takam16の本の棚
です。バーチャルですが......

 アルバイトの面接において、話に行き詰まったりすることが多々ある。
自分が相手にうまく話させる技術も足りないのだろうが、相手もこんな場面じゃあ
仕方がない。
いささか大げさではあるが、面接というものは生きるか死ぬかの勝負事
というものだ。緊張というものが会話の邪魔をする。

働きたいにもいろいろわけがあろう。
小遣い稼ぎが目的の者もいれば、生活のために食べていかなくちゃあならない
ために働く者もいる。また、どうしてもこの業種で働きたいんですという
嬉しい悩みもある。

例えば本屋さんだ。自給は市町村で定められた最低賃金の法に抵触するか否か
のケチん坊ぶりだ。苦しい台所事情が伝わる業界の1つだ。
しかしながら、そんな激安バイトでも書店で本に囲まれて働きたい人にとっては
現実などどこ吹く風、理想をとことん追求する。大好きな本に囲まれたいと。

しかし冒頭にも述べたとおり、相手は緊張で会話のキャッチボールがぎこちない。
ワンバウンドはおろか、キャッチャーミットにすら届かない。
そこで面接する側は考える。そうだ、履歴書の趣味から話を膨らませようじゃないか。

ところが、この趣味ときたらなんだ。

「音楽鑑賞」
「ショッピング」
「スポーツ観戦」 

そして

「読書」。

このいかにも本屋で働きたいがために自らをアピールする意味の「趣味は読書。」
そこで話は寸断である。ハイおしまい、次の面接の人、である。

しかしながら、履歴書に「趣味は読書。」と書かれてビクともしなかったのに、
本のタイトルに

「趣味は読書。」

と持ってこられちゃあ、ハイおしまいでは済まないのが、趣味が読書である当管理人
である。

  何もかも、タイトルがきっかけの第一歩であることを信じて疑わない当管理人。 さっそく引っ掛かってしまった。歯に衣を着せぬ文章は私に任せなさいということを 読者にいつも訴え続けている(ように感じる)斉藤美奈子さん。 タイトルのきっかけづくりは大成功である。 本の色もいい。黄色だ。目立ちたがり屋の王道を進んでいる。 さて、中身をちょろりと開いてみれば、さっそく出ました。斉藤節。 「さあ、もうおわかりだろう。『趣味は読書。』なんていう酔狂な本を手にしたあなたは...」 ひぇぇぇぇぇ、罠にはまったよ。 美奈子の世界へよ・う・こ・そ。色恋モノかよ。 さて、上は前書きの一部分なのであるが、同じ前書きに次のような区別が登場する。 なお区別の説明箇所は短く変えて記す。 「偏食型の読者」.... 特定のジャンルしか読まないタイプ。 「読書原理主義者」... 本であればなんでもいいし、本なら何でも読めと強要までするタイプ。 「過食型の読者」... 読んだ本についてあれやこれやと論評し、頼まれもしないのにネットで           読書日記を公開するタイプ。 「善良な読者」... 本の質や内容までは問わず、「感動しろ」といわれれば感動するし、「泣け」          といわれれば泣き、「笑え」といわれれば笑うのが欠点で、趣味の欄にも          「読書」と書き、「本を読むのが唯一の楽しみで」と臆せず自己紹介するタイプ。 さあ、皆さんはどれに当てはまる? とここで自分を4つのタイプの中のどれだろうと考えてしまった人は、それこそ美奈子の 世界にどっぷりつかっている。いや、再び罠だ、罠にはまってしまった。 自分も悔しいことにこの罠の餌食になった。 つまり「趣味は読書。」で十分魅せつけておいて、さらに前書きにおいて、読書人の4つの タイプを読み手に差し出した。これぞ我々日本人の多くがいつまでたっても愛してやまない 血液型某やら、水星某・土星某のズバリものやら、動物型某やら星座某といった型に はめ込むやり方であり、これこそが斉藤美奈子氏の思うツボである。うまく利用したものだ。 そしてこれらの著者の物言いを訝しげに感じた方がいるなら、それこそますます 思うツボである。 それが、先述の 「さあ、もうおわかりだろう。『趣味は読書。』なんていう酔狂な本を手にしたあなたは...」 である。 実は本書の中身は平凡社のPR雑誌「月刊百科」の「百万人の読者」という連載の集合体 で、過去のベストセラーについて読者をハラハラドキドキさせながらも痛快に斬りまくる 著者のコラムである。「海辺のカフカ」「大河の一滴」「ハリーポッター」などなど本屋の売上に 貢献してくれた、書店員が努力しなくても売「れる」本を読んでいなくても、私がその内容を 教えて差し上げよう、それで読んだ気にもなるだろう。ただし言いたいことは言わせてもらうと いった類のコラムが40冊分以上集められたシロモノである。 こちらが本書のメインなのであるが、 元来書評や感想などというものは、もしも読書経験のある本であるならまだ付け入るスキは あるものの、 それがわからない者、読んだことのないものにとっては何も心に残りはしない。 よって、残念ながら紹介された約40冊を血眼になって読むような箇所は ほぼ皆無であった。 ブログの書評も同じことだ。少しでも読んでみてはと気配りでも見られない限り、 自分の制空権にかすりもしない本の紹介に何を感じ取ればよいのかがさっぱりわからない。 よって著者の紹介する一連のベストセラー本としてのコラムに触発されたり、感極まるなど という場面に出くわすことは残念ながらなかったのであるが、 実はこのコラムを1冊の本として刊行した時に、訴えかけるポイントを斉藤美奈子氏は 考えた。 最初から1冊の本にすることを念頭に、それも小説ではなくコラムを書くというのは普通は 考えない。 そこでモノを見る角度を変えることを試みた。 読書人分析だ。