1月16日の「松山千春 ON THE RADIO」
1月16日がお母様の命日(2021年1月16日逝去、享年九十九)ということもあり、ご両親との思い出を語りつつ、手元に戸籍謄本を準備しながら、松山家の家系について、番組1時間を使って語っていた。
番組後半で、実際には松山千春は5人きょうだい(姉兄弟)だったことを明かしていた。松山千春の姉がもう一人と、兄が一人いたとのこと。二人の子どもを亡くされたご両親の気持ちと、今は亡き姉と弟を慮りながら語っていたように聞こえた。
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(番組中盤過ぎから)
今ねぇ、俺の手元にあるのは俺の戸籍謄本、知らなかったことがいっぱい載ってあって。(中略)昭和23年ですね、(両親が)9月1日に入籍するわけですけど、最初の子、松山マリコ(正式表記不明)、昭和23年の8月19日に生まれてます。いわゆる”できちゃった婚”、なぁ~。子どもできちゃったから籍入れなきゃなぁっていって慌てて、まぁ8月19日に生まれたから、9月1日に籍を入れたんだな、栗山(北海道栗山町)で。ところがマリコは(同)は1歳で亡くなってます。
そしてその次にできた子が、俺がいつも”姉ちゃん、姉ちゃん”て言ってた松山絵里子。昭和25年生まれですからね。ところが早死にだったからなぁ、48歳で1998年に亡くなってます。
そして昭和28年、長男坊が生まれます。松山智秋(ちあき※)。ところが残念ながら智秋(同)も2歳にして亡くなります。智秋(同)が亡くなったのは昭和30年2月28日。俺が生まれたのが昭和30年12月16日、ということは俺は智明(同)には会う4ことが出来なかった。
そして俺の弟、松山明人。昭和34年、ま、俺よりも4歳年下だけど、去年9月19日、享年62歳…ということで。
ほんとはうちは5人きょうだいだったんだな。ただ、マリコ(同)と智秋(同)は1歳、2歳で亡くなってますんで、姉貴と俺と弟と、父さん母さんと、5人家族でずうっとやっていたなと、思いますけど(後略)。本来なら、実質智秋(同)は2歳で亡くなってますから、俺は戸籍上は次男、なんだよな。次男なんだけど、ずっとその長男、扱いとしては長男…。
俺分かったよ。俺が何で北大病院で、椿原(つばきはら)先生に
「松山さん、お宅にはお子さんいますよね。この子(松山千春)は手がかかりますから…。残念ながらうちの夫婦には子どもがいないので、この子を、ま、俺だぞ、俺を我々の夫婦の子として、育てさせていただけませんか?」
って言った時に、父さん母さんが
「いやぁ、どんな貧乏しても、この子だけは何とか…」
…それはあれだよ、長男である智秋(同)が亡くなった、2月に亡くなった。で、12月に俺が生まれた。だからもう、男の子だし、”何としてもやっぱり松山家で育てなくては”って思いだったんだろう。おかげで莫大な借金をして、北大に。病院の方に毎月のように取り立てに来られて…。まぁそれでも何とか払ったんだから、えらいもんだなぁと思います。
※「智秋」表記は富澤一誠著「松山千春―さすらいの青春」から
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このあたりのことは松山千春自伝「足寄より」にも書き残している。
「(松山千春が生まれた時)普通の股関節脱臼ならともかく、こっちは早産児で保育器にはいっているわけだから、一種の小児麻痺みたいな状態で、大変だったみたい。俺の兄貴は急逝肺炎で死んでるし。(後略)
担当医の助教授が椿原とかっていう先生だったそうだけど、この子の生命力はすごいって感動しちゃって、ちょうど子供がいなかったものだから、養子にくれって申し出たんだって。おやじは断ったけどね。やっぱりいくら苦しくてもどんな子供でも、自分の子だって感じなんだろうね。(後略)
ともかく、俺は退院した。入院生活は約半年間。だけど、それからが問題よ。
これはずうっとあとになって、ものごころついてからわかったんだけど、毎月、きちっと背広を着た人がうちにくるわけ。なんだろうな、と思って、おやじに聞いてみた。そしたらおやじ、「あの人たちは北大病院の事務官で、おまえの入院費を毎月取りたてにきてるんだ」っていうわけ。(後略)
俺が生まれて、がっぽり借金の山ができちゃったわけだ。だから貧乏背負って生まれてきたみたいでね。
それを知ったとき、俺は子供心にもなにかいたたまれなくなちゃって…。なんといえばいいいんだろう。「生まれてきて、すみません」…そんな感じだな。それしかいえないよ」
(同書24~26㌻)
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松山千春コンサート・ツアー2021「敢然・漠然・茫然」
山形・石巻・仙台<For JLODlive>
「敢然・漠然・茫然」
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