を持ってくださり、「気に入ったら宣伝してくれるかもしれん。あいさつに行ってみなさい」と地元の長崎放送と長崎新聞の担当者を紹介してくれたのです。

昭和47(1972)年11月、長崎放送の小さなホールで僕らはコンサートを開くこととなり、そのことを長崎新聞が記事にしてくれました。写真入りの大きな記事です。

《記事(47年11月18日付朝刊)の見出しは「あすを目指して張り切る 長崎の若者二人 25日 初めてのコンサート」。記事には長崎の街を歌ったオリジナル曲『紫陽花(あじさい)の詩(うた)』の歌詞が3番まで掲載されている。やがて、長崎放送のテレビとラジオでレギュラー番組を持ち、東京のレコード会社にスカウトされ、『雪の朝』でデビューするのは翌48年10月だ》

「グレープ」の名前はデビュー前、友達の依頼で長崎大学の学園祭で歌ったとき、その場で決めました。吉田が五線譜の真ん中に、ぶどうの絵をひと房、書いていたのをみて、「ひとつひとつぶどうの房を増やしていこう」という思いで、横文字の「GRAPE」と名付けました。吉田もいいねって。

当時は、フォークブーム全盛のころ。ステージでは〝客寄せ〟にフォークっぽい曲を2、3曲やって、僕らがやりたかったジャズ・ロックの曲を弾くと、お客さんは退屈そう。再び、フォーク調、たまにクラシックやると、今度は寝ていた(苦笑)。そんな感じです。新聞に書いてもらったデビューコンサートは300席の会場でも埋まりませんでしたが…。

レコードデビュー曲となった『雪の朝』も売れませんでしたねぇ。僕自身「これは売れないだろうな」と感じていたけど、レコード会社のディレクターが「これが僕の好きな音楽なんだ」って。その年のクリスマス、ディレクターに呼び出されて売れた枚数を聞かされました。「3700枚、そのうち2000枚は長崎で売れた」

これはもうクビだな、また長崎に戻って真っ当な就職先を探そうって覚悟していたら、「次は5000枚、その次は1万枚売ろう。5万枚なら大ヒットだ」と励まされました。僕が驚いて「『次』があるんですか?」と返すと、「当たり前じゃないか。今日は第2弾の話をするために来てもらった」って。

第2弾の打ち合わせを行い、ディレクターが「長崎の行事を歌にしてほしい」というので、まず『長崎くんち』を思いついたけど、どうもピンとこない。少し前に、僕と仲の良かった同い年のいとこ(母の姉の息子、兼人(かねと)さん)が海の事故で亡くなり、お盆に彼の「精霊(しょうろう)船」を出したばかりでした。

僕は彼の精霊船を担ぎたかったのですが、ちょうど『雪の朝』のレコーディングのためにかなわなかった。その悔しい思いもあってディレクターに『精霊流し』の説明をした。それが彼の心の針に触れたらしく、すぐ「これでいこう!」と決まったのです。(聞き手 喜多由浩)

 

 

歌手・さだまさし<16>

ついに「バイオリンの道」断念-7月17日

 

《国学院高時代のさださんはバイオリンのレッスンを続けていたが、東京芸大を受験するレベルには「遠い」ことを感じていた。いつやめる決断をするか。期待してくれた母にどう伝えるのか。ノイローゼになるくらい悩むことになる》

学校生活には何の問題もない。だけどバイオリンのことを考えると、吐き気がする。3歳から続けてきたバイオリンをやめたら僕に何が残るのか。期待し続けてくれたおふくろを裏切ることにもなる…僕の心は壊れ始めていた気がします。

高校3年の夏休み、僕は友達と一緒に長崎に帰省した。大学受験は目の前に迫っている。芸大や音大の受験を諦める…という決断をいつか両親に伝えなくてはならない。一番簡単なのは「お母さん、僕には才能がありませんでした」と言うことだが、それではあまりにも誠意がない。この一番つらい行為をするとき、おやじを頼ったことは話しましたね(9日付)。

おやじは僕の決断を理解してくれましたが、母ががっかりするのはよく分かっていて「しばらくは言うな」と。結局、母への伝達は〝なし崩し〟的になってしまった気がします。

結局、大学は国学院大学の法学部に進みました。国語が得意だったことを知っていた高校の先生からは「文学部へ行け」と言われたのですが、僕はツブしがきかない文学部よりも法学部へ進んで弁護士になるつもりでした。いずれにせよ音楽の道を諦めた僕は長男だし、家族を養わねばならないと感じていましたから。

《ところが入学してみると、日々バイトに明け暮れて大学の講義にほとんど出席しない。大学2年の終わりには単位不足で3年生へ進めないことがはっきりしていた。体を壊したさださんは再び帰郷する》

(アルバイトによる)過労で黄疸(おうだん)が出て、長崎に逃げ帰ったんですよ、実際は…。3年に進めないことはもう分かっていたから、おやじに「学費がもったいないから大学を辞める」と言いました。2年をもう一度やるくらいなら1年浪人して東京芸大を受け直す方が…という気持ちもまだあったのですが。

このときのおやじは、さすがに「うん」とは言わなかった。学歴がないこともあっておやじは大学を出させたいという気持ちが強かった。「せめて休学はどうだ? 大学くらい出ておかんか」と…。けれども、僕は休学中でも学費が必要なことを訴えて結局、2年終了時に大学を辞めてしまいます。

バイオリンの道もダメ、一般大学を出て就職をする道も…。期待を裏切りみじめに故郷へ逃げ帰った僕におふくろは不満も愚痴も言わず、いつものように明るかった。「体大丈夫ね? 自分の家やもん、ゆっくり休みなさい」って…。僕はブラブラしながら、自分がつくった歌を整理したり、新たな曲をつくったりしていました。

《さださんが長崎の実家で療養生活を続けていたころ、高校時代からの音楽仲間だった、吉田政美(まさみ)さんが失踪したという知らせが届く。吉田さんはプロのバンドにギタリストとして入り、地方を回っていたが、突然いなくなったという。さださんは、吉田さんが長崎に現れる予感を持っていた》

果たして、吉田から電話がかかってきた。「長崎は遠いなぁ」って。「吉田、どこにいる?」と僕。はじめは厳しいことを言って追い返すつもりが、何となく居候(いそうろう)を許すことに。2人ともやることがないから、僕がつくった曲に吉田がギターでリードを弾く。

《そしてフォークデュオ「グレープ」が生まれる》(聞き手 喜多由浩)

 

 

歌手・さだまさし<15>

「2年10組」問題児が「師匠」のもと結束―7月16日

 

国学院高校時代(中央でギターを弾いているのがさださん)(株式会社まさし提供)

 

《音楽科の受験に失敗して〝すべり込んだ〟国学院大学付属の国学院高校は東京の神宮前にある。昭和43(1968)年、学生運動が盛んな時代で、社会は次第に騒然としていく》

「70年安保」をめぐって学生運動が活発に行われていた時代です。明治公園で大学生が〝アンポハンターイ、フンサーイ〟などとシュプレヒコールを上げているのが聞こえてくる。高校生だって隣にある都立青山高はガンガンやって、ロックアウトされているのに、国学院高は校則が厳しく、まるで〝飼いならされた羊〟のよう。