読書人を4つのタイプにしたのであるが、 さらにその読書の枠をはみ出して考えたのである。 それを著者は「民族」「部族」に例えたのだ。 同じ読書をする民族が、さらに 「偏食型の読者」、「読書原理主義者」、「過食型の読者」、「善良な読者」の4つの部族に分け られるのだ。ある人はベストセラーなんてと蔑み、ある人は本を読めなどと強いる。 一方で本にどっぷりつかるのなんてたくさんだという人だっている。そして読書人という 狭い領域で共感を覚えた者同士で小さな世界を作り出す。 書籍の市場は、数字の上では1兆円。他のレジャー産業の躍進を考えると毎年衰退傾向だ。 そんな年々小さくなってゆく民族の中でさらに部族を作って派閥を作っていったいどうなのさと いうわけだ。 この民族・部族の例えは言ってしまえば著者の最大限の皮肉ではなかろうか。 そして、この読書人の区別も精一杯の我々への皮肉ではなかろうか。 まず、趣味で読書人を分類されることに当管理人はこの国に生まれたことへの安心を感じる。 趣味の区分けであーだこーだ議論が出ること自体が幸せなことである。 他国では趣味といった内面どころか、肌の白黒といった外見のみの判断や、真の意味での 民族、宗教の違いで実際にいがみ合い、憎しみあい、争い、人が死んでいくのだ。 「趣味は読書。」もよくよく考えたら日本に生まれたことにもっと感謝してもいい。 アフリカはどうだ。15歳以上のアフリカの識字率は60%、その最低は13%のブルキナファソだ。 おまけに貧困で彼らは苦しみ、寿命といえば、シエラレオネなどは40俊代が平均だ。 老後はゆっくり読書など、悠長なことは言ってられない。 趣味は読書 ? そんな場合じゃあない。生き抜くことに精一杯なのだ。 本書を知る前に梨木香歩の「村田エフェンディ滞土録」を読んだ。人種も民族も宗教も文化も違う 者同士が集う街、イスタンブールを舞台にした物語。彼らは互いをわかりあおうとし、 実際にわかりあえた。 読書だってベストセラーを読んでもいいし、ジャンルの偏った本を読んでもいい。 そんな国で育ったのだ。誰が何を読もうと別にそれでなんの問題もない。 難解な本を読んで偉くもなければ易しい本を読んでバカでもない。 人それぞれの置かれた状況で読書タイプやスタイルは変わるのだ。 何度も言うようだが区分けされた4タイプは、あえて著者がしくんだ提言に思えて仕方がない。 いや、著者以上に平和や他文化の共有で物事を広く捉える目を養ってもらおういう出版物の 特徴を持つ平凡社がしくんだ提言に思えて仕方がない。 その上で改めてじっくり著者の斬れ斬れコラムを読むと、少し視点が変わるのかもしれない。 なお、本書「趣味は読書。」は望めば誰の力も借りずに本屋あるいは図書館でタイトルに魅 かれて手に取りたい書であった。 他ブログ様の紹介がこの本を手にするきっかけになったことは それはそれでありがたいことなのだが、自分で発見できなかった悔しさもある。 従って、もしこの記事を読んだ方々がこれをきっかけに本屋・図書館に足を運ぶことを 自分は好まない。 「邂逅」という思わぬ出会いで「趣味は読書。」を手にした方がうらやましい。 だから、読者様の中で初めてこの本を知った方がいるなら、一度頭をリセットされることを 期待する。 さらに個人的には面接で「趣味は読書。」でハイおしまいはもうやめた。 これからは、「趣味は読書。」をきっかけにもっと前向きな質問をを投げかけることを 試みたいと思う。 というより、本屋はもうやめたのだ。新たな職場(もう数年経つ)でこの前向きな質問、 いったいいつになったらできるのだろう。まだそのような地位にはない。 本書との出会いを提供してくれたブログ管理者、つな  (敬省略)
斎藤 美奈子
趣味は読書。
 
takam16の本の棚
です。バーチャルですが......
 本の話でウダウダ言ってきた当管理人であるが、
こう見えても、旅の仕事をしていた過去を持つ。
特に土日・祝日・大型連休にはツアーコンダクターという任務も
あったわけで、一般的に人気のある名所にはご縁があった。
残念なことは海外添乗の機会が研修のみであった点で、悔いは残っている。

大型連休といえば、ゴールデンウィーク、お盆休み、そして年末年始がある
のだが、今回思い出したのはゴールデンウィークの方だ。

西日本では以前より本州と四国を結ぶ瀬戸大橋が有名であったが、新たな
連絡橋ということで、兵庫県の明石と淡路島を結ぶ明石海峡大橋が完成した。
1998年のことである。すると、旅行会社としては当然この2つの橋を
利用したツアーを組むことに躍起になる。

ゴールデンウィークの5月3日、そして5月5日は香川県の琴平にある金毘羅宮
でそれぞれ憲法記念祭、子供祭などと呼ばれる催しが行われる。
これを利用して

「明石海峡を渡って金毘羅、土佐、鳴門の渦潮を巡る旅」

という1泊2日のツアーを2回連続で行かされる...いや、行くことになった。
行程はこうだ。


1日目。
朝7時30分。大阪をバスで出発し、高速道路で一気に岡山県。瀬戸大橋を渡って
四国の玄関口、坂出のインターチェンジを降りて門前町の琴平で讃岐うどんで腹ごしらえ。
お昼ごはんである。
食後は専門ガイド付きで金毘羅宮へ登る。登るというのは、その場へ辿り着くには
1368段ものかつ、中途半端な幅の石段を登って参拝するというわけだ。
この時点で参加者もtakam16も皆が全体力を使い果たす。
参拝後、今度は南へ下って土佐の高知市内で宿泊だ。高知県は病院の数の多さで有名だ。
気休めに出た夜の食事にかつおのたたきも今日はもういい。お疲れだ。早く寝る。
しかしながら夜中中救急車のけたたましい
サイレンで落ち着かない。

