<2024.08.24>

修正・加筆+加筆+映像2本挿入
<2021.10.03>記事

 

 

先日、(2021年)9月30日に以下の記事🔗を書いた。この中で、1978年11月、松山千春の「季節の中で」がザ・ベストテンで1位となり、初めて出演した際、歌う前に3分話したと記載した。→「約4分」に修正

 

 

書いている時から、その後も、”3分なんて短くなかったはずだ”と思い、その時の映像(DVD)を観て確認しようと思ったが、プレイヤーでもPCでも再生できなかった。子どもたちのPCでも再生できない。

プレイヤーもPCも数年前買い替えたので、その関係で同機が取れないのか、DVDの録画方式がもう古いのか。とにかく残念。

  

で、3年前に引用した以下の記事<2018.07.16記事>を確認してみると、トークは8分間とあるが、これは全出演時間の誤り。

この時の映像が2024年8月24日の昼過ぎまでYouTubeで視聴できたが、夜には著作権の関係で削除されていた。その映像からすると、司会が松山千春を紹介し「季節の中で」を歌い終わるまでが約8分、そのうちトークは約4分間だった。

 

その約4分間の松山千春トーク全文は以下のとおり。

 

あのー、こうやっていきなりテレビに出て来てね、みんなびっくりしてんじゃないかなと思うけど、毎週毎週ね、久米さんや黒柳さんに迷惑かけるのもなんだし、それじゃあ直接俺が出てね、みんなにわかってもらおうと思って、今日こうやって出て来たんだけどね。

 

俺歌うってとっても好きなわけ。この会場、今は誰もいないけど、さっきまではみんながいて俺が歌って、みんなが拍手してくれて、ときには大声で笑ったりなんかして、そんなコンサートっていうのは俺大好きなわけ。これからもずっと大切にしていきたい、そういうふうに思ってるわけ。みんなが目の前にいて、オレが歌う。そんな中で俺の歌がはじめて生きるんじゃないかって、はじめて俺が心の中を歌えるんじゃないかって思うわけ。だから、テレビに出ないで、一か所でも多くみんなの所に行ってみんなの前で俺は歌いたいわけ。それをみんなにわかってもらいたかった。

 

この番組とってもいい番組だな。俺面白いし毎週見てるよ。たぶんうちのおっかあやおやじも見えると思う。そして今度俺がみんなのお陰で一位だって…嬉しいよ本当。ありがとう。そしてみんなご苦労さん。毎週毎週はっちゃきになってハガキ書いてくれたんだろう、本当にありがとう。二十円だってバカにならないもんな。本当にみんなの根性には頭が下がるよ。けどね、悪いけどこうやって俺がテレビに出るの、これが最初で最後だって思って欲しい。

 

俺やっぱりさ、カメラの前で歌うのって寂しいよ。とってもつらいよ。だから、これが最後になるって思って欲しい。ごめんな。けど、これが俺のやり方なんだ。北海道もう寒くなってな。けどみんなも風邪なんかひかないように、毎日頑張って欲しい。俺は俺のやり方で、これからも頑張る。じゃあ、歌います。

(富澤一誠著「松山千春―さすらいの青春」233~234㌻)

 

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<2018.07.16記事>

 

2015年12月16日の記事なので当時既に読まれていらっしゃる方が多い思う。

 

前の記事を書いている際に検索していたらたまたまヒットした。私としては初見。

 

デビューから、「季節の中で」でザ・ベストテン初出演、その後「長い夜」で再び出演するまでの松山千春の約5年間を的確かつ端的に伝えている。ライターの名前は記載されていないがよく書けている文章だと感心した。

 

 

Rememver! ザ・ベストテン 1978-1989

 今月のスポットライト コーナー松山千春「季節の中で」

 

https://www.uta-net.com/user/timemachine/best10/1512index.html

 

 このコーナーでは、当時のランキングやエピソードと共に、「ザ・ベストテン」に出演した歌手のヒット曲を紹介していきます。第7回は1978年11月16日のランキングを紹介。今月のスポットライトは、圧倒的な歌唱力でファンを熱狂させた松山千春さんの初期のヒット曲「季節の中で」と、伝説的なテレビ初出演時のエピソードを取り上げます。

 

テレビに出なかった歌手がついに初出演 しかしトークが長引いて…!?
 