僕は別に赤旗を振り回したいわけじゃなかったけど、変革の時代に何もできないのが悔しくてね。2年生のとき「デモに行けばパンがもらえる」というデマにだまされて、一度だけ友達と運動に参加しました。例の〝アンポハンターイ、フンサーイ〟を叫びながら新宿西口に差し掛かったとき、シューッという音とともに催涙ガスのスプレー缶のようなものが転がってくる。「こりゃあ命が危ない」と感じた僕は喘息(ぜんそく)持ちの友達を担いで、隣の代々木駅まで逃げた。それきりデモに参加したことはありません(笑)。

《2年生のとき、問題児ばかりを集めたという10組に入れられた。クラスは大人数の68人。しかも担任は前任の都立高校で〝暴力事件〟を起こしたという「噂」だった》

2年10組、担任は古文の安本衛(やすもと・まもる)先生。1年生時の問題児ばかりが集められたこともさることながら、この安本先生がとにかく〝ヤバい〟らしい。前任校では生徒を殴って、鼓膜を破ったとか、それも3度も…。

ところが、この問題児たちが安本先生の人柄にひかれて結束してしまう。問題児が固まると強いですよ。結局、学校を揺るがすような大問題になって、3年になると、見事にバラバラにされましたけど(苦笑)。

安本先生は僕たちに「学校は勉強するところじゃない」と言い放ちました。調子に乗った僕が「その通り!」と半畳(はんじょう)をいれたら、先生は「遊びに来るところでもない」とピシャリ。そして、お前たち勘違いするな、「学校は勉強をするための方法」を身に付けるところであり、「勉強は一生かけて自分でするものだ」って。

僕はこの一言で安本先生にシビれましたね。先生の言いつけ通りに僕はずっと勉強をして生きてきた気がします。歌づくりだって勉強しなくちゃならないから大変なんですよ。自分で調べてもどうしても分からないときは安本先生を頼った。歌手になってからもしょっちゅう電話して教えを請う。先生の方も始終、元教え子を集める。もう3カ月に1度くらい、呼びつけるんだから(笑)。

《さださんが古(いにしえ)の奈良を舞台に書いた『まほろば』(昭和54年のアルバム「夢供養(ゆめくよう)」に収録)のタイトルを決めるときも安本先生に相談した》

最初は『飛火野(とびひの)』(奈良・春日大社周辺の地)というタイトルにしたかった。ところが、万葉集を探してもこの地名が出てこない。安本先生は「40分くれ」って一旦電話を切った後に「分かった。初出は『古今和歌集』(平安時代)だ。『万葉集』(奈良時代)には出てこない。『飛火野』は聖武天皇以降の地名なんだよ」と教えてくれた。それで『まほろば』というタイトルにしたのですが、安本先生は「こっちもいいよ」と言ってくれました。こんな先生がちょっと前まで元気でいてくれたのだから幸せでしたね。

《「天国」だった国学院高の3年間。一方で「決断」のときが迫っていた。バイオリンの道をどうするか…問題である》(聞き手 喜多由浩)

 

 

歌手・さだまさし<14>

高校受験に失敗「人生終わった」―7月15日 

 

《中学時代の懐かしい思い出は、さださんの『木根川橋(きねがわばし)』(昭和54年のアルバム「夢供養(ゆめくよう)」に収録)に歌われている。そこに登場する「先生」が〝ロボ〟こと村山秀一さん》

〝ロボ〟のあだ名の由来は、顔が四角で眉毛が太く、ロボットのように「かくかく」と動くから…。僕が歌手になった後、ロボの地元で行うコンサートには、当時の教え子を連れて、ずっと来てくれました。ただ、必ず『木根川橋』を歌わなくちゃ許してくれない(苦笑)。

歌の中で、同窓会で酔っ払い寝てしまう「先生」が登場します。実際の同窓会でロボが僕に「あの歌はいい歌だ。どこがいいって、先生が寝ちまうところだ。あの『先生』は誰だ?」って聞くから僕は「あんただよ!」。ロボは「そうか、よく見てたな」だって。実際、ロボはよく居眠りしていた。だからロボが試験監督のときはカンニングがし放題でしたから。

とにかく、ユニークな先生がいっぱいいたなぁ。「赤ちゃんの産み分け」の権威なのに、研究時間が取れる、というだけで中学校の先生を続けていた〝エッチ先生〟や、『アララギ』(短歌結社誌)の選者を務めるほどの歌人だった〝トンボ〟こと宮地先生(国語)とかね。

後に、宮地先生の全歌集を見つけて買ってみたら、僕のことを歌ったものが何首もあった。当時は、けんかばっかりしていたけど、「僕のことを見ていてくれたんだな」と思うと、うれしくなりました。

《宮地先生はいつも、さださんに〝居残り学習〟を命じていた。国語のドリルを1冊与えて、「これをやり終えたら帰してやる」と…》

国語のドリルをたたきつけるように置いて「いいからやれ」って。面倒くさいから僕はさっさと答えを書いて、投げるようにして帰ろうとすると、先生は「ちょっと待て」と、その場で採点、「ここがバカなんだよ。間違ってるぞ」。「うるせぇなぁ」と僕もけんか腰…。

今から思えば、先生は「国語の面白さ」を僕に伝えようとしていたんですね。国語が得意だった僕に期待をかけてくれていた、と思います。能因(のういん)法師(百人一首にも出てくる平安時代の歌人、僧侶)の歌の解説をしてくれたりして、日本の古典文学についてもよく教えてくれました。高校に進んだときにそのありがたみが分かった。僕は高校の古文なんか「簡単じゃないか」と思えましたから。

《バイオリンのレッスンは続けていた。東京芸術大学の付属高校(芸高)を目指したが、当時習っていた先生がどうしても認めてくれない。結局、東京都立駒場高校の音楽科(当時)を受験したのだが…》

僕としては、芸高から芸大へ進みたかった。ついていた先生も芸大出身でしたからね。ところがその先生が芸高出身者にイヤな思い出があったのか、どうしてもダメだと受験を許してくれません。駒場高の音楽科から芸大へ行け。それまではオレが見てやるから、って…。

不本意ながら、僕は駒場高を受験しました。もちろん合格する自信は満々。まず、2日間、実技の試験があって、これには合格。ところが、学科試験で落ちてしまったのです。特に数学の点数がひどかったらしい。後で中学の担任で数学の先生だったロボに随分、怒られましたねぇ。「なんだあの点数は。バカか」って。悩みましたねぇ。「オレの人生終わった」って。〝天才少年〟といわれていたのに…。

振り返っても「よく生きていたな」と思うくらい落ち込みました。
《ところが2次募集で入った国学院高校が人生を変える》(聞き手 喜多由浩)

 

 

歌手・さだまさし〈13〉

バイオリン抱え中1で単身上京-7月14日

《大陸に雄飛した祖父母、両親の話から、さださんの少年時代に戻ろう。3歳でバイオリンを始めたさださんは、小学校高学年のとき、権威あるコンクールに上位入賞を果たし、「天才少年」の評判を呼ぶ》

小学校4年生のとき、初めて全日本学生音楽コンクールの西部大会(九州・山口)に出場、5年生のときに3位、6年生では2位になりました。

才能を自覚したかって? そんなことはまったくありません。4年生で初出場したときは、僕より下手な人が入賞しているのはなぜだろう?なんて生意気にも思っていましたが、5、6年のときに僕より上位になったのは、いずれも女性で、すごくうまかった。

5年生のときに優勝した数住岸子(すずみ・きしこ)さん(1952~97年)はその後、桐朋学園から米ジュリアード音楽院に進み、世界的なバイオリニストになった。僕がデビューした後に音楽雑誌で対談したのですが、彼女は当時の僕のことをまったく覚えていなかった(苦笑)。ただ、彼女のお母さんが覚えていて「あのときの男の子よ」って。彼女は作曲家の武満徹(たけみつ・とおる)さんにかわいがられて、すごいバイオリニストになりましたが、病気のために45歳で亡くなりました。