2日目。
朝7時40分にホテルを出る。とにかく出発が早過ぎる。向かう先は桂浜。坂本竜馬の銅像が
そびえ立つものの、お客は早過ぎる像とのご対面に心に記憶がうまく焼く付かないらしい。
そのあと、午後の目的である徳島は鳴門の渦潮を見るのだが、その道の途中、祖谷(いや)渓
という観光地がある。祖谷のかずら橋というけっこう揺れを感じる女子供にはスリルが期待できる
シロモノだ。そして鳴門の渦潮を見学後、いざ明石海峡大橋である。横浜などにも夜にふさわしい
橋があるが、明石海峡大橋の夜のライトアップも悪くない(完成当時)。
そこから大阪までは道が混んでいなければ1時間15分で帰着である。到着は夜8時50分。

というのがこのツアー内容。ところがこれをGWに行ったとなるといったいどのようなことに
なるかは想像していただければわかるはずだ。


お客は皆、金毘羅宮で繁栄や仕事運、健康や平安をお祈りしたのだろうが、takam16の祈りは
ただひとつ。早くホテルに着きますように、そして早く帰れますようにである。
なのにどこへ行った、神とやらは!! 結果は散々であった。
GWにバス旅行などもってのほかだ。ホテル着が9時を過ぎ、大阪への帰りは夜中の2時だ。
お客はそんな真夜中に大阪に着かれても困る。もう電車は走ってないのだ。
そして連続で同じツアーの仕事なわけだ。家に帰るのは夜中の3時。すぐに次のための準備を
して再び家を出るのは朝の5時。
顔色の悪い、目の下にクマをたっぷり仕込んだ添乗員にお客が好意など抱くわけがない。
ああ、お疲れだ。


金毘羅の話をしようと思ったのが、ついつい強行ツアーの不愉快な思い出をタラタラと語ってしまい、

「あいすみません」

なのだが、つまりは何のお話をするかというと、
宮部みゆきの「孤宿の人」を読む機会があったから紹介と感想を書きたかっただけなのだ。

この物語、讃岐国(今の香川県)の丸亀藩がモデルなのだ。 そして、「あいすみません」は宮部時代ミステリーに頻繁に登場する会話のひとつ。 出版社の新人物往来社のHP をご覧いただければ わかるのだが、 悲しいお話なのですが 悲しいだけではない作品に したいと思い書きあげました とはご本人のメッセージである。 簡単に言えば、主人公で10歳になる「ほう」がある事件にからむ重要なことを目撃してしまった ことから話が始まる「殺し」がからむ「ほう」の成長物語である。 成長物語のみで勝負をしてしまえばそれで事無きを得るのだろうが、そうは「みゆき」がおろさない のが著者である。そして読者もそれでは困るのである。だからこその上下巻である。 江戸時代の庶民の暮らしぶりを摩訶不思議な事件や出来事とうまくからませながら話を進める のは著者の得意とするところである。 文中でしばしば見かける人間の性の講釈を大事に説明する点も健在である。 しかしながら先述の宮部氏の言葉にもあるように、 笑うには多少難儀する場所、例えば電車の中や待合室といった向かいや隣に他人がいるような ところで 「ぷぅ~。」 とふきだしそうになるシーンというのは滅法少ない。 それはシリーズ物である「ぼんくら」「日暮らし」との比較がそうさせるのかもしれない。 あちらの主人公はなんだかぐうたらなイメージがつきまとう主人公だった。 しかし、こちらの主人公「ほう」は子供であるゆえ世間の良し悪しがまだわからない年頃だ。 よって、人間臭さが醸しだされる方が読み手としては面白い。 だから、なにも知らずにただ笑いを期待するととんだうっちゃりをかまされる。 だから出版社のHPを案内した。 しかし、成長物語とは言っても、子供にずうっと視点をあててばかりいると飽きる読者もいる はずだ。そこで、宮部氏得意の江戸時代のお役人や庶民などキャラの強い人物達をしばしば 登場させ、人間相関図による楽しみを提供し、また彼らの視点で話を進めることも惜しんでいない。 時代考察としても江戸の下町と違い、ここは讃岐だ。役所の役割の江戸との違いの説明もふ~ん と思わせる。 摩訶不思議な事件の数々と脇役である大人たち、その中で特別強烈な個性を持たない「ほう」 が成長してゆくのである。 ドラマなどでよくある右も左もよくわからない新人俳優・女優を多士済々の名優達とストーリーが さりげなく助けることで徐々に花開き、 クライマックスに近づくにつれ、視聴率がぐんと伸びるような時代モノ、 それが本書のような印象だ。 また、初出に注目してみるのも面白い。 「ぼんくら」「日暮らし」は講談社の小説現代の連載が単行本になったものだ。 小説現代のモットーは、 「愉楽の追求」 である。 一方の「孤宿の人」は歴史読本での連載が単行本になっている。 あくまでも主役は歴史であり、その中で特定のテーマを抽出した読みごたえ抜群 かつ、歴史の考察もしっかりと追求するディープな雑誌である。 「愉楽」は特別織り込まれてはいない。 出版社側の目指すところの違いがなんだかわかるような一連の宮部みゆき時代ミステリー、 今回は「孤宿の人」でありました。 あいすみません。 「ぼんくら」の感想→こちら 「日暮らし」の感想→こちら
 
 

takam16の本の棚
です。バーチャルですが......

