この記事のライター、スージー鈴木氏は1966年生まれ。私より2歳年長のほぼ同世代。氏同様、私自身も吉田拓郎が音楽界の前面に出て活躍している頃(とくに1970年代前半)をリアルタイムで観ていないし、聴いていない。記事を読んでいて吉田拓郎への距離感がよく似ていると感じる。

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(記事本文から抜粋)

 

 『音楽評論家として思うのは、吉田拓郎という超大物の引退にもかかわらず、その巨大な功績がしっかりと総括されていない感じがするということだ。
 1966年生まれの私自身は、少し遅れてきた世代となる。あっという間に時代を席巻した70年代前半の吉田拓郎を、年齢的にリアルタイムでは見ていない。
 言い換えると、私より10歳ほど上の、末広がりの「Gパン」を履いた長髪兄貴世代が「あぁ拓郎!我が青春!」と熱く神格化するのを、少々冷めて見ていた世代である』

 

 『1970年。大阪万博の喧騒から遠く離れて、団塊世代と呼ばれる戦後生まれの若者たちが荒れ地に立っている。彼(女)らには、歌謡曲や演歌、GS、カレッジフォーク、反戦フォークなどが、どうもしっくりと来ない。
 そこに吉田拓郎という青年がやってきて、これまでに聴いたこともないようなコトバとメロディで歌い出した。若者たちは熱狂した。熱狂するだけでなく、自らもギター片手に吉田拓郎の歌を歌い始めた。荒れ地は肥沃に耕され、新しい若者音楽の陣地となった』

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「吉田拓郎」のいったい何がそんなに凄かったのか
音楽ファンから高くリスペクトされる理由


スージー鈴木 : 評論家 2022/07/31 5:00

東洋経済ONLINE

 


 

 吉田拓郎が、ついに歌手活動からの引退を表明した。

 6月29日にラストアルバム『ah-面白かった』を発売、そして7月21日にはフジテレビ系『LOVE LOVE あいしてる 最終回・吉田拓郎卒業SP』がオンエア。ニッポン放送の『吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』も年内で終了することを本人が明言。

 しかし、音楽評論家として思うのは、吉田拓郎という超大物の引退にもかかわらず、その巨大な功績がしっかりと総括されていない感じがするということだ。

 1966年生まれの私自身は、少し遅れてきた世代となる。あっという間に時代を席巻した70年代前半の吉田拓郎を、年齢的にリアルタイムでは見ていない。

 言い換えると、私より10歳ほど上の、末広がりの「Gパン」を履いた長髪兄貴世代が「あぁ拓郎!我が青春!」と熱く神格化するのを、少々冷めて見ていた世代である(余談だが「拓郎」と表記すると、あの世代・時代のイメージが強くよみがえりすぎるので、本稿では、少々まどろっこしいが「吉田拓郎」とフルネーム表記する)。

 

 吉田拓郎の功績をしっかりと総括したい

 

 今回は、末広がりGパン長髪兄貴世代を客観的に見ていた、ひと世代下の評論家の視点から、吉田拓郎の巨大な功績を、冷静に捉えてみたい。その縦・横・奥行きを正確に測定したいと思う。

 先に、本稿のタイトルに対しては、「そりゃもう、すべてが凄かった」と返したいものの、それがちょっと乱暴だとすれば「1970年代前半の吉田拓郎によって、Jポップは基礎付けられたんだ」と添えたい。

 

 1970年代前半の吉田拓郎がもたらした最大の功績は「本質的な自作自演の確立」だ。作詞・作曲・歌を1人でこなすという、つまりは、現在のJポップ市場の核を成す自作自演音楽家=いわゆる「シンガーソングライター」の嚆矢(こうし)としての吉田拓郎。

 もちろん吉田拓郎以前にも、作詞・作曲・歌を1人でこなす音楽家は存在した。ただ、吉田拓郎の場合は、歌詞とメロディの両面に、他の誰でもない、借り物でもない、あくまで自分ならではの強烈過ぎる個性を放っていた。つまりは「本質的な意味での自作自演」だったのだ。

 まずは歌詞。象徴的なパンチラインは、デビュー曲『イメージの詩』(1970年)の中で高らかに宣言される「♪古い船を 今 動かせるのは 古い水夫じゃないだろう」。

 学生運動などに大きく揺れる時代を表現しながら、それ以前の「反戦フォーク」による直截的な文字列に比べて、より文学的/抽象的で、幾重にも解釈の幅が広がり、結果、多くの若者の気持ちをがっちりと掴み取った。

 

 日本音楽界のどこにも存在しなかった言語感覚


 また大ヒット曲『結婚しようよ』(1972年)の「♪僕の髪が肩までのびて 君と同じになったら 約束どおり 町の教会で結婚しようよ」では、結婚というライフイベントを、家と家による保守的な因習としてではなく、自分たちらしく気楽に捉えるんだという、新世代(≒団塊世代)による新価値観に溢れている。

 広島から出てきた無名の若者が世に問うた、それまでの日本音楽界のどこにも存在しなかった言語感覚。吉田拓郎によるこれら「本質的な自作自演コトバ」の延長線上に、桑田佳祐や奥田民生がいると、私は考える。

 続いてメロディ。こちらは、先鋭的な歌詞とは逆に、とても人懐っこく、口の端にのぼるもので、だからこそ、当時の若者の中で一気に浸透した。

 具体的に言えば、先の『イメージの詩』『結婚しようよ』は、両方ともペンタトニックスケール(五音音階=ド・レ・ミ・ソ・ラ)で出来ている。詳細は省くが、世界中の民謡や日本の演歌でも多用される土着的な音階で、だからこそ、気楽に鼻歌でも歌えるような、普段着感覚のメロディになる。