6年生のとき、優勝したのは山口県の女性でした。西部大会の出場資格が山口県と(九州が)一緒じゃなければ僕が1位だったのになって…。後にコンクールを主催する新聞社で仕事をしたとき、単に同社の管轄(西部本社)による区分だと聞いて何十年ぶりかで「そうか〝大人の事情〟だったんだ」と分かりました(苦笑)。

僕のバイオリンは専門家の先生から「あんなにきれいに〝なく〟バイオリンは聞いたことがない」なんてほめられたこともあって、母の期待は高まるばかり。「あんたは才能がある」って。それまで夏休みごとに上京して指導を受けていた日本一の名伯楽、鷲見三郎先生も、「中学生になったら上京して自分のところへ通いなさい」と誘ってくださったのです。

《さださんは、中学入学に合わせて上京を決める。下宿での独(ひと)り暮らしが始まった》

上京するか否か、母から聞かれました。「マー坊(さださんのこと)、あんた東京へ行きたいと?」。僕は「うん、行く」と答えました。ホントは行きたくないですよ、まだ中1だもん。だけど、周りからほめられてすっかり〝その気〟になっている母を僕はがっかりさせたくはなかったのです。

でも、実際には不安でしようがない。東京での独り暮らしもそうだし、おカネの心配もあった。おやじの仕事は不安定なままで、下宿代やレッスン代はどうするんだろうなって…。

《期待と不安が入りまじったまま、さださんは上京。昭和40(1965)年4月、東京都葛飾区立中川中学校に入学。すぐ体の大きな友達ができた。生涯の親友となる「のりちゃん」(安西範康(のりやす)さん)》

入学して何日かたったとき、のりちゃんが一緒に帰ろう、と誘ってくれた。優しくておとなしい体の大きな男だけど、正義感と思い込みが強くて、怒りだしたら手がつけられない(苦笑)。そのとき交わした会話を覚えています。のりちゃんが「君はベトナム戦争をどう思いますか?」って。僕は「戦争はいけないと思います」。そういう時代だったんですねぇ。

とにかく、中学時代はすごく楽しかった。面白い先生や、いい友達に恵まれました。荒れていた時期で、校庭でシンナーを吸ったりする不良がいた一方で、まじめなヤツもいたり…まぁ、むちゃくちゃな学校でしたよ(笑)。(聞き手 喜多由浩)

 

 

歌手・さだまさし<12>

岸壁で祖母を待ち続けた父―7月13日

 

《終戦後、長崎へ引き揚げた父、雅人(まさと)さんは茂木(もぎ)港近くの材木店に勤めることに》

おやじが満州(現中国東北部)で生き別れになった母親(さださんの祖母、えんさん)を捜すために終戦後も中国に残る決意をしていた話はしましたよね(9日付)。

でも、おやじのことを気に入った戦友(後のさださんの伯父)が「佐田をどうしても(戦友の郷里である)長崎へ連れて帰る」という。戦争中、手榴弾(しゅりゅうだん)で大けがをしたとき、戦友に命を救ってもらった恩を感じていたおやじは、誘いを断れなかったようですね。

ではなぜ、茂木港か?というと、(僕の)祖母(えんさん)の郷里である天草への船が出る港だったからです。満州で生き別れになった祖母が日本に引き揚げてくるとき、必ずこの茂木港を通るだろうと、父は考えたのですね。仕事の合間に船が着くと、おやじは「ちょっと見てくる」と言って港へ祖母を捜しに行く。「岸壁の母」の逆バージョンです。

そして、とうとう船から降りて来る祖母の姿を見つけたのです。そっと祖母の後ろに回って手で目隠しをしたら、「雅人じゃろ、あんたは生きとると思うとった」って。このとき、祖母は70歳。母子2人で天草の実家へ行った後、長崎へ連れ戻した。おやじが戦友の妹である母(喜代子(きよこ)さん)と結婚した家で同居します。僕はずっと〝おばあちゃんっ子〟でした。

《大陸に雄飛した祖父母や両親の血は、さださんにも脈々と受け継がれている?》

どうなんでしょうかねぇ? 僕は子供のころから臆病で泣き虫だった。夜は怖いしね。「こんな怖がりのコはいない」と心配されていたくらい。

それが、年を重ねて、何度も修羅場をくぐっているうちにだんだんとハラが据わってきたから不思議なもんです。

修羅場ですか? ヤクザに脅されたこともあります。そんなとき僕はビビるよりも、だんだんとさめてくるんですよ。刺されてもしようがない。のめないことはのめません。

ハラを括(くく)って「それは恐喝になりますよ」と言い返しました。そんなことよりも、ステージの方がよほどビビる。ずっと怖いですよ。これが、先祖や両親から受け継いだ「血」なんでしょうかね。

《さださんがデビューした後、雅人さんは個人事務所の社長になる。その存在が〝安心感〟にもつながった》

(個人事務所は)僕が友達とつくった会社なんですが、いつのまにか(?)おやじが社長になっていた。「お前ら若造じゃダメだ」なんて、エラそうに言ってね(苦笑)。

でも実際に社長になってみれば、おやじはこの「業界の人」たちとうまく付き合う。いわゆる〝アヤシイ人〟も少なくないこの業界で、おやじは、だまされたフリをして上手に使いこなしたりしていましたよ。

僕のコンサートにも、おやじは来るようになった。「おとうさん、おとうさん」ってみんなに親しまれて気持ち良かったんでしょうね。お客さんを会場に入場させる役目を務めたり、ファンと一緒に記念写真を撮ったりして喜んでいました。

おふくろは怒っていましたけどね。「まさしのお金使ってぇ、自分のコンサートでもないのに…」ってね。

だけど、僕のような一匹おおかみの場合、僕が潰れたら周りも事務所も全部潰れてしまう。それを何十年も守ってくれたのは「父の政治力」のおかげだったと思っています。

事務所の仕事を喜んでくれたことで、少しくらいは親孝行ができたかな、って。(聞き手 喜多由浩)

 

 

歌手・さだまさし<11>

一家はシベリアから樺太、満州へ―7月12日

 

《ウラジオストクでスパイの任務中の繁治(しげじ)さん(さださんの祖父)をえんさん(祖母)が自分の日本料理店に匿(かくま)ったことをきっかけに2人は結婚する。えんさんは3度目、繁治さんも別に家族がいたらしい》

祖母が経営していた日本料理店は「松鶴楼(しょうかくろう)」という名前でした。当時のことですから、おそらくは廓(くるわ)も兼ねていたんでしょうね。店が入っていた建物(ビル)が今も残っています。

祖父と結婚したとき祖母は42歳。大正9(1920)年には2人の間に僕の父(雅人(まさと)さん)が生まれました。

《日本軍のシベリアからの撤退に伴い、一家もウラジオストクから日本へ引き揚げる》

僕の母が祖母から聞いた話によると、そのとき一家は、あの軍艦「三笠」(日本海軍・連合艦隊の旗艦で、日露戦争の日本海海戦で活躍)に同乗して引き揚げたという。やっぱりタダもんじゃない(笑)。

三笠で日本に着いて、お寺の一角を借りて暮らし始めたが、食わなきゃいけない。祖父の繁治は仕事を求めて、同郷(島根県)の政治家で首相になった若槻礼次郎(わかつき・れいじろう)さん(1866~1949年)を訪ねた。すると、(日露戦争の勝利で日本領となった南樺太の)海豹島(かいひょうとう)のオットセイ(群棲(ぐんせい)地があった)の権利をくれるという。