 読みもしない、頼まれもしない、なのに次期直木賞受賞作を勝手に推理する
などとレベルを疑われかねない記事内容なのだが、
受賞作というものは、おおかたが受賞候補作が発表されてからでも一部の外野が
騒がしくなる程度のもので、本を買う側としては一方的にプロの主観で決められた
受賞作品を読み手が平積みされた本のオビに刻まれた毎度恒例の文句

直木賞受賞作

の平積みを本屋で見ることで、はじめて買おうかなという錯覚に陥り、
購入したあげく読む時間もない。するとつまみ食いのごとくちょびちょび読み進めながら
も、受賞作品を読んだことへの達成感が先行してしまい、つい感極まって

「さすがは直木賞受賞作」

などとおっしゃる。お前は生きたオビかとツッコミたくなる自分を抑えながらも

「そうそう、さすがは...」

などと八方美人ぶりをかもし出す自分がいるのもなんだか情けない。

書店勤務時代には自分はその一角を担っていた。「直木賞」の文句だけで売上がグンと伸びる
わけだから、苦境の書店もなんとかその場をしのぐことができる。ただし、あくまでも
直木賞作品が自分の店頭に並べばの話である。
中小書店などで働いていると、まあこういうチャンピョンベルトを引っさげた書籍を
入手するなどというのは、箸を足の指を使ってご飯を食べるくらい困難なことだ。
せいぜい、受賞発表から1ヶ月以上後しなければそのチャンピョン達はやってこない。
だったら、いっそのこと

「私たちは受賞作品は置かない主義です。」

と腹をくくるのも悪くないが、多くの書店の現状は

「広く、浅く」

である。あれも置きたい、これも置きたいという思想がつまらない書店をアメーバ化する。
そこには、店の、店主の不安感がはっきりと見てとれる。売れるものをあえて置かない
なんて、そんなことぁ~拙者にはできませぬ、売上が下がっちゃあウチらはやっていけないだす、
というわけだ。その不安感、非常にわかる。

そんな管理人もそんな中途半端な書店で仕入れの仕事をしていたものだから、
直木賞作品はカネのなる木のひとつだと思った。
でも直木賞が決まってから注文したのでは時すでに遅し。
てなわけで受賞作予想や候補作予想というもので傾向と対策はよく練った。
勝手に「赤本」状態だ。

しかし書店の仕事から離れると、純粋に楽しむ意味での受賞作予想なんてものに興味がわいてきた。
仕事では「苦」を伴うのだが、その責任から逃れると、予想がとっても「楽」になる。
人生そういうものだ。



さて、直木賞は文藝春秋社の土俵の上に作られた賞である。
前回、
文藝春秋社が候補作に選ばれる確率  100%。

と記した。過去20年のデータである。
その100%の候補作の中で、じゃあ実際に受賞した確率はどうかと調べたところ、

過去20年で文芸春秋社が受賞した確率 57.5%

である。ならもっと近視眼的になろう。
過去10年で文芸春秋社が受賞した確率 50%
過去10年で文芸春秋社が受賞した確率 80%

の数字だ。ちなみにこれらの統計は、例えばその年に受賞候補作が当該出版社から
2作選ばれてもそれは1で計算しており、受賞作が当該出版社から2作出ても1で
計算していることを付け加えておく。

とにかく、最近の5年間の80%は驚異的な数字だ。
対象は124回から133回であり、その中で128回は該当作品なしである。
ということは、5年間で他の出版社が受賞したのは、130回の

江国香織 「号泣する準備はできていた」(新潮社)
京極夏彦 「後巷説百物語」(角川書店)

のみである(注:この時は2作が受賞)。
ならば確率は90%近くまで上昇する。

ふとその130回の受賞候補作が気になった。以下に列挙すると


・江國香織    『号泣する準備はできていた』  新潮社
・京極夏彦    『後巷説百物語』        角川書店
・朱川湊人    『都市伝説セピア』      文藝春秋
・馳 星周    『生誕祭』          文藝春秋
・姫野カオルコ  『ツ、イ、ラ、ク』      角川書店


その中で気になったのは「身内」である文藝春秋社の2作品。
最新の直木賞受賞作家朱川湊人氏は初めてのノミネートであった。
一方の馳星周氏は8回ぶり4度目のノミネート。

「身内」が2作品も出ているのに、賞を獲ったのは他出版社なのかと
ぼーっと資料を眺めていたのだが、ちょっと待てよと思案した。

「身内」の文藝春秋社の発行にもかかわらず賞を獲れなかった朱川湊人氏と
馳星周氏。前者は先ごろ「花まんま」で見事受賞者の仲間入りを果たした。
出版社はもちろん文藝春秋、2度候補作の2度とも文藝春秋、2度目での受賞である。
一方の馳星周氏の過去の候補作と出版社を見てみよう。

