<2022.12.22>起稿
言葉の魂の哲学
古田徹也/2018年4月10日/講談社選書メチエ
【2019年サントリー学芸賞受賞(思想・歴史部門)】※
(出版社による本書内容紹介)
中島敦の小説「文字禍」、ホーフマンスタールの小説「チャンドス卿の手紙」。この二つの作品に描かれたいわゆる「ゲシュタルト崩壊」、すなわち、文字が意味や表情を失って見える現象をてがかりに、ウィトゲンシュタインの言語論に新しい視座を与え、カール・クラウスの言語論に、すぐれて現代的な意味を見出す。清新な言語哲学の登場!
言葉が表情を失うことがある。たとえば、「今」という字をじっと見つめ続けたり、あるいは、「今、今、今、今、今、今・・・」と延々書き続けたりすると、なじみのあるはずの言葉が突然、たんなる線の寄せ集めに見えてくる。一般に、「ゲシュタルト崩壊」といわれる現象だ。
逆に、言葉が魂が入ったように表情を宿し、胸を打つようになることがある。こういう現象を、どうとらえたらいいのだろうか。魂のある言葉とは、どのようなものか。
本書は、中島敦とホーフマンスタールの二編の小説からはじまる。いずれも、「ゲシュタルト崩壊」をあつかった作品である。
ついで、ウィトゲンシュタインの言語論を検証する。かれが「魂なき言語と魂ある言語」といったとき、どのような哲学が展開されるか。
そして、最後に、カール・クラウスの言語論を考える。
生涯をかけて、言語批判をつらぬいたクラウスの思想とは、どのようなものだったか。
それは、「常套句に抗する」ことで、世の中をかえようとする試みでもあった。
以上の三つの核によりそいながら、「命ある言葉」とはなにかを哲学する力作。
※サントリー学芸賞は、公益財団法人サントリー文化財団が主催する学術賞。人文科学・社会科学の研究者が日本語で執筆して、日本国内で出版した著書を対象としている。
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「いつもの言葉を哲学する」(以下リンク)に先んじて2018年に刊行された。私の読後のイメージとしては、本書の核となるエッセンスを抽出して分かりやすくまとめたのが「いつもの言葉を哲学する」という位置づけ。
「いつもの言葉を哲学する」で述べている著者の主張の核のひとつは「自分で考え、自分で言葉を選び取りながら発し、その言葉に責任を持つこと。それを踏まえていれば、かりに常套句と言われる言葉を発した場合であっても、それは生き生きとしたその人の言葉として立ち上がり、常套句とは言えない」(同書208㌻:要旨)―その主張の原型は本書に見ることができる。
この稿ではそれが象徴的に読み取れる箇所を抜粋し、加えて”いい言葉”に出会った時に内面に起こる感覚的なものについて、共感した箇所を抜粋した。
「たとえば、「やばい」という言葉は、現在の日本において多くの場合常套句として濫用されている言葉だと言えるだろう。しかし、常にそうであるわけではない。(…)
肝心なのは、この言葉を用いる者自身がそうした(「やばい」という言葉が持ついくつもの)ニュアンスに自覚的になれるかどうかである。たとえば、何気なく「これやばい!」と言ったとしても、仮に他人から「いま『やばい』ってどういう意味で言ったの?」と聞かれたとして、いま挙げたようなニュアンスを説明できるのであれば、そのときに用いた「やばい」は常套句ではない。あるいは、そのように明確に言葉にできなくとも、「かなり旨い」や「すごく美味しい」ではどうもしっくりこない、ここでは「やばい」がぴったりだ、という風に感じられるのなら、その場合の「やばい」は常套句としては一線を画している。つまり、そうした場合の「やばい」は、「危険だ」「不都合だ」「恐ろしい」「取り乱しそう」「はまっていまいそう」といった多面性をもった言葉として――他の言葉には置き換えられない独特の表情をもつ生き生きとした言葉、鮮度の高い言葉として――活性化しうるのである」(本書218~2019㌻)
「卓抜な批評の言葉に触れたとき、人はときに思わず膝を打ち、これぞ自分が言いたかったことだと感じる。もちろん、その言葉は、当該の批評がなされたときに初めて生まれ、人々の耳や目に初めて入った言葉である。だからこそ人は虚を突かれて驚き、感心するわけだが、にもかかわらず、同時に、その言葉はしっくりくるものとして受けとめられる。自分が以前から思っていたことをうまく表現してくれた、そう人に感じさせるのである。(…)
人は当該の(しっくりくる)言葉が生まれる以前には何も思ったり感じたりしていなかった、ということになるわけではないからである。むしろ、後から振り返れば、当該の言葉によって表現されるものに類することを以前から思ったり感じたりしていた、と捉えるのは自然だとも言える。(…)すなわち、ある言葉が生まれることによって、それが生まれる以前のものの見方や感じ方、考え方などが明らかになる、というある種パラドクシカルな構造である。繰り返すなら、その言葉で表現されなければならなかったものとして、その言葉の創造において初めて「自分が以前から思っていたこと(感じていたこと、見ていたこと等)」が遡及的に浮き彫りになるというところに、言語の創造的必然性と言われる所以がここにあるのだ」(191~192㌻)