ところが、その話を祖母が嫌がったために、繁治はもう一度、若槻さんに頼んで、今度は樺太の森林資源の権利をもらったらしい。そこで一家は樺太に渡り、泊居(とまりおる)(南樺太中部西海岸)という街に住んで、製材の仕事に携わりました。

《当時の樺太では、針葉樹林が紙・パルプ用に適していることが分かり、王子製紙などが相次いで進出していた》

ところが、そのうちに、祖父が心臓まひで亡くなってしまう。まだ53歳でした。

おやじ(雅人さん)は小学校まで樺太にいましたが、寂しそうな母(えんさん)の姿を見ておやじは「満州にでも行こうか」と提案した。昭和の初め、母子は時計店を経営していた親類を頼って今度は満州(現中国東北部)の北部に渡ります。朝鮮半島を経由して鉄道で満州へ行った旅費が(当時としては大金の)「107円」かかった、と聞いたことがありますね。

《大陸では次第に戦争の影が。昭和12(1937)年日中戦争が勃発、16年には対英米戦へ突入してゆく》

おやじも召集され、中国戦線で戦いました。中国語が話せたおやじは「ゲリラ」になって軍の情報収集活動に従事していたらしい。

おやじに聞いたところでは、本隊の2、3キロ先にいるのが「斥候(せっこう)(偵察隊)」、5キロ先が「ゲリラ」なんだそう。つまり、完全に敵中にいる。そこで怪しまれないように中国人の格好をして情報収集にあたる。つまりはスパイ任務。祖父の繁治もそうだったから、「父子2代のスパイ」という一面もあったのでしょうかね。

僕が中学2年のとき、おやじの戦友会についていったことがあった。戦友たちによれば、おやじはハラが据わっていて、危ないことも平気でやる。「佐田はロクな死に方はしないだろう。お前のおやじはとにかくすごかった。ちょっとおかしいくらいに…」なんていう話をさんざん聞かされました。

終戦後、生き別れになっている祖母(えんさん、雅人さんの母)を捜すために、おやじが中国に残るつもりだった話はしましたよね(9日付)。結局、戦友に連れられて長崎へ帰ったのですが、母子はその後、劇的な再会を果たす。その話がまたすごいんですよ。

 

 

歌手・さだまさし<10>

祖父は「スパイ」、大陸舞台に運命の出会い―7月11日
 

《父方の祖父、佐田繁治(しげじ)さん(大正15年、53歳で死去)は島根県出身。日清戦争(1894~95年)に従軍し、生涯の大半を台湾や中国、樺太など「外地」へ雄飛した人だった》

祖父は田舎の次男坊でね、兄は村長でした。日清戦争後に台湾で警官になり、匪賊(ひぞく)(抗日ゲリラ)の討伐任務に就いたらしい。「佐田巡査が匪賊を切り殺す」なんて書いてある記事を見たことがありますよ。

祖父は腕っぷしが強く、どうやらその後、軍に見込まれてスパイ(軍事探偵)になったようですね。「肩書」はいっぱいあって、新聞記者となったり、大谷探検隊(大谷光瑞(こうずい)が中央アジアに派遣した学術探検隊)の先遣隊としてウルムチ(現中国・新疆(しんきょう)ウイグル自治区)の調査をやったり、商社マンとして貿易に従事したり…。

僕が持っている資料では、中国の西域に日本の領事館をつくる動きにもかかわっていた。『新疆事情』(※中国人・謝彬の旅行記を日本の外務省調査部が戦前に訳して出版した本)には祖父の名前が2度出てきて、そこには軍事探偵と書いてあります。

〝家庭内伝説〟として伝えられている話はもっといっぱいある。日本のシベリア出兵(1918~22年)の下準備として、中ソ国境地域を騒乱させるために馬賊操縦の任務にあたったのもそのひとつ。その馬賊を掃討するために日本軍が出ていく、というシナリオを描こうとした。工作資金として毎月、当時のお金で600円(大金!)を使っていたといいます。まぁ、これも、祖母から聞いた話でしかないのですけどね。

《大陸を舞台にさまざまな秘密任務に就いていた繁治さんは、ロシア(ソ連)の沿海州・ウラジオストクで日本料理店を経営する女性と運命的な出会いをする。さださんの祖母、えん(エム)さん(昭和37年、85歳で死去)。こちらも、繁治さんに負けず劣らずのドラマチックな生涯を送った女傑だった》

祖母のえん(旧姓・田原)は熊本県の天草(あまくさ)・本渡(ほんど)生まれ。17歳で最初に嫁ぎ、姑(しゅうとめ)の嫁いびりで婚家を出た。だから村にいられず、ウラジオストクでクリーニング(和服の洗い張り)の仕事をしていた兄を頼って海を渡ったようですね。

ウラジオストクではロシア人の校長先生の家でお手伝いさんになりました。祖母はそこでロシア語を学ぶ。それも貴族が使う言葉です。それは満鉄(南満洲鉄道。日本の満州経営の中核となった国策会社)の1等通訳が「これはすごい」とうなったほど、奇麗で上品なロシア語だったそうですよ。

戦後の話ですが、長崎港にソ連(当時)の船が入港したとき、祖母は割烹(かっぽう)着のまま、船までふらっと出掛けてゆきました。やがて祖母は、大男の若いロシア水兵たちに、たくさんのプレゼントを持たせて帰ってきたではありませんか。

「このコ(ロシア兵)らは田舎のコよ、なーんも知らんとよ」なんて話していました。ロシア語がペラペラな祖母を見て、「うちのばあちゃん、えらいなぁ」ってビックリ。僕が小学校2年生のころでした。

《祖父母の出会いのきっかけはスパイの任務中、官憲に追われた繁治さんをえんさんが自分の店に匿(かくま)ったことだった》

このとき、祖父は辮髪(べんぱつ)(満州族=清(しん)の男性の伝統的な髪形)姿だったというから、中国人に化けて何らかのスパイ任務に就いていたんでしょうね。その男が流暢(りゅうちょう)な日本語を話したから祖母はびっくり。「日本人」というだけで祖母は匿ったのだ、そうです。

 

 

歌手・さだまさし<9>

「花形タイピスト」だった母―7月9日

《母親の喜代子(きよこ)さん(旧姓・岡本)は生まれも育ちも生粋の長崎っ子。戦前、戦中は中国・武漢の商社で花形の職業、和文タイピストをしていた》

母の祖父、(2代目)岡本安太郎(やすたろう)は長崎の顔役でした。港湾荷役を行う沖仲士(おきなかし)を500人も仕切っていた「岡本組」をやっており、その邸宅は、長崎市の鍛冶屋町の一角ほとんどを占める大きさだったそうです。賭場なんかも仕切っていた、いわゆる「俠客(きょうかく)」ですね。

けんかがあると、警察車両で乗り込んで行って「このけんか安太郎が預かる」。そして、警察も一緒に自宅で手打ち式をやって収める。安太郎の顕彰碑が大音寺(長崎市)の境内に残っていますよ。母の父、為吉(ためきち)は尺八の先生。音楽の素養があったのかもしれませんね。母はそんな家に育ったお嬢さんでした。

生粋の長崎っ子だから、「中国(武漢)に行くのはイヤじゃなかったの?」と聞いたことがあります。母によれば、当時は「国の概念」が今とは違っていたらしい。外国へ行くというよりも単に武漢へ働きに行くという感覚だったのですね。

