<2021.12.14>起稿

 

「いつもの言葉を哲学する」
古田徹也/朝日新書/2021年12月30日刊


 

言葉は、社会にとって生命線であり急所でもある
 

かつて哲学者のウィトゲンシュタインは、「すべての哲学は「言語批判」である」と語った。本書で扱うのは、私たちがいま生活のなかで用いる「生きた」言葉たちだ。現実をぼやかす言葉、責任を回避する言葉……。こうした表現が蔓延する中で、言葉を大切にするとは何をすることなのか。<しっくりくる言葉>を慎重に選び取る重要性を考える。(本書紹介欄)

 


古田徹也
著者は東京大学大学院人文社会系研究科准教授。東京大学文学部卒、同大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。専攻は哲学・倫理学。著書に「はじめてのウィトゲンシュタイン」ほか。「言葉の魂の哲学」で第41回サントリー学芸賞受賞。

朝日新聞連載「古田徹也の言葉と生きる」(2020年9月~2021年5月)を担当。

※写真は東大新聞オンラインから


 著者が本書を著した目的は―
 「私たちの生活は言葉とともにあり、そのつどの表現と対話の場としてある。言葉を雑に扱わず、自分の言葉に責任をもつこと。言葉の使用を規格化やお約束、常套句などに完全に委ねてはならないこと。これらのことが重要なのは、言葉が平板化し、表現と対話の場が形骸化し、私たちの生活が空虚なものになること―ひいては、私たちが自分自身を見失うこと―を防ぐため」(281㌻)であると伝えるため。

 

 著者は本書で一貫して、思考停止状態から抜け出し、自分が使う言葉を自分で考えて選び取ることの重要性を主張している。以下少々長くなるが、私が読み取った著者の主張の核を、著者の言葉を引用しつつ記載する。

 言葉を選ぶことの重要性を逆説的に述べる。
 「しっくりくる言葉を捜し、類似した言葉の間で迷いつつ選び取ることは、それ自体が、思考というものの重要な要素を成している。逆に言えば、語彙が減少し、選択できる言葉の範囲が狭まれば、その分だけ「人を熟考へ誘う力も弱まる」ことになり、限られた語彙のうちに示される限られた世界観や価値観へと人々は流れやすくなる」(114㌻)
 ありきたりでいつも使う言葉だけを発する思考停止した状態では、人々を狭い世界観に押し込め、人々の深い繋がりはできないと言う。


 では改めて、言葉を選び取ることの重要性と必要性はどこにあるのか。著者は二点、述べている。
 私たちが言葉を捜す時、<しっくりこない><どうも違う>といった迷いを抱く。それは「類似した言葉の間でしか生まれない。私たちは、迷い、ためらうことを可能にする言語を贈られている」(279㌻)からであり、その「迷いを常套句でやり過ごさず、言葉同士の繊細なニュアンスの違いを感じ取り、意識的にぴったりの言葉を捜すことは、自分自身の思考を開くことにつながりうる」(279㌻)。
 しっくりくる言葉や意識的にぴったりの言葉を選び取ろうとしている時、「私たちは基本的に、自分にとって既知の言葉の間でしか迷えない。つまり、しっくりくる言葉の候補は、自分がこれまでの生活の中で出会い、馴染み、使用してきたものたちなのである。それゆえ、そうした言葉の探索は自ずと、これまでの自分自身の来歴と、自分が営んできた生活のかたちを、部分的にでも振り返る実践を含んでいる」(280㌻)

 関連して「自分の言葉で話す」ということの意味を述べる。
 「創意のある言葉やユニークな言葉を繰り出すことが無闇に推奨されることもあるが、「自分の言葉で話す」というのは必ずしもそういうことではない。むしろ、ありがちな言葉であっても、数ある馴染みの言葉の中から自分がそれを<しっくりくる言葉>として選び出すのであれば、そのことのうちに、これまでの来歴に基づく自分自身の固有なありようや、自分独自の思考というものが映し出される。逆に「お約束」に満ちた流暢な話しぶりや滑らかな会話は、<こういう場合は人はこう言うものだ>、<こう言うのが世間では正解だ>という暗黙の基準にしばしば支配されている。それが常に悪いわけではないが、しかしそのときには、言葉に責任をもつべき自分がそこに存在しないことも確かなのである」(280㌻)

 どういう言葉を選び取ったかという結果も重要ではあるが、それよりも、思考停止状態を超えて、考えて言葉を選び使い、責任を持つ「自分」がそこにいることが根本的に重要であり、それが言葉を大事にすることである、と著者は主張する。

 以下が本書のもくじ。小項目の下位にさらに細かく本書の内容を伝えるもくじが並んでいる。私はもくじを読むだけでワクワクしてきたし、読んでいる最中は、まさに私が言いたいことはそのこと、いつも考えていたのはそういうこと、と言いたくなった(実際に言った)納得のくだりが多数あった、とても有益な一書。

【目次】
第一章 言葉とともにある生活
1 「丸い」、「四角い」。では「三角い」は?
2 きれいごとを突き放す若者言葉「ガチャ
3 「お手洗い」「成金」「土足」―生ける文化遺産としての言葉
4 深淵を望む言葉―哲学が始まることの必然と不思議
5 オノマトペは幼稚な表現か
6 「はやす」「料る」「ばさける」―見慣れぬ言葉が開く新しい見方
7 「かわいい」に隠れた苦味
8 「お父さん」「先生」―役割を自称する意味と危うさ
9 「社会に出る」とは何をすることか
10 「またひとつおねえさんになった」―大人への日々の一風景
11 「豆腐」という漢字がしっくりくるとき―言葉をめぐる個人の生活の歴史

第二章 規格化とお約束に抗して
1 「だから」ではなく「それゆえ」が適切?―「作法」に頼ることの弊害
2 「まん延」という表記がなぜ蔓延するのか―常用漢字表をめぐる問題
3 「駆ける」と「走る」はどちらかでよい?―日本語の「やさしさ」と「豊かさ」の緊張関係
4 対話は流暢でなければならないか
5 「批判」なき社会で起こる「炎上」
6 「なぜそれをしたのか」という質問に答える責任
7 「すみません」ではすまない―認識の表明と約束としての謝罪

第三章 新しい言葉の奔流のなかで
1 「○○感」という言葉がぼやかすもの
2 「抜け感」「温度感」「規模感」―「○○感」の独特の面白さと危うさ
3 「メリット」にあって「利点」にないもの―生活に浸透するカタカナ語
4 カタカナ語は(どこまで)避けるべきか
5 「ロックダウン」「クラスター」―新語の導入がもたらす副作用
6 「コロナのせいで」「コロナが憎い」―呼び名が生む理不尽
7 「水俣病」「インド株」―病気や病原体の名となり傷つく土地と人
8 「チェアリング」と「イス吞み」―ものの新しい呼び名が立ち現せるもの

第四章 変わる意味、崩れる言葉
1 「母」にまつわる言葉の用法―性差や性認識にかかわる言葉をめぐって1
2 「ご主人」「女々しい」「彼ら」―性差や性認識にかかわる言葉をめぐって2
3 「新しい生活様式」―専門家の言葉が孕む問題
4 「自粛を解禁」「要請に従う」―言葉の歪曲が損なうもの
5 「発言を撤回する」ことはできるか
6 型崩れした見出しが示唆する現代的課題
7 ニュースの見出しから言葉を実習する
8 「なでる」と「さする」はどう違う?