116回 「不夜城」 角川書店
120回 「夜光虫」 角川書店
122回 「M」   文藝春秋
130回 「生誕祭」 文藝春秋


「身内」の恩恵を受けながら、2度もそのチャンスを逃した。こういう場合、
果たして「3度目の正直」があるのだろうかと考えた。
つまりは、

文藝春秋で過去2回候補作になりながら受賞できなかった作家が同じ文藝春秋で
三度(みたび)以上候補作に選ばれ、
そして、それが受賞することができるのか。


2度もチャンスを与えられたのだ。それなのに最終選考で落とされた「身内」の
作品を同じ「身内」がどう扱うのかに興味が沸いた。

94回から133回の20年間で気になるデータを探し、以下に記載した。

馳星周  
116回 『不夜城』 角川書店
120回 『夜光虫』 角川書店
122回 『M』   文藝春秋
133回 『生誕祭』 文藝春秋  以上

宇江佐真理
117回 『幻の声』     文藝春秋
119回 『桜花を見た』   雑誌別冊文藝春秋
121回 『紫紺のつばめ』  文藝春秋
123回 『雷桜』      角川書店
127回 『斬られ権佐』   集英社
129回 『神田堀八つ下がり』徳間書店 以上

黒川博行
116回 『カウント・プラン』 文藝春秋
117回 『疫病神』      新潮社
121回 『文福茶釜』     文藝春秋
126回 『国境』       講談社  以上

横山秀夫
120回 『陰の季節』  文藝春秋
124回 『動機』    文藝春秋
128回 『半落ち』   講談社  以上

東郷隆
104回 『水阿弥陀仏』他  東京書籍
106回 「猫間」      雑誌別冊文藝春秋
108回 『打てや叩けや』  新潮社
111回 『終りみだれぬ』  文藝春秋
113回 『そは何者』    雑誌別冊文藝春秋
119回 『洛中の露』    新潮社      以上

小嵐九八郎
106回 『鉄塔の泣く街』 実業之日本社
108回 『清十郎』    文藝春秋
110回 『おらホの選挙』 講談社
112回 「風が呼んでる」 雑誌オール讀物(文藝春秋発行) 以上

阿久 悠
82回 『瀬戸内少年野球団』 文藝春秋
99回 『喝采』       文藝春秋
101回『墨ぬり少年オペラ』 文藝春秋 以上




また、泡坂妻夫氏については、文藝春秋で3度落とされ、103回に新潮社で
受賞している。

20年間の中で1つだけ文藝春秋として何度も候補に挙がった結果、「身内」で受賞
できたのは

赤瀬川隼の『白球残映』(113回)、そして
白石一郎の『海狼伝』(97回)の2つである。

以上より過去20年間で2度文藝春秋社より刊行・発表された作品が直木賞候補作に
選ばれながら落選した場合、その後同じ文藝春秋社でノミネートされ、受賞する確率は

22%。

実は30年も40年も前であれば、渡辺淳一氏や藤沢周平氏などは文藝春秋で何度も
ノミネートされながら、落ちまくったが、最終的には文藝春秋で受賞しており、
他にもいくつか見られ、昔ほどこの確率は高いのであるが、
最近に近づけばこの確率はゼロになってしまう。


過去20年間に限定すると、22%、
過去10年間では     0%
過去5年間でも      0%


かつては雑誌連載作品のノミネートが多かったが、徐々にその傾向はなくなり、
雑誌連載後、単行本になったものが候補に挙がるようになったのも確率が下がった
理由の1つであろうか。


以上より、記載した作家は次に「身内」である文藝春秋より発売・発表された作品が
候補作に選ばれようが、彼らが直木賞作家になることは非常に困難なことである。



今回は消去法でござんした。

 

takam16の本の棚
です。バーチャルですが......

自分の本棚を整理すると、どうしてもジャンルわけというものをしたくなってしまう。
コミックは自分の所蔵にはまったくなく、松本清張や司馬遼太郎作品は文庫ばかりだが、
量は多い。特に司馬作品には「竜馬がゆく」といった巻数モノや「関ヶ原」のような
上中下モノのおかげでそれだけで部屋の隅にコーナーを設けることも可能な状態である。