 

 こちらは、すぎやまこういちや筒美京平などの職業作家が作るグループサウンズ(GS)のメロディなどが仮想敵だったのだろう。ド・レ・ミ・ソ・ラに加えてファやシも入ったエレガントなマイナー(短調)スケールによる、ヨーロッパ的で陰鬱なメロディに対して、地に足の付いた普段着のメロディで抗(あらが)った吉田拓郎。

 その後の作品において吉田拓郎は、ペンタトニック(や跳躍、リフレイン)が持ち味の「拓郎節」を完成させる。影響は、愛弟子的存在の浜田省吾から、出身高校の後輩である奥田民生、意外なところでは小室哲哉(『WOW WAR TONIGHT~時には起こせよムーヴメント』は典型的な拓郎節)を経て、『LOVE LOVE あいしてる』特番でも共演したあいみょんに至る、数々のフォロワーを生むことになる。

 以上まとめると、自分らしい強烈な個性に溢れたコトバとメロディ、そんな吉田拓郎の「本質的な自作自演」が、「こんなんでいいんだ!」「こんなのもありなんだ!」と、音楽を志す若者の裾野を広げ、後の「Jポップ」の礎を築いたと考えるのだ。

 

 ビジネスとして成功させた吉田拓郎

 

 吉田拓郎の功績をもう1つだけ挙げれば、その「本質的な自作自演」をビジネスベースに乗せたことである。職業作家が量産する歌謡曲や演歌、GSの世界に、普段着と裸足で分け入って、大きな商業的成功を収めたこと。「フォーク/ニューミュージックは金になる」と思わせたこと。

 特に、今からちょうど半世紀前の1972年は「吉田拓郎の年」だった。1月発売のシングル『結婚しようよ』はオリコン3位で42万枚(出典:オリコン。以下同)、7月発売の『旅の宿』は1位を獲得、何と70万枚売れている。また7月発売のアルバム『元気です。』も47万枚(LP)を売り上げ、もちろん1位に輝いた。

 さらには1974年、作曲家として提供した森進一『襟裳岬』が日本レコード大賞を獲得、その後も歌謡界との積極的なコラボレーションを続ける。加えて、日本初の大規模オールナイト野外コンサートと言われる「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート イン つま恋」(1975年)や、後に自身が社長を務めるフォーライフ・レコードの創立(1975年)など、日本の音楽ビジネスに果たした貢献は計り知れない。

 重要なのは、この時点でのフォーク/ニューミュージック市場において、商業主義が敵視する風潮がまだまだ残っていたということだ。そんな中で吉田拓郎は、レコードをがんがん売って、でっかいコンサートをやって、あげくの果てにレコード会社まで作った。

 もちろん、吉田拓郎によるそのような商業的成功が、Jポップ市場という大河への、最初の一滴となったことは言うまでもない。

 吉田拓郎を継ぐ形で、日本のロック/Jポップをビジネスとして確立させた桑田佳祐は自身のラジオ番組で「吉田拓郎を聴いて、音楽で金を稼ぐって、すげぇいいなと思ったんです」と話した。このエピソードは、吉田拓郎が、日本の音楽ビジネスに果たした役割を、極めて端的に示している。

 

 1970年。大阪万博の喧騒から遠く離れて、団塊世代と呼ばれる戦後生まれの若者たちが荒れ地に立っている。彼(女)らには、歌謡曲や演歌、GS、カレッジフォーク、反戦フォークなどが、どうもしっくりと来ない。

 そこに吉田拓郎という青年がやってきて、これまでに聴いたこともないようなコトバとメロディで歌い出した。若者たちは熱狂した。熱狂するだけでなく、自らもギター片手に吉田拓郎の歌を歌い始めた。荒れ地は肥沃に耕され、新しい若者音楽の陣地となった。

 隣では、井上陽水という名の、吉田拓郎より少しばかり暗い表情の青年も歌い出し、それに惹かれた少しばかり暗い表情の若者たちも集まって、陣地が広がった。さらに矢沢永吉という青年が、英語混じりのロックンロールを歌い出し、不良少年たちが集まってツイストを踊りだして、さらに陣地が広がった。

 

 Jポップの礎を作った吉田拓郎

 

 そんな、1940年代後半生まれの青年たちが作った陣地に、浜田省吾、山下達郎、松任谷由実、桑田佳祐、佐野元春ら1950年代生まれの若者たちが、個性的なアトラクションを作っていく。さらに次世代が、ところ狭しと新アトラクションを競い合い、巨大なテーマパークが出来上がる。その名前は「Jポップ」という――。

 吉田拓郎がいなければ、どうなったのだろう。テーマパークの完成がどれだけ遅れて、どれだけツマラないものになっただろう。逆に言えば、吉田拓郎の功績は、彼の新譜タイトルになぞらえて言えば、日本の音楽界を『ah-面白くした』ということに尽きるのだ。

(文中敬称略)

 

スージー鈴木

評論家
音楽評論家・野球評論家。歌謡曲からテレビドラマ、映画や野球など数多くのコンテンツをカバーする。著書に『イントロの法則80’s』(文藝春秋)、『サザンオールスターズ1978-1985』(新潮新書)、『1984年の歌謡曲』(イースト・プレス)、『1979年の歌謡曲』『【F】を3本の弦で弾くギター超カンタン奏法』(ともに彩流社)。連載は『週刊ベースボール』「水道橋博士のメルマ旬報」「Re:minder」、東京スポーツなど。

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