長崎と中国大陸が距離的に近いこともあったのでしょう。長崎からは東京へ行くよりも、上海の方が近いのです。母の姉(さださんの伯母)や姉の連れ合いも中国にいましたから。

《喜代子さんの中国での若き日をモチーフにした歌がある。『フレディもしくは三教街~ロシア租界にて~』(昭和50年、グレープのアルバム「コミュニケーション」に収録)》

戦争中、中国戦線で戦ったおやじの戦友に、情報将校だった母の兄(さださんの伯父)がいました。終戦後、おやじは満州(現中国東北部)にいる母親(さださんの祖母)を捜すため、中国に残るつもりだったのですが、伯父がおやじを気に入って郷里である長崎へ連れて帰ることになったのです。

《そして、父、雅人(まさと)さんは戦友の妹(喜代子さん)と結婚することに》

おふくろはお嬢さん育ちだから、結婚を申し込まれたら、断っちゃいけない、と思っていたらしい。だから、7人もの男性に承諾の返事をしていた。それを代わりに断りに行ったのがおやじです。

おやじはそのころ、材木店に勤める一方で、海水を炊いて塩をつくる仕事をやっていた。その塩と引き換えに漁師からもらった魚を毎日のように、おふくろの家へ届けに来るのです。だが、荒縄をベルト代わりにしているようなおやじに会うのがイヤで、おふくろは妹に応対させて居留守を使っていたらしい。「佐田さんは言葉も格好も下品だ」って(笑)。

仕方なく(?)おふくろは結婚することになったのですが、おやじをどう思っていたのやら…。おやじはおふくろのことが死ぬまで大好きでしたが、おふくろはそうでもなかった。僕には「いっちょん好かん」って。いっちょんは、長崎弁で「最高に」という意味ですからね(苦笑)。

《喜代子さんは、バイオリン修業で中1から独り暮らしだったさださんに手紙を送り続け「お前のことを信じています。母より」と必ず書いてあった》

重たかったなぁ。でも、母を悲しませることはやめよう、犯罪だけはダメだなって。実際にはスレスレのことまでやっちゃったんですけどね(笑)。

僕がバイオリンをやめようと決意したときも母には言えなくて、おやじに言いました。「お前の人生だから好きなようにしなさい。母さんにはまだ言うな。僕から言うから」と言ってくれたのはおやじでした。(聞き手 喜多由浩)

 

 

歌手・さだまさし<8>

うれしかった「カステラ」と、おやじ―7月8日


《法外な金利の借金を取り立てにきたヤクザと堂々と渡り合い、逆に叱りつけて黙らせた父、雅人(まさと)さん…》

やがて騒ぎを知った刑事が家までやってきた。おやじに向かって「佐田さん、怖かったでしょ。脅されたでしょ」。刑事は組員を恐喝事件で立件したかったのでしょうけど、僕は子供心に「なんてバカなことを…その言葉だけは言っちゃいけない」と。あのおやじが素直に「怖かった」なんて答えるはずがない。逆効果ですよ。

案の定、おやじは「全然怖くなかった。怖かったのは向こうの方でしょう」って(苦笑)。おかげで組員は立件されず、刑事から「佐田さんに感謝しろよ」と言われたらしい。早速、ヤクザの組長が紋付きの羽織袴(はかま)姿でお礼にきたのです。その手には紫の風呂敷で包まれた高級品のカステラが…。まだ切る前の焼きたてのヤツです。

組長は、土間に土下座して「これからはオジキと呼ばせてください」。僕は、えっ、おやじはヤクザになっちゃうのかな?と不安を覚えるとともに、頼むからカステラだけは突き返してくれるなって(苦笑)。

すると、おやじは、「ヤクザにはならんばってん、カステラだけはもろうときましょ」って。よくよく聞いてみれば、カステラはおやじの大好物だった(笑)。あのカステラは、うれしかったねぇ。

《明るくて皆に愛された父、雅人さんとのエピソードは、さださんの自伝的小説『かすてぃら 僕と親父(おやじ)の一番長い日』(平成24年、小学館)にたっぷりつづられている》

本には書かなかったけど、その組長に頼まれて、おやじがプロレスラーの力道山(りきどうざん)を長崎に呼んだことがありました。どんなツテがあったのかは知りませんが、このとき力道山側が要求したギャラが250万円だったらしい。すごい大金ですよ。力道山が地元の老人ホームにテレビをプレゼントした〝善行〟が報じられているのを聞いたおやじは「テレビ1台で善行かい?」と憤慨していました。今度は興行師なのかな、と思いきや、それきりでしたが…。

例のヤクザの話はその後もあります。長崎市内の思案橋(しあんばし)を僕がおやじと歩いていたら、トラックの荷台に竹やりを持った連中が「おやっさーん」と手を振っている。「誰ね?」と聞いたら「ヤクザ、ヤクザ」って(笑)。どうやら出入りの途中だったらしい。結局、警察の一斉検挙で組は潰れたそうです。

《雅人さんはいろんな仕事に手を出し続けたが、ついにカネもうけとは無縁だった》

最後には、台湾の鶏のエサのバイヤーみたいな仕事をしていましたね。おやじは酒を飲めないのに、そこの社長に飲み屋に呼び出されて、いろいろ文句を言われたらしい。おやじはキレて「オマエとはもう付き合わん」と言って、水割りを20杯も飲んだ。ベロンベロンになって店内で大暴れ。

呼び出された僕は、吉田(後にフォークデュオ「グレープ」の相棒となる政美(まさみ)氏、当時、長崎の佐田家に居候(いそうろう)していた)の車で迎えに行きました。帰宅してゲーゲー吐いていましたが、情けないおやじの姿を見たのは、このとき一度きりです。おふくろは冷たい目でおやじを見ていましたが…(笑)。

 

 

歌手・さだまさし<7>

生まれたときは大邸宅のおぼっちゃま―7月7日

《昭和27(1952)年4月10日、材木業を営む父、雅人(まさと)さん(平成21年、89歳で死去)と母、喜代子(きよこ)さん(28年、90歳で死去)との間に長崎市で生まれた。下には弟と妹。幼少期は部屋が10以上もある大邸宅の〝おぼっちゃま〟だった》

生まれたときは朝鮮戦争(1950~53年)の真っただ中。日本は、その戦争特需による好景気に沸いていました。

バイオリンを習い始めたのは3歳のときですね。母が近くの野外音楽堂で、ある少年が弾くバイオリンの演奏に魅せられて「あんた(さださんのこと)も弾きたいでしょう?」って。僕も「ウン」と言ったらしい。こりゃ誘導尋問ですよ。

父は、他の楽器がいいんじゃないか、とピアノの値段を見たら20万円もした。片や子供用の小さなバイオリンは3千円で売っていたので、そっちを買ってきたそうです。

父が「習わせるならば趣味ではなく、本格的に勉強すべき」と主張して、母の女学校時代の音楽の先生だった井上将英(まさひで)先生の門をたたきます。長崎では有名な、厳しくも優れたバイオリンの指導者でした。

《ところが昭和32年の長崎・諫早(いさはや)水害で雅人さんの材木がすべて流されてしまい破産。大邸宅も手放し、一転して狭い長屋住まいに。苦しい家計の中でも喜代子さんは、さださんにバイオリンをやめさせなかった》