ジャンルに関していうと一番多いのは「戦争モノ」である。この「戦争モノ」とは
主に太平洋戦争前後を扱ったものや、戦争に関わった人物の話であり、
その入門書として、半藤一利氏の「昭和史」は何度も読みたい
1冊として、本棚の表紙をこちらに向けて目立つように陳列させてある。
保阪正康氏の一連の書や先述の松本清張氏による「昭和史発掘」 なども本棚にちゃっかり収められている。これらは一応背表紙置きだ。
本棚を眺めてつくづく感じることは、本棚からは自分の趣味や興味、悩みや過去がわかるもので、 同時に人を家に招くときにあまり見られたくない部分はトイレの汚れよりも冷蔵庫の中身よりも 本棚だということだ。 さてその「戦争モノ」が多めの本棚。ある子供に言わせると、軍事評論家は戦争が好きだから 評論をしているという直球勝負の意見に、「それはちと違う。」とバツの悪そうな顔で応える 評論家と同じく、takam16も戦争が好きだからそんな種類の本があるのでしょ? と尋ねられると、 「それもちと違う」 と堂々と応えられるかというとそうでもない。いつのまにやら「戦争モノ」が増えて今日に至る のだ。平和のために.... などと一般向けなコメントはよそう。 正直、「戦争モノ」の蔵書が多い方になぜとお聞きしたいぐらいである。 そんな蔵書であるが、よくよくチェックすると、日本人の考察による戦争話がほとんどである ことに今さらながらに驚くと同時に、視野が狭いのかなと疑念に感じる自分がここにいる。 たった1冊を除いてだ。
チャールズ・W. スウィーニー, Charles W. Sweeney, 黒田 剛
私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した
元アメリカ空軍出身者で、太平洋戦争にも加わったチャールズ・W・スウィーニー氏による 自伝であるのだが、そのタイトルが 「私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した」 なのだから曲がった背筋がピンと伸びるのも無理はない。 この元軍人は、昭和20年8月6日にヒロシマの原爆投下の瞬間と爆発を目にし、 3日後の8月9日にはナガサキの原爆投下機の長としての職務を全うした男である。 本書はチャールズ・W・スウィーニー氏が原爆を投下するまでに歩んできた軍人としての 人生を語った伏線的意味合いの部分、そして原爆投下任務時とその前後も 含めた核心部分に分けて読んだ、というのも、読み始める前から興味の中心が原爆投下の自伝 にあったからである。それが前者の「伏線的意味合い」と強く感じざるを得ないのであるが、 のちに配属となる部隊発足のそもそものきっかけは、 アインシュタインのルーズベルト大統領に宛てた次の一文 ドイツが想像を絶する破壊力を持つ爆弾を開発する能力と資源を持っており、 そのような兵器を保有する国が世界を支配するであろう である。 つまりは原子爆弾を先に造った国の勝ちというわけだ。 その爆弾を搭載し、投下する訓練の苦悩を赤裸々に語っているのだが、当初は 原子爆弾は極秘に開発されており、また原爆投下作戦も同じく極秘であり、それが いつ、どのような形で使用されるのかも机上の世界であったために、 著者は配属されたユタ州での輸送機の指揮の任務や爆撃機の任務の意味合い がさっぱりわからない空想の世界として日々の訓練を行うことになる。 これらの計画は「マンハッタン計画」そして「アルバータ計画」と呼ばれたのだが、 その原爆開発&投下計画を知らされた著者が将来ヒロシマ、ナガサキに落とす原爆機 が出発するテニアン島に移動してからが自分にとっての読みどころである。 原爆投下の候補地は4つあったようだ。 広島...アメリカ軍上陸に対する防衛組織がある 小倉...強大な軍備を持つ地 長崎...兵器工場&魚雷工場がある 新潟...軍事施設の存在 実は京都も当初はターゲットの1つになるらしかったが、 「文化的・宗教的建造物の数々は日本の大切な財産である」 という上層部の見解ですぐに候補から外されたそうだ。 4つのうちまず新潟が消去されたのは、地理的要因に尽きる。飛行距離が他より 長くなってしまうということだ。 結果、優先順位は ①広島 ②小倉 ③長崎。 *8月9日は小倉投下が目標も視界悪く、投下直前で長崎に変更 また、 原爆を載せたB-29戦闘機を9000mの上空から投下後、43秒で爆発する ので、その間に放射能を浴びないために最低13キロ離れる必要がある。 という原則のもといざ決行となるのだが、著者はヒロシマにおいては帯同する機 から原爆投下を目に焼付け、 ナガサキにおいて任務の長として実行にあたる。 実はこのナガサキ投下に関しては、特に投下後の裏話は知る人ぞ知るのであろうが、 自分にははじめて知った話だったので、最も時間を割いて読んだ。 軽く触れると、投下後の燃料切れにまつわるエピソードである。 その他にもさまざまな著者とその周囲にまつわる裏話や原爆投下の 経緯について、316ページにわたり語られるのだが、 著者がこの本を出版するきっかけの最たるもの、それは 「歴史認識」 にほかならない。アメリカの歴史学者から原爆投下への疑問が投げかけられ、 多勢を占めつつあることに憤りを感じたまさに当事者である氏による 渾身の作品というわけである。 原爆を使用した理由。原爆でなければならない必要性。 その正当性は理論的というよりは感情的にも感じるが、70代にもなって、 自身の行為を否定されたこと、それは自身の存在を否定されたことともなる のであろうか。 ただし、この本は 「アメリカの未来の世代に捧げた」本と著者は記している。 さすがに日本人に捧げるのはあまりにも酷な話であろう。 決して日本人が読後感良好などとはなれないのが正直な気持ちである。 あくまでも1人の軍人の回顧録として捉えるべきなのだろうが、 内容はやはり重い。 歴史というものは、勝者のためにあるものだと客観的に考えてきたが、 いざ自国の相手国の話を読むと、なかなか奇麗事では済まされない複雑な1冊 でありました。
 

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です。バーチャルですが......

本棚を2ヶ月ぶりに整理&廃棄に汗をかく先週末だったのだが、
案外売り頃の本も出てくるものだなあと思った。
その数32冊はちと少ないか。というのも
「案外」というのは、自分は本のページによく書き込みや折り曲げをするクセ
があるため、所蔵本の多くが他人の手に渡ることがない、というよりはできないの
である。

逆に言うなら自分にとって綺麗な状態の本というものは、
なんの心にも残らず、気になる表現も見当たらずという意味にもあたる。
また、本を将来売ることを目的に腫れ物に触るようにページをめくる
という前提の読書では集中力が欠如してしまい、内容は二の次になる傾向がある。

よく友人には、
「綺麗に扱えばその後の副業にもなるのにもったいない。」

と注意されるのだが、書き込みグセは子供の頃からの習慣であるため、
どうしようもない。友人には

「へいへい。」

と軽くいなしているのだが、これからも同じことをたらたらと言ってくる
のだろう。ああ嫌だ。

さきほど言った「副業」というのは、つまりは

・新古書店への売却
・オークションへの出品

のことなのだが、自分にとっては本に関してはどうもご縁が薄いようである。

ところがである。
いざ本を買うという行為について本棚を整理しながら思ったのは、
購入本の半分以上をオークションでの落札に頼っていることに気が付いた。

自分の場合、例えば100冊の書籍を読んだとする。雑誌は含まない。
まず半分は図書館である。つまり50冊は無料(注:ここでは税金は含まない)で
本を読んでいるというわけだ。

問題は残り50冊の入手元である。
この50冊のうち20冊が新刊書店で購入する。
そのうち半分はネット書店、あとはリアル店舗である。
ネット書店で購入の多くを占めるのが、新書である。
1冊では送料を取られる。だから1500円以上を購入するために
無理にもう1冊足している感は否めない。