 松山千春は1977年1月に「旅立ち」でデビュー。北海道出身のフォーク歌手として頭角を現し、「ザ・ベストテン」がスタートした1978年当時は、深夜ラジオ「オールナイトニッポン」のパーソナリティとして起用されるなど、既に全国区にその名を轟かせ始めていた。8月に発売された「季節の中で」は、グリコアーモンドチョコレートのCMソングとなり(CM出演は三浦友和)、彼にとって最初の大ヒット曲となる。
 当時、若い世代から人気を得ていた「ニューミュージック」と呼ばれるジャンルの歌手たちは、テレビ出演を拒む者が少なくなかった。松山千春もその一人だ。限られた時間の中で他の歌手と共に出演して一曲だけ歌うよりは、コンサートで目の前のファンにしっかりと歌を届けたい…という考えで、テレビには一切出なかったのである。

 そんな中、「季節の中で」は11月2日、ザ・ベストテンに第5位で初ランクイン。番組のプロデューサーは出演交渉のため、コンサートへ足を運んだ。やっと一緒に食事する機会を得たものの、席について開口一番「出ませんよ」と言うほど松山の意志は固かったという。しかしプロデューサーは粘り強く何度も交渉を続けた。「番組宛に毎週たくさんのハガキが届いている。あなたはこれだけのファンの声に応えるべきではないのか」。
 3週目となる11月16日、「季節の中で」は第1位になり、ついに彼は出演を受け入れる。しかしTBSのスタジオには来ず、この日コンサートを終えた旭川市民文化会館からの生中継。まぎれもなく、これがテレビ初出演であった。誰もいない客席を前に、ギターを抱え、一人ステージ上でイスに座った松山。歌う前に自分の気持ちを話したい、という本人の希望で3分のトーク時間が与えられ、なぜベストテンに出演するに至ったかを、彼は熱く、切々と語った。スタジオの久米宏や黒柳徹子と会話するのではなく、一人語りで、まるで目の前のファンに語りかけるかのように。そして「これが最初で最後」と何度も強調した。トークで3分も使うこと自体、異例である。しかし、予定の時間を超えても松山は話をやめずに延々としゃべり続けた。4分、5分…。しかしディレクターは「一度きりの出演、ファンに対する彼の真摯なメッセージを伝えさせよう」と、あえて止める指示を出さなかった。やっと弾き語りで「季節の中で」を歌い始めた時、既に8分が経過していた。
 この時、TBSの舞台裏でスタンバイしている歌手がいた。第7位に「絶体絶命」がランクインしていた山口百恵である。収録現場からの移動のため、遅れてスタジオに到着した山口は、順番を入れ替えて松山千春の中継の後に歌う予定だったが、彼のトークが長引き、時間がなくなってしまった。せっかく駆けつけてもらったにもかかわらず歌えないことを告げ、謝るディレクターに対し、彼女は文句を言うことなく「わかりました」と受け入れたという。山口は、さもエンディングにだけギリギリ間に合ったような様子でミラーゲートから現れ、最後の集合写真撮影にのみ参加した。

 後年、松山はこの初出演時のことを振り返り「あと何分、というスタッフからの指示が何もなく、このままやってていいんだろうかと思いながらしゃべり続けた」という意味のことを語っている。「季節の中で」はその後も7週連続で1位をキープし、計12週ランクインするヒットとなった。
 松山自身が「最初で最後」と宣言しての出演だったため、二度と出ることはないだろうと誰もが思った。実際、その後「窓」「夜明け」「恋」「人生の空から」とランクインした間も、彼は出演していない。しかし3年後の1981年、「長い夜」が大ヒット。5月21日に初ランクインし、6月11日、松山千春は富山市公会堂から中継で出演する。ファンへのメッセージのみを話し、生では歌わなかったものの、その日同会場で行ったコンサートで収録した「長い夜」の歌唱部分がVTRで流された。さらに7月2日、「長い夜」は第1位に上り詰め、破竹の勢いでヒットしていた寺尾聰「ルビーの指環」の連続1位を12週でストップさせる。この日、全国コンサートツアーを終え故郷の北海道に帰っていた松山は電話出演。長かった髪を切った理由を尋ねるファンからのハガキに対し「髪が薄くなってきたので…」と自虐気味に答えていた。その上で、4日前(6月28日)に東京・日比谷野外大音楽堂で行ったツアー最終公演で「長い夜」を歌った時の映像が流れたのである。
 ザ・ベストテンに出演したのはこの3回のみ。数少ないテレビ出演の機会だったことと、VTRとはいえ歌う姿がテレビで見られるのは貴重であったこと、そして8分のトークというインパクトの強さゆえ、番組の名場面として視聴者の記憶に焼き付いている。

 

 

 

下のひとつめの映像、当時の「季節の中で」ではこの映像がザ・ベストテン出演時に一番近い年代であり、ギターも、最初アルペジオ、最初のサビからあとは全部ストロークというザ・ベストテンとほぼ同様の弾き方をしている。

 

「季節の中で」(1979年/ライブ映像)

 

「季節の中で」(1982年/ライブ映像)