<2024.05.14>最下段/中島みゆき展写真挿入

<2019.2.17>起稿

 

(「命の別名」を歌う中島みゆき/一会から)

 

人生の中でこの世のこと全てを分かり切るのは不可能だし、ましてやことの真実などそう簡単に掴めるわけはない。でも日々必死に生きる中で様々なことを経験して、少しずつ気付き、分かっていくのだろう。

 

その意味で、自分の人生はいつも途上。今はまだ人生を語らず。

 

何千人何万人という人たちに影響を与える生というのはひと握り。人数の多寡ではなく、一人の人の必死の生は、その周りにいる人たちに必ず勇気を与える。

 

 

生命

 

在ると言えば、無い。手に取って見せることはできない。

 

無いと言えば、在る。折に触れて喜怒哀楽など様々な感情となって常に現れ出る。

 

生命、言葉ではなかなか表現し難いが間違いなく自分の中に存在している。

 

意味合いが100パーセント一致しているとは思わないが近いニュアンスとして、小田和正は「彼方」の中で歌った。

 

つながるいのちは 明日を

ずっと見届けてゆくんだ
僕らをこえて 別れをこえて

悲しみをこえて 心こえて
いのちをこえて 時さえこえて

永遠に続いてゆくんだろう

 

 

生命が、生という姿を現す時もあり、死という姿を示す時もある。生と死を繰り返しながら永遠に続いていく。私はそういう生命観を信じている。

 

父や母、縁した親しい方々の多くの死を見て来て思う。

 

人が笑顔をたたえて亡くなった時、きっと後悔のない充実した人生だったと確信する。同時にその笑顔は、死の向こうに新しい輝く生を見ているのだろうとも思う。

 

誤解を恐れず書けば、生も喜びであり、死も喜びである。

 

人間の生命には善性も悪性も備わっている。どちらかになりきることはない。縁に触れ、善性が多くを占める場合もあれば、その逆もある。

 

人々のために尽くす行動となって現れる場合もあれば、愚かな過ちを繰り返す場合だってある。

 

(「命の別名」を歌う中島みゆき/一会から)

 

生命は命とも言える。中島みゆきは命と心をイコールで結んだ。

 

「生命=命=心」がその人の存在そのもの。

 

生まれや立場、置かれた状況などにより生命の尊卑、軽重があるはずがない。そのものが尊い。

 

それぞれ置かれた状況の中で、必死に生きているそのこと自体が何よりも尊貴。

 

決して自分一人で生きているわけではない。生命が縁し合い、織り合い、お互いの人生を彩っていく。

 

そうした考えや見方を持ってこそ、深い人生を歩めるのだと思う。縁する人達と本当の意味で豊かな心の交流があり、他者に対する感謝の気持ちも生まれるのだろう。

 

命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも

 

ちなみに、下のライブパッケージ『一会』に収録されている「命の別名」は、どの作品に収録されているそれよりも遥かにいい、中島みゆきの魂こもる”心唱”が迫ってくる。

 

中島みゆき―「命の別名」

(2022年11月28日公開)

 

知らない言葉を覚えるたびに
僕らは大人に近くなる
けれど最後まで覚えられない
言葉もきっとある

何かの足しにもなれずに生きて
何にもなれずに消えて行く
僕がいることを喜ぶ人が
どこかにいてほしい

石よ樹よ水よ ささやかな者たちよ
僕と生きてくれ

繰り返す哀しみを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも

 

命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも

たやすく涙を流せるならば
たやすく痛みもわかるだろう
けれども人には
笑顔のままで泣いてる時もある

石よ樹よ水よ 僕よりも
誰も傷つけぬ者たちよ

繰り返すあやまちを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも

石よ樹よ水よ 僕よりも
誰も傷つけぬ者たちよ

くり返すあやまちを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも

命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも

 

中島みゆき Concert「一会」(いちえ)2015~2016

ダイジェスト・トレーラー(公式)

※「命の別名」11分18秒~12分1秒

 

(「命の別名」を歌う―「旅歌」より)

 

中島みゆき展 「時代」2024 めぐるめぐるよ時代は巡る

CHAPTER7「言葉の森」から「命の別名」歌詞

(2024年5月8日鑑賞)