あとの30冊のうち、10冊がいわゆる新古書店というやつだ。
100円文庫がその中心を占めている。


そして、残りの20冊はすべてオークションによる落札であること
に気づき、その種類のほとんどは単行本の小説だ。

ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」や
東野圭吾の「容疑者Xの献身」、
奥田英朗の「サウスバウンド」、
津本陽の「覇王の夢」

といった本屋では平積みの対象になりやすい人気本が中心だ。
というのも、オークションではマイナーな本というのが数が少なく、
また落札者側の選択の幅が狭いというのがある。
その点人気本なら2桁の出品登録があるため、品定めがしやすい。
またコミックなどの場合、例えば
「キン肉マン全巻」「パタリロ発売全巻」
など、大人買いをするための用意がしっかりとできあがって
いるところも面白い。

ただ、変なセットメニューのような出品物もある。
例えば、司馬遼太郎作品の著名なもの数巻を出品してあることに魅力を
感じ、入札と気持ちが向きかけたのだが、「○○付」とある。
なんだと画面に目を近づけたところ

「バンダナ付」

だ。今年の1月に司馬遼太郎記念館を訪れたのだが、その時に
司馬遼太郎記念グッズなどのようなものが売店にあったのを思い
出した。絵葉書やらボールペンやら記念グッズとともにあったヤツ
のような気がする。そのために他の司馬作品出品物より若干高く見積もって
いるのだ。すると、かつて近所のダイエーでのパンチ焼き騒動を思い出す。
つまりはお好み焼きのことなのだが、それまでは350円(うる覚え)だった
パンチ焼きが、別の日に買いにきたところ、目玉焼きが勝手に付いてしかも
50円アップの400円になったのだ。
これに主婦連中が噛み付くことは避けられない。
あまりにもの不評と利益をあげる単純な商売に主婦連中は
「ノー」
を前面に押し出し、卵付きはもう買わないと拒否をした。
たまりかねた店側はさすがにせこかったと反省し、卵をつけるのを
やめた。しかもお好み焼きには卵が最初から入っているだろうに、
さらに卵でコレステロールの問題だと言ったか言わないかはわからないが、
ちょっぴりせこいのはこの司馬作品&バンダナでも感じた。

しかし、このオークションによる書籍出品。自分は本屋の出身であるにも
かかわらず、その安さと落札というエンタメに魅力がある。
そして出品物のほとんどは新品で買ったものを一度読んでの出品のため、
価格も定価の3分の2~4分の3に設定している。
落札品のすべてすこぶる見栄えがよいのだ。

以上の買い方から分析すると、takam16はいかにもアメリカ覇権主義的な
蔵書ではと想像される方もいて当然だ。この買い方では自分で見つけて買うと
いう本の楽しみが失われ、ベストセラー偏重型の弱肉強食の弱者を手に入れる
環境がない。
ではそのマイナー本はどこで見つけるかだが
先述したように、50冊中20冊は新刊書店でそのうち10冊はネット書店だ。
ということは、あとの10冊に「本探しの楽しみ」により見つけた
書がある。皮肉を言えば、たった10冊にしか「本探しの楽しみ」で
見つけた書がないということになる。


10月の第4日曜ごろに、毎年恒例の毎日新聞読書調査なるものがあるはずだ。
1ヶ月の読書冊数や1日の読書時間などをアンケート調査により紙面に発表する
内容なのだが、読書という行為に関しては、小中学校における朝の読書なるもの
の普及が著しく、読書人口は増加の方向に進むと予想される。
しかし、その入手経路は非常に多角的である。
新刊、古本、図書館、オークション、貸本屋、マンガ喫茶に加え、
携帯端末による電子書籍がグンと伸びている。
既存の出版業界はジリ貧だ。


新刊書店は巨大で品数の多い書店に人が集まるのは当然である。
一方、中小書店は店舗面積が狭く、品数に限りがある。
ある人がはじめて訪れた店にどうしようもない品しかなければ
その人は二度とその店に訪れることはないだろう。

ネット書店では発見というよりは、あらかじめアテのある本を検索
して購入する場合が多い。
オークションは遊び心ながらもこちらも事前に頭にある本を探し、落札
することがしばしばだ。
新古書店の前提はあくまでもリサイクルである。そして、在庫の仕入先が
限定されるため、店側が積極的に望む本を陳列しているとは限らない。

やはり衝撃的な出会いというものは、既存のリアル店舗が最もそれを演出
できるのではないかと改めて思った。
そのせいか、整理中に棚にある本のうち、既存の新刊書店で店内を探し歩いた
結果、購入した本は妙に汚らしくうつる。

たかが新刊書店。されど新刊書店。
そして頻繁に訪れることの意味。
人に与えられて購入した本と、自分で探し出して購入した本とでは
自分の本に対する扱いの違いをこの整理でつくづく思った週末でありました。


 
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です。バーチャルですが......

