<2024.05.14>再掲

<2021.07.24>記事

 

 

 

ファンの皆さんは十分ご存知のことだが、松山千春の未発表曲に中に「父へ」(推題)という歌がある。1985年春のツアー「虹のかなた」でレギュラー、弾き語りで歌われ、参加した山梨県民文化ホールで聴いたこの歌を鮮明に覚えている。

 

これもファンの皆さんは視聴されていることと思うが、この歌は今でもYouTubeに一般の方が弾き語りで歌っている映像がある。

 

⇒🔗 松山千春「父へ」/第4回へたうまライブ2部”

 

 

1988年8月28日、テレビ朝日系で放映された「人間!ホットアイ」(30分番組)の松山千春特集。その中にコンサートでのトークも収められていて、認知症で入院していたお父様について語っている(以下ボールド)。

 

 

「おやじ、俺、幾つになったと思う?」
「二十歳(はたち)」

 

だからあいつ(お父様)の中では俺はずっと二十歳なんだよ。若くて、若くて。だから、まぁ、極端な話なぁ、いやになったんだよね、おやじ見ていて。あんなおやじがね、何でこんなふうになっちゃうんだろう…。歳と言えば歳だけど。

 

どうせなら、ほんとに殺してやりたいくらいだ。俺のおやじはこんなおやじじゃなかった。自分の小便のね、始末もできないような、そんなおやじじゃなかった。どうせなら、おやじ、死んだ方がいいよ…そんな気持ちでいたんだよ。

ところがなぁ、病院入っていて、まぁ、ああいう病院なんだろうな。鉄の扉みたいなものがあってな。見舞いに行っても、その鉄の扉を開けてくれなければ入れない。鉄格子みたいなものがしてあってね。かわいそうな所なんだよ。

 

で、見舞いに行って、「おやじ、元気でな。俺今コンサートでずっと回ってるからな」。そしたらおやじがねぇ、俺が帰る時にだぞ、「千春、また遊びに来いよ」…もうその病院が自分の部屋だと思っちゃってるわけだ。自分はずっとそこに住んでるみたいに思っちゃってるわけだ。そいういうの見たらね、これはこれで幸せなんだろう。
 
確かに傍から、俺たちから見りゃぁな、そんなね、自由もきかないような…。わけもわからなくなっているわけだからよ。せめて、俺が息子だぐらいは分かっているけど。そんなら死んじゃったほうがましかなって思うけどさ。

 

けど本人は結構それなりに、その部屋で幸せに暮らしてるんだと思ったらね、そしたら、ああ一日でも多くな、一時間でも一秒でも多く、この世の中でね、息をさせてあげたい。あと残ったのはそれしかないからね、俺たちにできるのは。それである種吹っ切れた。

 

 

あの1985年のツアーが6月下旬だったから、アルバム『明日のために』(1985年)が7月10日にリリースされたからか、またこのアルバムを聴きながら、暑い中、大学入試の勉強に集中していたからか、夏のこの雰囲気の中を過ごしていると、この歌とそれに関連したことをいつも思い出す。

 

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<2020.07.01記事>

 

 

松山千春の自伝『足寄より』(1979年4月5日初版/松山千春23歳)には、当時の松山千春また足寄から見れば大都市だった帯広について書いている。

 

「そのころ、俺にとってでかい町とは、デパートがあって、アドバルーンがあがってる町なわけ。帯広にはこれがある。帯広は世界最大の都会だよ。デパートがあって、アドバルーンがあがってるんだものね。これ以上はない、と思った」(37㌻)

 

足寄から見ても、家族で買い物に行く、食事に行く一番近くの大きな街と言えば帯広だろう。ライブでも以前そう語っていた。私の故郷で言えば、甲府みたいな場所だったのだろう。

 

 

松山千春は1985年春のツアー、弾き語りで「父へ」(推題)をほぼレギュラーで歌った。私は当時高校3年、山梨県民文化ホールで聴いた。とても感動して、その直後発売されたアルバム『明日のために』に入るものと楽しみにしていたが、結局未発表に終わった。

 