「バイオリンが好き」かって? 嫌いでしたねぇ(笑)。楽曲を弾くのは気持ち良かったのですが、練習がもうイヤで仕方がない。運弓、運指のトレーニングをさんざんやってやっと練習曲集にいく。ようやく楽曲までたどり着くまでにはすでに2時間もかかっている。

友達と遊んだ後に、僕だけはバイオリンの練習ですよ。だから僕は勉強をしなかった。する時間がなかったもんだから(苦笑)。母がいないときは、バイオリンで勝手な曲をつくって弟、妹らに聴かせていました。こんな曲はどうだ、って。

おやじは、その後、材木の仲買などいろいろな仕事に手を染めましたが、商売は下手くそでしたねぇ。すぐ他人を信じては騙(だま)される、借金の保証人になって、それをかぶってしまう…。母が内職をして支えましたが、とにかくカネがない。あるとき、おやじが闇金(やみきん)のようなところから借りた高利のカネをめぐって、ヤクザが家に怒鳴り込んできたことがありました。僕が小学校4年生のときでした。

おやじは、材木の買い出しで山へ入って家にはいない。深夜、母が父に急を知らせる電報を打ちにいくとき、寝ていた僕を起こして「一緒に行って」と頼まれた。母も怖かったのでしょう。帰ってきたおやじとヤクザの間で大騒ぎに…。


《雅人さんは中国戦線で白兵戦の修羅場を経験したツワモノだ。商売は下手でも、ハラは据わっている。正義感が強くて、反権力。キライなものは一に警察、二にヤクザ…》

借りたカネはとっくに返しているんです。ところがヤクザは法外な金利を吹っ掛けて「まだ足りない、返せ」と脅す。おやじはそれが許せない。ついにキレた(笑)。「静かなところで話しましょう」と自分の車にヤクザ3人を乗せ、郊外の山道へ。路肩がない崖スレスレのところを猛スピードでぶっ飛ばした。「オマエらみたいなヤツを生かしておいては世のためにならん。オレは兵隊帰りで怖いもんなんかない。一緒に死んでやる」って。

ブルったヤクザは「冗談ですよ」と平謝り。オヤジはポケットの有り金を出して「もうあこぎなマネはすんな」って。
 

 

歌手・さだまさし<6>

「小説」はもうひとつの表現手段―7月6日



 

《さださんには、いろんな「顔」がある。ベストセラー作家はそのひとつだ。49歳だった平成13年の小説『精霊(しょうろう)流し』以降、ヒットを連発。多くの作品が映像化されている》

実は「歌い手」になることに憧れたことは一度もないけど、「小説家」には子供のころから憧れていました。中学、高校時代は、僕が書いた小説をみんなが楽しみにしていて授業中に回し読み、「早く次を読ませろ」とせっつかれていたほど。いっぱしの〝ベストセラー作家〟気取りでしたね。小説の面白さですか? 「こんな人がいるんだよ」って書きたい、みんなに知らせたいのかな。

《デビュー作の『精霊流し』はグレープ時代の大ヒット曲をモチーフにした自伝的作品。出版社の意向だった》

自伝的なものから始めるのがいい、と言われました。そりゃあ、そっちの方が売れるかもしれませんが、僕には他に温めていたテーマがあった。2作目となった『解(げ)夏(げ)』(14年刊)です。『精霊流し』は執筆過程からテレビ番組の一コーナーになったりして、実際、ベストセラーになりました(後にドラマ化、映画化)が、僕にはつまらなかったですねぇ。

テーマによって「歌」で表現しやすいものと、「小説」に合うものが、はっきり分かれていると思っています。簡単にいえば、想像する「余白」が多いものは歌に向いている。逆に、細かく書き込むべきものは小説がいい。『解夏』はまさに小説のテーマでしたよ。

《『解夏』はベーチェット病によって徐々に失明へと向かう青年が主人公だ。解夏とは、失明する恐怖と闘う主人公が光を失うと同時に恐怖から解放される日のことをいう》

ゆるゆると失明へと向かわざるを得ない青年の恐怖と葛藤。そして、「解夏」を迎えた瞬間…このテーマは「歌」では残念ながら表現ができません。歌と小説は〝競技〟が違う。たとえば野球とゴルフほどに。小説を書いて一番よかったと思うのはそれまで「歌」しか手立てがなかった僕に〝もうひとつの表現手段〟ができたことです。

振り返ってみれば、それで失敗した歌もたくさんありますよ。スタッフに「こういう歌をつくりたいんだ」とテーマを話して聞かせる。そのときは涙ぐんで「ぜひつくってください」と言っていたスタッフがいざ歌が出来上がってみれば、〝イマイチ〟という顔をしているんです(苦笑)。「ああ、これは小説のテーマだったな、オレはへたくそだなぁ」って。

反対に、「歌」がよかったと思うのは『風に立つライオン』(アフリカの貧しい村で奮闘する日本人医師が主人公。昭和62年シングル盤発売)かな。小説(平成25年刊)にも書きましたが、あのテーマは想像する余白が大きい歌の方が合っている。小説に書くとどうしても「こう読んでください」と限定されやすいので。今は、そのジャッジがすぐにできるようになったから、歌づくりも小説を書くのも早くなりました。

《新型コロナ禍の中で小説を書くことは一時、中断を余儀なくされたという》

書きたいテーマはいっぱいあるのです。でも、コロナ以降は書く気がおこらない。未知の感染症に対して、各地で音楽が止まり、コンサートが止まった。「人間は弱いもんだなぁ」ってがっかりもしました。
 

僕は、コンサートを活発にやっているときほど〝創作脳〟が働いて小説も書けるのです。やっぱり、「忙しさのストレス」が書かせるのかな。だからそろそろ…。(聞き手 喜多由浩)

 

 

歌手・さだまさし<5>

「はがき」に込めた熱き思い―7月5日

 

《携帯電話は今も〝ガラケー〟。LINEはやらない。SNSもごくわずかだけだ。これって、「ネット社会、IT社会」へのアンチテーゼですか?と問うと…》

そんなものじゃありませんが、「世の中に逆行」は、してますよね(笑)。知り合いになって、「LINEを教えてください」ってよく言われるけど、「電話番号を教えるから、電話をかけてよ。出られないときは仕方ないけどね」と答える。SNSも(映像がメインの)ごく一部だけ。それは、今の若い人たちには映像で見せないと伝わらないことがあるからです。他は個人的にはやらない。スタッフ任せです。

スマホは持っていないけど、タブレット端末を持っているからそれで十分こと足りるし、電話だけならあと数年は〝ガラケー〟でも大丈夫です。LINEなどをやると、読むのに時間がかかるし、返さないと「既読スルー」だなんて言われちゃう。やらないほうが、よほど人生がはかどりますよ。

《電子的なコミュニケーション手段よりも「はがき」「てがみ」が好きだ。平成18年から司会を務めるNHKテレビの「今夜も生(なま)でさだまさし」では視聴者からの便りもメール、ファクスは原則禁止。さださんが読む「はがき」がメイン》

はがきというのは大きさが決まっているでしょ。同じスペースに壮大なドラマが書きこまれている。僕はそれを見るのが好きなのですよ。細かい字で丁寧に書かれたものや素晴らしい芸術作品のような絵手紙もある。どれだけ一生懸命に書いてくれたのかな、と思うとうれしくなってしまう。

そうかと思えば、雑な文字で怒っているのが伝わってきたり…人間って面白いですよ。字の上手下手はあっても、人間がやっているものは「美しい」と思う。音楽も同じです。〝人間の業(わざ)〟が伝わってくるものは美しいし、僕は好きですね。

