<2023.8.12再掲>

<2021.10.3一部修正、再掲>

<2021.9.30記事>

 

「松山千春―さすらいの青春」
(富澤一誠/1979年4月10日/立風書房)

 


私が中学1年(1980年)の頃初めて読んで以来、約40年ぶりに再読した。これだけ期間が空くと、当時読んだ内容はほとんど忘れているので、再読というよりも初めて読んだ感覚。

 

言うまでもなく、本稿は42年前(2021年時点)に刊行された本のレビュー(的なもの)である。42年もの歳月が流れているため、本書に掲載されている人物でも現在では松山千春に関与していない場合があったり、書かれている内容も、現在ではそれとは違う事実を生み出している場合もあるかもしれない。松山千春の関係者ではない私が、それらを経年で具に把握するのは不可能である。したがって、当然だが、どこまでいっても42年前に書かれた内容について、2021年の9月にレビュー(的なもの)を書いているというスタンスである。

「松山千春―さすらいの青春」(以下「さすらい」と表記)―最初の発刊は1979年(昭和54年)。著者の富澤一誠氏当時27歳、松山千春当時24歳。著者も若ければ、対象となった松山千春も若い。現在(2021年時点)53歳の私が読めば、物ごとの見方や捉え方、表現などに二人の若さが随所に滲み出ていると感じる。

 

(松山千春:左と、富澤一誠氏/同書から)


出版元の立風(りっぷう)書房は、1966年に学研(現・学研ホールディングス)の子会社として創業、2004年解散(倒産)、その後学研に吸収されている。

「さすらい」は単行本だけで最終的に32刷を重ね20万部を売り上げた。1982年には旺文社文庫から文庫化され、10万部を売り上げている。つまり当時だけでおよそ合計30万部の売り上げということになる。

 



CDも売れないが、本はもっと売れないと言われている現在からすると、一音楽評論家の本が30万部も売れたのは驚異的である。やはり当時のスーパースター松山千春を取り上げたことが大きいだろう。 

松山千春の自伝「足寄より」が発刊されたのは1979年(昭和54年)4月5日。「さすらい」(4月10日)と「足寄より」は5日違い、ほぼ同時に刊行されている。

 



松山千春のおよそ24年間を追ったものなので、当然2冊とも構成がよく似ている。

 

ざっくり書けば、松山千春が生まれた時から、幼少期を経て、デビュー前の竹田健二氏との日々とデビュー、昭和53年の「季節の中で」大ヒットと「ザ・ベストテン」出演、翌年のアルバム『空を飛ぶ鳥のように 野を駈ける風のように』リリースまでを綴っている。

 

「さすらい」では松山千春のご両親の生い立ちまで遡って掲載している点は評価してよい。あのご両親だからこそ、フォークシンガー松山千春が生まれたのも必然だったと分かる。

「さすらい」には、ファンの間では周知の事実や「足寄より」に書かれていることと異なる点が何か所かあるが、当時松山千春のことを世に伝えようとする著者の思いを汲めば、それをいちいち挙げて指摘することでもない。

個人的に「さすらい」で最も評価できると思うところは、松山千春の身に起こった多くの出来事について、竹田健二氏をはじめとする当時のSTVやキャニオンレコードなどの関係者の証言やコメント、当時の松山千春の言葉を丁寧に取材し残している点である。

 

(竹田健二氏:左と、松山千春/同書より)

 

またその時の松山千春を取り巻く社会や音楽界の流れと状況、松山千春について報道した新聞や雑誌の記事も多く掲載することで、松山千春をより立体的に伝えている点である。人間・松山千春をよく伝えていると思う。

フォークソングの流れを、「第一期/カレッジ・フォーク時代」「第二期/関西フォーク時代」「第三期/生活派フォーク時代」「第四期/ニュー・ミュージック」に分け、それぞれの時代のフォークの本質を述べている箇所は興味深い(108㌻~)。

 

第四期に入り、フォークは時代との関りが薄れ、より音楽的になっていく中で、松山千春は当時からそれに抗して「フォーク的過ぎ」と、いい意味で松山千春のフォークソングへのスタンスを称えている。

ご存知のとおり松山千春は1977年(昭和52年)1月25日に「旅立ち」でデビューしているが、実はデビューは本来1年前だったということも掲載している。あくまで「旅立ち」をデビュー曲に据えて、卒業シーズン直前に発売したいという竹田健二氏や山本詔治氏の意向を反映して、デビュー曲=「旅立ち」にこだわり、「旅立ち」を生かすために、わざわざデビューを1年延期したと書いている(117㌻)。

 