この「父へ」という歌にも

 

「覚えていますか あなたに連れられ みんなで帯広へ行き
最後のしたこと パチンコしたこと 食堂でご飯を食べた」

 

と家族で帯広に行った思い出を歌っている(歌詞は一番下に記載/完全版かは不明)。

 

夢野旅人さんがブログにこの曲について綴っている。

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松山千春の父・明(享年80歳)さんが「とかち新聞」の発行をやめたのが1984年下半期。
翌85年。 春のツアーが近づき始めたころ。
千春の予定を何度も訊ねる父親に気付いたという(千春が28歳、明さんが70歳頃)。

 

~何度も 同じこと 話す あなたに少し 驚いただけ ~
と、始まる「父へ」。

認知症を患い始めた父親のことにふれ弾き語りで歌われている(ツアーの初日は歌われていない。また自分は、タイトルを千春の口から聞いていない)。

覚えていますかと、ストレートに父親に問いかける歌で、弟と帯広に出かけたエピソードの歌詞に綴られていた。
だから、自分は仮題として「覚えていますか」とメモに残した。

 

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同じく『足寄より』には、松山千春が高校を卒業して北見で働いていた頃、お父様が北見まで訪ねて来たことについて残している。

 

 俺が北見で目がまわるように忙しかったころ、おやじがひょっこりたずねてきたことがあった。

「こっちに用事があったもんだから、ついでにどうしているかと思って見にきた」

 そんなことをいって、目をしょぼつかせていた。

 嘘つけ。俺がどうしているか、気になったんだろ。それでわざわざ北見にやってきたんだ。(中略)(俺は働きずくめでおやじことなんか思っている暇がなかったが)それなのにおやじはいつも俺を思っている…帰って行く後ろ姿が寂しそうでな、年とったって初めて気づいたわけ。

 泣いちゃったね。だらしのない話だけど、泣いちゃったよ、俺。

(193~194㌻)

 

今もライブで、ラジオで、両親への感謝を語る。恩師の竹田健二さんも、友だちも、学校時代の先生も変わらず今も大切にする。

 

いつかまたこの歌をライブで歌って欲しいと願うし、できれば周年企画などの際に、すべてなくてもよいから、こうした未発表曲を世に出して、残して欲しいと思っている。

 

(松山千春一家)

 

去年亡くなった父の墓地の関係で、今週末故郷の山梨に帰ることになった。早いもので亡くなってからもうほぼ1年半。

 

病院にお見舞いに行くと、笑顔で手を振ってくれた。病院内で歩く練習を一緒にやって、私が帰ろうとすると、「気をつけて帰れよ。子ども達(父にしてみれば孫たち)に頑張るように言ってくれ」と言った。

 

小さいころ、補助輪を外した自転車に乗る練習を父と一緒に早朝やった。私が乗れるようになって、父が大喜びしていた顔と声を覚えている。

 

31年前、母の一周忌の際、たくさん集まった親戚の人たちの目も憚らず、泣きながら母への思いを語っていた。

 

絶対に忘れないいくつもの父とのシーンとともに、亡くなってこそいつも一緒に生きているという実感がある。それこそ一日何回も思い出すたびに、父と母に感謝を捧げている。



《 松山千春 「父へ」(推題) 》

 

何度も同じこと話すあなたに

少し驚いただけ
いいよ何度でも答えてあげる

僕ここにいるから

いくつもの季節が あなたを変えてゆく
僕が見えますか その手僕に

届くといいのだけれど

子どもたちのため 体も心も

少し疲れたのかな
教えてください 何をすれば

あなた喜んでくれる


いくつもの季節が あなたを変えてゆく
僕が見えますか その手僕に

届くといいのだけれど


覚えていますか あなたにしかられ

涙流したことを
寒い夜にはあなたの胸で

眠り夢を見てた

覚えていますか あなたに連れられ

みんなで帯広へ行き
最後のしたこと パチンコしたこと

食堂でご飯を食べた
 

いくつもの季節が

あなたを変えてゆく
ねえ、僕が見えますか 震えるその手

届くといいのだけれど