1月16日の「松山千春 ON THE RADIO」

1月16日がお母様の命日(2021年1月16日逝去、享年九十九)ということもあり、ご両親との思い出を語りつつ、手元に戸籍謄本を準備しながら、松山家の家系について、番組1時間を使って語っていた。

 

その中で、松山千春がお母様のとある事故がきっかけで8か月の早産で生まれてきたことを語った。
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これ、俺が生まれる前のことだぞ。(母さんが)山に土木作業行って、ジープから転げ落ちるんだよ。俺がおなかの中にいる、そんな状況でだぞ。それで、ジープから転んですぐに手を離せばよかったんだけど、やっぱりいのち根性が汚いっていうかな、ジープ(から手を)を離さなかったんだよな。そしたら腹をずうっと(引き)ずったらしいよ。それで俺が早産で生まれてくるんだ。

 

で、早産で生まれたはいいけど、まぁ、当時はね、お産婆さん、お産婆さんが取り上げてくれるからな。お産婆さんが取り上げたはいいけど、産声を上げない。“ミヨちゃん、この子、産声上げないよ。ミヨちゃん、これほっぺた二、三発殴ってやって”…そうやって言われて、母さんは俺のほっぺたをね、生まれたばっかりだぞ、ねぇ、ばーんとびんたを。そしたら“おぎゃー!”って産声を上げたらしいよ。

 

ほいで病弱で、すぐに、足寄ではダメ、帯広の病院でもダメ、札幌北大病院。これ記録に残ってないから分かんないんですけど、0歳から3歳か4歳ぐらいかな、北大病院に入院してまして。勿論その時の記憶はありません。

 

(幼少の松山千春/写真集「激流」から)

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このあたりのことは松山千春自伝「足寄より」に書き残している。

「で、ある日、(母さんが)足寄からちょっと離れた山ん中の婦人会に踊りを教えにいったんだよね。営林署のジープが迎えにきたわけ。うちのおっかあ、喜んじゃったね。車なんか珍しいころだし、しかもジープじゃない?ジープ乗ったのなんて、初体験じゃないかな。
 もうのりまくってさ。俺が腹ん中にいるのに、しまいには走ってたジープからゴロンと叩き落されてんの。俺、生まれる前にジープから一回転して落っこちてるんだものね、こりゃ、たたですむわけないよね。俺の生き方、そんとききまったのかもしれないね。ひょっとしたら顔も。
 それが原因になったのか、八か月の早産。生まれて二か月したら、なんと股関節脱臼だって。
 地元の足寄町立病院に半年ばかり入院したけど、手に負えない。北大病院に回された。保育器にいれられて、やるだけやってみるってことになった。
 普通の股関節脱臼ならともかく、こっちは早産児で保育器にはいっているわけだから、一種の小児麻痺みたいな状態で、大変だったみたい。俺の兄貴は急逝肺炎で死んでるし、おやじもおっかあもヤバイって雰囲気だったらしい。おまけに毎日四十度の高熱の俺をみて医者まで見放したらしい。
 ところがなんと、奇跡的によみがえるんだよね。美しく表現すれば不死鳥のようにだよ」
(同書24~25㌻)

 

(中学3年の松山千春/同)
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この件に関しては、富澤一誠著「松山千春―さすらいの青春」にはお母様の述懐が掲載されている。


「実はあの子を妊娠していたとき、私は従兄弟のジープに乗っていたのですが、お腹がきつかったのでドアにもたれていたんです。そうしたら何かの拍子にジープからころげ落ちてしまったんです。私はお腹には子供が入っていることだからびっくりしてしまいました。すぐに、お腹に手をあてて動いているか確かめました。お医者さんに行ったら、一週間か十日経っても動かない場合はもうダメですからと言われたときは生きた心地がしませんでした。(…)二週間ぐらいからようやく動き始めまして、一安心しました。しかし、それが原因で早産になってしまったんです。私がジープから落ちさえしなければ、こんなことにはならなかったと、あのときは悔やみました。また、私たちは長男を生後間もない頃に亡くしているんです。だからこそ、私もお父さんも、千春だけは助けてやろうと思いました。それにしてもあのときほど病院もない田舎が恨めしく思われたことはありませんでした」(同書21㌻)
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松山千春コンサート・ツアー2021「敢然・漠然・茫然」

山形・石巻・仙台<For JLODlive>

「敢然・漠然・茫然」