このあたりの経緯、松山千春本人はデビュー前だったので詳細は聞かされていなかったのか、デビュー以来一度も語ったことはないような気がする。事は自身のデビュー曲、これまで何度もデビューに関することを松山千春は語って来ているので、その中で話題に上がってもいいのだが。

 



恩師・竹田健二氏が急逝された時、竹田氏の存在と名前を永く留めるために俺(松山千春)は頑張って歌い続ける、という当時のコメントも記載している(176㌻)。このことは、現在でも松山千春はそう語り続けていて、恩師・竹田健二氏への変わらぬ思いは私たちの心を打つ。

「オレが竹田さんのためにできることは、オレが他人から尊敬されるシンガーになることだと思った。オレがデカイに人間になれば、竹田さんの名前はもっとデカく(原文ママ)なる。こいつを育てたのがあの人かってね…。そうなれば竹田さんに恩返しができるし、オレがデカク(原文ママ)なることが竹田さんの夢だったから、オレは誓ったんだ。どんなことがあっても、決して振りむかないで歩いていくってことを」(176㌻)

 



1978年(昭和53年)8月8日にふるさとの足寄で開催したイベント「千春in足寄」。「足寄より」本文には聴衆の数は記載されていないが、挿入されている同コンサートの写真キャプションや表4の略年表には“1万人”とあり、写真集「激流」の同写真にも同様に“1万人”と入っている。一方「さすらい」には次のようにある。

「全国から千春のファンが集まってくると、旅館は八軒で三百人ぐらいの収容人員しかなくて、(中略)いろいろと討議した結果、なるべく日帰りでできる地域を対象にして、入場券は五千枚に制限してやることに決定した。
 スタッフは当初一万人を予定していたが、国鉄の運送能力にも限界があったので、五千人ということで決着がついた。(後略)
 集まった聴衆の数は、町人口の三分の一以上の四千五百人で、主催者が企画した札幌のバス・ツアー七台の他、列車を利用してやってきた」
(207㌻)

1978年(昭和53年)8月21日に発売したシングル「季節の中で」が大ヒットし、TBSザ・ベストテンで1位となった同年11月16日、松山千春はザ・ベストテンに初出演した。コンサートが終わり、誰もいなくなった旭川市民文化会館で、ギター一本、弾き語りで「季節の中で」を歌った。

 

(ザ・ベストテンで「季節の中で」を歌う松山千春)

 

歌う前、「テレビに出ない理由」を「テレビを通して」約4分も語ったことは有名な話し(登場から歌い終わるまで約8分)で、当時賛否両論噴出し物議をかもしたが、「さすらい」はこの時のトーク全文も掲載している(231~233㌻)。

関連して、松山千春のザ・ベストテンへの出演交渉を進めていたTBSの弟子丸千一郎ディレクターが、松山千春サイドに出演を決定づけた言葉があるが、それも残している。

同年10月20日、愛知県勤労会館での松山千春のコンサートを観た弟子丸ディレクターは、終了後、山本社長、外崎マネージャー、松山千春の三人と会談している。もちろん、松山千春への出演要請のためである。そこで弟子丸ディレクターが言った。

「<ザ・ベストテン>には三十万通の出てくれないかというファンからのハガキが来ています。あなた方はファンを大切にしているとおっしゃるが、その三十万人の人たちのことをどうお考えですか。この日本には、コンサートに行きたくても行けない人がいるんです。そういう人たちをどうするおつもりですか」(226~227㌻)

その後松山千春サイドはテレビ出演について何度も議論を重ねる中、その議論に松山千春が終止符を打つように言った。

「山本さん、オレ出てみようか。毎週リクエストを出してくれる人が何万人といるんだろう。そういう人たちはひたすらオレが出て来ることを願って、毎週ハガキを出しているわけだろう。ハガキは一枚二十円か?何枚も出すと高いからな。やはり、オレはそういう人たちのために出なければいけないんじゃないか。出て、オレはそういう人たちに、オレがなぜテレビに出ないのか説明するよ。そうすれば納得してくれるんじゃないか。とにかく、このまま放っておきたくはないよ。それこそファンに対して申し訳がないからな」(229~230㌻)

実質的には松山千春のこの言葉で出演が決まったと言ってもいい。出演した松山千春は歌う前の8分トークで、ほぼこれと同じ内容を語っていた。


松山千春のファンになって少し経った頃に初めて読んだ「さすらい」を、約40年後に再読し、あの当時の記憶が蘇ってきた。中学生から高校卒業する頃まで、松山千春に一番熱狂し、松山千春と一緒に歩んでいると勝手に思い込んでいた当時(今もその気持ちは変わっていないが)を思い出し、読むのもこのレビューを書くのも本当に楽しかった。

深い意味付けなどない、「あれからもう40数年も応援し続けて来たんだな」と改めて思った。