はがきのいいところは、相手に思いを伝えようとして書くまでに、あれやこれやだいたい3回くらい考えること。やり直しも簡単にできないから、頭の中での校正に時間がかかる。3回くらい泣いて、5回くらい笑う。はがきを見ていると、書き手がどこに「フォーカス」したかったのか、見て取れるのですよ。そこにはがきの面白さがあるし、ドラマがある。

「時間」のプレゼントでもありますね。書き手がはがきを書こうと思った瞬間から、実際に書いて、ポストに投函(とうかん)して、それが届く。僕に伝えようとしてこのはがきは何千キロも旅してきたのだと思うと、ありがたいし、もったいない。しかも、おカネ(郵送料)まで払って、ですよ。だから僕は、「時間」を贈(おく)られたようなうれしい気持ちになるのです。

今や、恋人と別れるときも、会社を辞めるときも「メール1本」でおしまい。はがきには、メールとは違う人間の業が息づいていると思いますね。

《番組で、はがきを読み上げるときは書き手になりきって読む。ある種の演技である。そして、間違った言葉遣いがあると、その場で「正しく」校正して読むことにしている》

そうすれば、書いた本人だけに分かるでしょ。「そうか、間違ったんだ」って。僕なりの視聴覚教育。言葉のキャッチボールかな。

音楽でも僕と聞き手(ファン)の関係はそう。僕がどんな球を投げても、ちゃんと受け取ってくれる。(今年のWBC決勝戦で)大谷(翔平)投手のあのすごいスライダーを初見で捕った中村(悠平)捕手みたいにね! 僕はアルバムを通じて50年も「文通」しているのです。 (聞き手 喜多由浩)

 

 

歌手・さだまさし<4>

露のウクライナ侵攻に怒り―7月4日

 

《昨年6月にリリースされたアルバム『孤悲(こい)』に「キーウから遠く離れて」という曲が収録されている。同年2月に始まったロシア軍によるウクライナ侵攻を題材にした歌だ》


『キーウから遠く離れて』を歌う=昨年8月のコンサート(株式会社まさし提供)

『孤悲』というのは万葉集にもいっぱい出てくる言葉。万葉集の当て字には、ひどいものもあるけれど、これは〝いい当て字〟ですね。僕がずっと温めていたタイトルでした。

「孤」「悲」は、新型コロナ禍でみんなが味わった思いでしょう。おととしの年末かな、スタッフに「来年(令和4年)はこのタイトル(アルバムやコンサートツアー)でいくぞ」と躊躇(ちゅうちょ)なく宣言しました。ところが、1年半もアルバムをつくっていなかったものだから、なかなか制作が進まない。

そんなときは〝ショック療法〟が一番。(昨年2月の)ウクライナ侵攻…これは、ものすごいショックでした。

怒り、滑稽さ、悲しみ…70年以上も前に起きたような戦争を今の時代にまたやるのか。(ロシア軍の)戦車が列をなして進軍していく姿や、撃ち放題に撃ち込まれるミサイルや爆弾、銃弾をみたとき、「コイツらバカじゃないのか? 何やっとるんじゃ!」って…。

銃を撃つ兵士も、相手を殺したくて殺しているんじゃないと思う。彼らにも、お父さんやお母さん、女房や子供がいるでしょう。人間はいったい何をやっているんだという思いを込めて「キーウから遠く離れて」という歌をつくりました。

すると、止まっていた自分の心と体が動き出したのです。約2週間でアルバムの曲をつくり、実働約3週間半でアルバムができました。これまでの経験になかったことですね。

《ウクライナの戦争だけではない。世界に目をやれば、力による現状変更をもくろむ国や核・ミサイルによる恫喝(どうかつ)を繰り返す国、権力闘争による内紛が続く国…各地で起こる戦火や緊張に国際社会はなかなか歯止めをかけられていない》

自由と民主主義の衰退ですか? だからこそ、ウクライナの戦争というのは〝命がけのリトマス紙〟なんだと思います。「自由主義」が末路に来ていると感じている連中が、「強権主義」を求めて、世界各地で数々の戦争を仕掛けているのですから。

確かに、国民の人権などを考慮せず、国が強くなることだけを求めるならば全体主義、強権主義が早いですよ。戦争を〝正義、大義〟だと言い張る国に対して、戦争なんて〝ばかばかしい〟と教わった人たちがどうやって勝つことができるのか? 残念だけど難しいでしょう。怖いことです。

(自由と民主主義の象徴だった)アメリカも今や…。ましてやその〝属国文化〟でしかない日本の命運は推して知るべし、でしょう。(自由と民主主義を守る)状況はすごく厳しいですよ。

《ウクライナの戦争は日本という国のあり方を改めて問いかけることにもなる》

先の大戦がなぜ起きたのか? 〝アメリカの属国文化〟になぜなってしまったのか? 今の若者たちは知らないし、知ろうともしない。

「70年安保」の学生運動のとき、僕は高校生でした。未成熟だった僕は新宿駅西口のデモに一度だけ参加し、催涙ガスを浴びて帰ってきましたが(苦笑)。

このとき、ある政治家は本当に革命が起きるのではないか、という不安から夜も寝られなかった、と回想しています。だから、国民ができるだけ政治のことを考えないような方向へと誘導していった、という。

多くのメディアも、時の政権を慮(おもんぱか)って正確なことを伝えようとしない。「戦後を返せ」と言いたいですね。(聞き手 喜多由浩)

 

 

歌手・さだまさし<3>

トークも曲も全てを出し切る―7月3日

 

《コンサートの回数は4580回(今年5月まで)。日本ではもちろん断トツだ》

借金が多かった30代の半ばに、年間「187回」という年がありました。あくまで記録上の話で実際にはもっと歌っていると思いますけどね。

ただ僕は「数」を競っているわけではありません。基準もいろいろですしね。スタッフが面白がってギネスブックに申請する話が出たんですが、「どういうカテゴリーで申請するのですか?」と問われました。つまり「回数」だけではダメ。たとえば自分のライブハウスで365日歌っている人がいたら、もっと多いかもしれない。だから、「何千人かの会場を満員にさせた回数」とか「2時間以上のコンサートの回数」とか…。

僕のコンサートは東京なら約5000人、大阪は約3000人。他でもだいたい1000人以上の会場でやる。おかげさまで完売になることが多いのですが、「満員」という証明をすること自体が難しい。結局、ギネス申請はやめたようです。

《新型コロナ禍の中でもコンサートはやめなかった。入場者の数を半分以下に減らし、「赤字覚悟」である》

コロナ禍はまさに「有事」「国難」でした。僕は平和が壊れたら音楽はできなくなる、と言い続けてきたのですが、新型コロナによって、音楽が止まった、コンサートが止まってしまったのです。怒りがこみ上げてきました。これはいったい何だろう、何を人類に突き付けているのか?って。

やがて、僕のコンサートは「(入場者が定員の)50%以下ならOK」という許可が出ました。はっきりいって「赤字」。苦しい時期でした。だけど僕は意地でもコンサートを続けたかった。ただ、僕の仲間でさえ怖がって出てこない。同世代で高齢なので家族が心配して止めたからです。「すまん、今回だけは行けない」と…。

いくら大丈夫だ、と伝えても完売にならないこともあった。「それでもやろうよ」と背中を押してくれたのはバンド仲間やスタッフです。「カネにならないぞ」という僕に「まさしはやるべきだ」って。「今回は恩を借りるわ」と言いました。

