我が家の石巻・ど根性ひまわり🌻13代目
一番大きく育ったのがこの写真のひまわりで丈が2mぐらい。7月16日朝から開花が始まった。危険な暑さを記録する昨日の青空に映えていた。
ひまわりはやがて土に抱かれ眠る
さて、先週はほぼ1週間、妻と長女が所用で不在だったので、長男と男二人の生活だった。
ブログでお付き合いいただいている方は「ファミリー女子会」(リンク)とのタイトルで身内の女子のみなさんの麗しいシーンを投稿していたが、こちらは「ファミリー男子サバイバル」
男子二人の生活の場合、何と言っても問題なのが食事。料理は女性がやるもの、という意識は一切ないが、日常の分担で、やる機会がほとんどない。
ところが長男、意外とやる。半年間のオーストラリア留学生活でたいぶ訓練されたようである。ほぼ全食長男が準備してくれたが、3回ほど二人で外食した。
ヘビーユーザーの長男の誘いで吉野家。朝8時半に吉野家に行くというのは私の習慣にはないんだけど、ハムエッグ牛小鉢定食、なかなか。若い長男は牛丼だった。
こちらも長男ヘビーユーザー、ヘビーイーターの横浜家系ラーメン🍜
長男の薦めで特製ラーメン。何が特製かと言えば、海苔8枚、チャーシュー2枚、九条ネギ、ホウレン草多め、そして味玉1個。トッピングがスペシャル。
油少なめでちょうどいい。とかく”美味さ”の裏には、塩分とか糖分とか油や辛さなど、どちらかと言うと体に悪いものがあるもので、この店の濃厚さに慣れてしまったかな?美味く感じるようになってきた。
で、これまた長男の希望でスシロー🍣
男子二人だけのテーブルでは会話がまったく弾まない。長男にオープン・クエスチョンを投げかけても、「そう」「一応」「うん」「まぁそんなとこ」…そんな答えしか返ってこない。
二人無言でひたすら食べるだけ。
スシローでは一時期まで数の子の握りを出していた。数の子が大好きなので、スシローではこれしか食べない…そんなことはないが、そのぐらい多く食べていた。
数年前メニューから消えたが、新たに数の子松前漬けの軍艦が入っていたので、3皿ほどね。
食べ終わって、「予想以上に食べたなぁ」「そうだね。腹いっぱいだね」…唯一まともな会話をして、二人で満腹感を確認した。
長男ももう22歳。男の子は可愛さ先払い。恐竜と新幹線が大好きで、小さい頃あんなに可愛かった長男は、子ザルからすぐにサルになって、今やゴリラのような風貌になった。でもまぁ、これはこれでまだ可愛いところがあるなと、親ばかながら思った。何となくだが。
昔、大きな恐竜も 昔、小さな恐竜も
同じ雨を見あげただろうか
同じ雨にうなだれたのだろうか
あの雨が降ってくる
昔から降ってくる
(中島みゆき「昔から雨が降ってくる」)
7月17日(月)祝日「海の日」も朝から通常の仕事。今週は友だちのライブを観に行ったり、ふるさと山梨に帰って中学時代の友だちと一席持ったり。
ここから8月中旬頃まで、仕事もプライベートも忙しい日々に入るが、楽しみもいっぱいある。
(山梨県「花の都公園」/2023年5月6日筆者撮影)
本人が言葉を尽くして説明したとしても、それを真っすぐに受け止めない。そもそも受け止める回路が違うので受け止めようがない。
文脈で捉えず言葉だけをあげつらい、今度はその正式な本人発の言葉に重ねて批判をぶつける。
まぁ、そんな人は昔から変わらずいたもので、2023年7月になって急に発生したわけでもない。
私自身もそういうたたかれる側に何度も立ってきたが、渦中はしんどいものだ。
どうあれ、人の口には戸は立てられない。今風に言えば、人の発信にこちらからブロックはかけられない。バッシングされた時は”まったくそのとおりでございます”と表明しつつ、実際には聞き流しておく、放っておくに限る。
(山梨県「花の都公園」/2023年5月6日筆者撮影)
かつて情報は誰かがどこかから発信してくるものを、それなりのプロセスを経て入手する必要があった。
ただ、言うまでもない、現代はネットの時代。ネットの発展とともに、誰もが何らかのデバイスとツールを手にしている。
誰でもいつでもどこでも手軽に、オーサライズもされない個人感覚ベースのつぶやきや感想、時に人を攻撃する言葉を入手できるし、真偽混交の三流誌(紙)の記事さえネット上で読める。
何より、誰もが簡単に発信できるようになり、それがあっという間に広く拡散される時代、一億総発信者時代。
もちろんネット時代の正の側面も多くあることを認識しているが、一方の負の側面の方が何十倍も前面に出ているし、威力がある。
時代により表現手段は違うものの、とくに誰かや何かを叩くのは、根本的には人間自体が持っている性(さが)みたいなものから来る心理であり、行為。人間がいる以上、それは無くならない。
プロセスはどうあれ、それと向き合う自分自身のスタンスを持ち、リテラシーを身につけることなのだろう。
バッシングされている時にどう身を処したか。大丈夫、見る人はちゃんと見ている。
人々が互いに応援する声を掛け合い、苦しい胸の内を聴き合う社会に…それらの行為が現代に全くないということはないが、あまりに無勢に映る。
そうした社会に憧れ、少なくとも自分の周りにはそういう世界を作りたいと日々思ながら、まったく心休まらない、眠れない時代を生きている。
色あせた憧れに 見せる苦笑い
眠れない時代だと 一人つぶやいた
(松山千春「眠れない時代」)