2023年6月16日の松山千春名古屋センチュリーホール公演、最後の曲を歌う前に、同級生であり親友の阿部寿美雄さんが6月14日に逝去したこと報告していた。

 

ステージでのその内容(概要)は、参加された夢野旅人さんの記事に掲載されている。

 

 

(上の記事から抜き書き)

 

実は、名古屋に来る前、14日の夜。
俺の同級生、阿部寿美雄が札幌医大病院で亡くなりました。
すぐに会いに行って

 

「寿美雄、何で…でも、息子が跡を継いでくれて良かったな」
 

~学生時代、阿部寿美雄さんの吹奏楽の発表会に応援しに行った思い出などを語り~
 

この間も(見舞いに行った時)、俺の前では、
 

「千春、酒はやめたから」
「寿美雄、長生きしてくれ。そうしないと、俺がデビューしたときから、俺のことを知っている奴が、どんどんいなくなるからな」

残念でしたけど、寿美雄には…
(声が震えるが堪える)
同級生として…感謝もしているし…
つくづくみんな、俺もそうだけど、長生きしてください。

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(2022年9月30日足寄にて/筆者撮影)

 

会場にいなかったので、確かなことは書けないが、上の青字の、阿部寿美雄さんの吹奏楽の発表会に応援しに行った思い出、というのは、松山千春自伝『足寄より』(112~113㌻)に書かれている足寄高校時代のことなのかもしれない。

 

このことではなかったとしても、松山千春、親友のことをしっかり書き残している。

 

以下にその個所を抜粋した。

 

松山千春は足寄高校を卒業した昭和49年(1974年)春、北見に向かった。そこで約1年間を過ごすことになる。

 

北見に向かう汽車の中での回想~

 

 いまさらくやんだり、後ろめたい思いをすることも、なにひとつなかった。

 いや、ひとりだけいるな、高校時代にわるかったって思うやつが。バスケット部のマネージャーの阿部寿美雄。ほんとにいいやつなんだ、あいつは。

 

(阿部寿美雄さん:筆者挿入/「松山千春~さすらいの青春」)

 

 寿美雄は(ブラスバンドに入って)がんばってた。合奏コンクールがあるというんで、みんなで応援に行った。あいつはマネージャー引き受けてるので、(…)表面に出ることがない。それがステージに出るんだから、応援してやろうじゃねえかってわけ。俺たち、大声で「寿美雄!」って何回も叫んだ。

 あいつはステージの隅っこのほうにいた。俺たちがいくら声援しても、あいつ、出番がないわけ。それで一回、シンバルをカシャーン、これで終わり。(…)俺たち期待してたもんな。

 次の年も大会に出た。今度はステージの奥のほうだけど、まんなかあたりにいた。おっ、今度はなにかやるかな、と見てたら、太鼓をドーン。(…)いや、進歩してたね、じつに。トライアングルをチン、チン、チンときた。(…)

 でもな、それだけを生真面目にやる、そんなやつなんだ、あいつは。

 その寿美雄に俺はギターを借りた。これがどこでどうしたのか、俺にもわからないんだけれど、どこかに行っちゃって、借りっぱなしのかたちになってしまった。

 寿美雄も忘れたのか、なにもいわないけれど、俺としてはやはりひっかかる。それからなんだよね、あいつに頭があがらないのは。

 いまでもギターの話が出ると、俺は寿美雄の顔が浮かんできて、ドキッとする。

「そんなことあったっけ」

 あいつはとぼけた顔で、そういうんじゃないかな。そんなやつばかりだった、足寄高校の連中って…。

 

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(2022年9月30日足寄にて/筆者撮影)

 

 

当然お会いしたことはなく、松山千春を介してしか、ほんの少ししか存じ上げませんでしたが、かと言ってまったく無縁の方とも感じていません。ご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

 

狭い部屋の片隅で
夜が明けるまで語り尽した

どんなに勇気付けられた事か
どんなに助けられた事か

たった一度の人生だから
一人っきりじゃ淋しい

 

松山千春―「自分なりに」