面白いことにお客さんが半分になっても拍手の大きさは変わらないのですねぇ。座席を1人置きにして空間ができたから拍手の音が吸収されない。歌詞もよく聞こえたらしい。結局、コロナ禍でも、コンサート開催のペースは落ちませんでした(年間40~50回)。ディナーショーを続けてくれたホテルにも感謝しています。

《コンサートはいつも全力投球。時間は大抵予定をオーバー。過去に同じ会場でやった曲やトークは繰り返さない》

(プロ野球元巨人の)長嶋茂雄さんにロングインタビューをしたとき、球場にきてくれる人はそのときが「生涯に一度きり」かもしれない。だから〝元気がない長嶋〟は見せたくない、全力でプレーする、というお話に感銘を受けました。

僕も同じ。過去のコンサートを録画しておき、同じ場所で曲目がかぶっていたら差し替えます。楽しんでもらうにはどんな手があるかな、とアイデアをひねり出す。ポケットの中には何ひとつ残らないように、すべてを出し切る。拍手がうれしくてまたステージに…すると2時間の予定が3時間、4時間になっちゃう(笑)。

おそらく、おカネを稼ぐという感覚が薄いんでしょうね。コンサートに出ていく引き換えとしておカネをもらうなんて、怖くてできませんよ。

 

 

歌手・さだまさし<2>
「痛み」を「喜び」に変える「やばい老人」ー7月2日


《テレビ番組で「老人」ですか?と視聴者から問われたとき、ちょっとムキになってこう答えた。「令和の老人」、「昭和の青年」だ!》

僕は子供のころから、お年寄りにあこがれていたので「老人」になるのは、少しも嫌じゃなかった。ただ、いざ自分がその年になってみたら(昔、考えていた老人の)イメージとあまりにも違っていたのでねぇ。「老人っていったい何だろう?」って、戸惑いますよ。

僕が「老人の入り口」と考える還暦(60歳)のときに「誕生日ライブ」をやりました。それが、午後4時から8時までの予定だったのに、結局、夜10時半までやった(笑)。あれから10年余…。「老人」って長いなぁ、って思いますよ。今のところ、大病もしていないし、あと10年くらいは普通のペースで生活できるんじゃないか、コンサートの数も減らさなくてもいいんじゃないか、ってね。

《『やばい老人になろう』という自著に、〝やばい〟条件を3つ書いている。知識の豊富さやスゴイものを持っていること。そして「どんな痛みも共有してくれる」こと…》

年を取って「人の痛み」が分からないのは一番、恥ずかしいこと。「愛」がないのと一緒です。傷つき、痛みを感じている人に同情することなら誰でもできます。そうじゃなく痛みを喜びに変える方法を教える。それには豊富な人生経験と豊富な語彙(ごい)を持った言葉力が必要です。「今は痛いかもしれないけど、やがては喜びに変えることができるんだよ」って。話が面白いお年寄りは社会や家族から孤立することもありません。

お年寄りが家にいる、目がある、って大事なことですよ。少なくとも、わが子をいじめ殺すような事件は起きないでしょう。若いうちに勢いで子供を産み、やがて相手と別れる、新しいカレが子供を殺してしまう…といったような事件のことですよ。お年寄りがいれば、絶対にかばうもん。「まぁまぁ私が言って聞かせるから」と取りなしもするでしょう。

《「独居老人」「孤独死」…日本社会の寂しい老後が気にかかる》

経済成長時代とともに、核家族化が進み、年老いた親と同居しない〝ルールめいたもの〟ができました。つまり、若い世代が老人を拒絶したのです。僕は当時、20歳を過ぎたばかりでしたが、「それでいいんだろうか?」と疑問を感じていた。時流に対して簡単に自分の意思を手放してしまうとワリを食う。最後には1人になって死んでしまうことにもなりかねない。

僕は〝おばあちゃん子〟でした。中学1年生から、独(ひと)り暮らしをしていたから家族が恋しかったし、家族といることが楽しかった。だからずっと「家族」の歌を歌ってきたのです。嫌がられるほどにね(苦笑)。

若いとき、親を拒絶した人が年老いて今度は自分が子供に拒絶されていることにやっと気づく。そして、伴侶がいなくなれば1人きりになってしまう…気づくのが遅いですよ。

《「老人力」を生かしたい》

僕の仲間も、いまだに現役でがんばっているヤツもいるけど、多くは定年になって、順番に「場外」に押し出されています。もったいないと思う。

彼らの経験や能力、知識を生かせば、もっと面白いことができるんじゃないか。「場外」にもうひとつのワールドがあるなって思います。だから、〝老人株式会社〟をつくればいい。オレは「これならできる」「役に立つ」というものが必ずあるでしょう。まさに「老人力」を生かせ、ですよ。(聞き手 喜多由浩)
 

 

歌手・さだまさし<1>

「愛」があれば大抵のことは大丈夫―7月1日

 

《「愛」があれば何事も…ときっぱりおっしゃるので、ヒネクレ者のおじん記者(還暦過ぎ!)はちょっとたじろいだ。そうか、デビューから半世紀、この人は、そのことを歌や物語に紡いで、多くの人を励まし、癒やしてきたのだ》

いろんな物事を解決できるのは、「愛」しかない。愛さえあれば大抵のことは大丈夫なんですよ。僕が考える愛とは、自分がこうしてもらったらうれしいだろうな、ホッとできるよな、ということを投げ続けること。相手の身になってね。簡単に言えばサービス精神かな。

それが、もらった側を元気にさせ、パワーを与える。大事なのは「返してもらう」なんて求めないこと。計算、欲得なし。それが愛です。今の政治や社会には愛が足りません。もうちょっと愛があれば世の中、円滑に回るのにな、って。

逆に、愛を感じていない人に対しては、ものすごく冷たい。今のネット上での〝炎上〟なんて、まさにそうでしょう。徹底して攻撃し、牙をむいて骨まで嚙(か)みちぎるようなひどい言葉を投げつける。対面だったらそんなことはしない人までが、そうなってしまうのは(ネットでは)相手の顔が見えないからですよ。塀の裏に隠れて、汚い物を投げつけている。そこに、愛はありません。

残念ながら、こうしたことを許しているのも「自由」の一側面なのです。厳しく規制すれば強権的になってしまう。自由と強権をそれぞれ、中途半端に賛美してきたこの国(日本)らしいといえばらしい。

《エッセーなどで日本社会や日本人への直言、苦言も呈してきた。最近は〝イイ人〟イメージばかりが目立つのは、おじん記者の気のせいか?》

〝イイ人〟イメージ? そりゃダメだなぁ。僕はずっと〝瞬間湯沸かし器〟と呼ばれていた。それも真横に5メートルも(熱湯が)飛ぶ(苦笑)。年を重ねてまるくなった気はしないし、今も〝尖(とが)って〟いますよ。

でもまぁ、口にする言葉は多少マイルドになったかもしれません。僕の思想や「怒りの沸点」はまったく変わらないけれど、今は口にする前に、あらゆる方角から「正しい」のか「間違い」なのか? ジャッジできないことはとっさに言わない努力をしています。というのも、(ネットなどで)たたかれると、伝えたいことの本質が伝わらなくなるからですよ。

政治や社会でも、本音で語れないことがあまりにも多過ぎる。メディアだって、どれだけ真実を伝えているのか? 検証もされない、間違いだらけのネットの情報がまかり通り、多くの人がそれにパッと飛びついちゃうのが実情でしょう。

《テレビの生番組の司会で学んだことがある。「たたく」よりも「褒めて」生まれるエネルギーを大事にしたい》