前回においても少し触れたのだが、芥川賞・直木賞、ともに
日本文学振興会というところが主催である。そしてこの団体の大ボス
は文藝春秋社だ。今まで133回という伝統ある直木賞。選ばれた候補作品
の出版社をチェックすると、初期から中期にかけては例外があるが、
最近20年間(94回~133回)に選出された受賞候補作品はすべて
文藝春秋刊行の書籍、あるいは同じ社の発行する雑誌「別冊文藝春秋」「オール読物」
が出所である。

文藝春秋社が候補作に選ばれる確率  100%。

ちなみに前回にも記したが、選考過程は以下のとおりである。(以下書籍より参考)

①関係者350人によるアンケート調査 ↓ ②文藝春秋社の社員数十名が下読み&議論し、評価し、候補作決定 ↓ ③海千山千の選考委員による2時間の議論・話し合いで受賞作決定 次に、ここ最近の直木賞受賞作品を列挙する。 133回 朱川湊人 「花まんま」
132回 角田光代 「対岸の彼女」
131回 奥田英朗 「空中ブランコ」  熊谷達也 「邂逅の森」
奥田 英朗
空中ブランコ

熊谷 達也
邂逅の森
直木賞は年1回ではなく、上半期・下半期の年2回行われているのだが、 過去3回はいずれも文藝春秋から発売された作品である。 直木賞受賞作品  文藝春秋 3回連続受賞 では、文藝春秋社が連続で受賞したのは何回連続が最高かというと 4回連続である。 つい最近では124回から127回までの4回連続がある。 ただし、4回も連続で受賞する確率など、雀の涙程度のものであり、次回受賞作 が文藝春秋発行のものである可能性はあまり高くはない。  しかし、候補作は過去20年の傾向では100%なのである。 よって次回候補作に文藝春秋刊行作が選ばれるのは間違いない。 その最右翼に挙げられるのが以下の作品である。
著者の直木賞候補歴は過去に3度ある。 129回の「重力ピエロ」で初めて選出され、 131回は「チルドレン」、132回は「グラスホッパー」である。
もしも選ばれるなら、2回ぶり4度目の選出 ということだ。さらに言うなら、過去の候補作の出版社は 129回 新潮社 131回 講談社 132回 角川書店 そして本作は満を持しての文藝春秋からの出版である。この流れを見過ごすわけには いかない。 ところがこの伊坂幸太郎、実は10月下旬に「魔王」という新刊が講談社から発売される。 文藝春秋社と他社が両方発売された場合、他社の方が選ばれるということは案外ある。 よって油断は禁物であるものの、流れというものは非常に大事である。いつのまにやら 主観がたっぷり混じっているが、その裏付けも後日できそうだ。 よって伊坂幸太郎作品、直木賞候補作勝手に選出である。 しかし、あくまでも今は候補の段階である。 さらに先の予想をするには選考委員達の傾向と対策を練る必要がある。 この主観の頂点をいかに読み解くかを調査するのは並大抵のことではない。 しばし時間をいただきたい。 朝5時に書くブログ記事。大勢のカラスの鳴き声に不快感を感じながらも、 やはり気持ちいいものである。しかしこの朝の大量のカラス発生はなんだ??
伊坂 幸太郎
死神の精度
★☆★☆★☆★☆★☆★☆ 話題 情報 予定 ★☆★☆★☆★☆★☆★☆ ハウルの動く城 [DVD]ハウルの動く城 の予約開始!! 発売日は11月16日の予定です ---------------------------------------- 10月より日テレ系土曜夜9時にて白岩玄さん原作の 「野ブタ。をプロデュース」 がドラマ化されます 主演...山下智久、亀梨和也 ---------------------------------------- 10月からの新ドラマフジ系列火曜夜9時「1リットルの涙」の原作はこちら ---------------------------------------- 10月からの新ドラマフジ系列火曜夜10時「鬼嫁日記」の参考本はこちら こちら ----------------------------------------- 10月8日公開映画「空中庭園」 (主演...小泉今日子)の原作本はこちら ----------------------------------------- 10月8日公開映画「この胸いっぱいの愛を」(主演...伊東英明 ミムラ)の原作本はこちら
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です。バーチャルですが......

これまたせっかちなことで....

この前、JR大阪駅で数分後にやってくる快速電車を待つべくホームの
指定の停止位置より50センチ横にずれるような形でかつ、体の向きが
斜めになった状態で電車を待っていた。
すると、明らかに関東地方より出張帰りかと思わせるポマード1本使っちゃ
いました風の「すかん中年男」がそのポマードの悪臭を漂わせながら

「あなたはこれはどういうふうに並んでいるわけ?」

と尋ねた。ちなみになぜ明らかに出張帰りかと言えば、JR大阪駅の次は新大阪駅
である。新幹線の乗り継ぎのためにこの1区間を利用することは頻繁なのだ。

話を戻す。つまりはだ、その斜め並びは俺達関東の文化にゃ~ねえんだ、ちゃんと
正しく縦並びしろとのポマード様からのご忠告というわけだ。こちらから言わせれば
俺達関西にはポマードの文化なんかないわ!と忠告したいぐらいだ。

そこで当管理人であるtakam16は

「大阪ではいつ誰がどう並ぼうが、関係ないんですよ。」
   (ちゃんとしている人もいます。)

と知恵をつけて差し上げた。そしてポマードの話はやめておいた。揉めるからである。
例えばエスカレーターが右やれ左やれそんなきちんとしたルールなど無用である。
一応関西は右側、関東は左側なのだろうが、正味どちらでもよい。
そして電車待ちの並び方など議論の余地もない。

電車がやってくる。扉が開く。まずは降りる輩が先なのはそれがルールだからではない。
先に降ろした方が効率がいいだけの話である。この乗客が降りている間、我々は虎視眈々と
どのスキに電車に乗り込み、座席を確保するかを打算的な眼差しを向けている。
ちょっとでも相手が油断をしようものならそこは徹底的に付けこむ。
結果、やはりポマード男は車中での数分間、合点のいかないポジションにいた。
手すりの持てない極めてやっかいな位置だ。所詮ポマードでしか存在感をアピールできぬ男
なのである。しかし臭いで存在感をアピールした点においては合格である。ほほほ。


この一連の姿勢も「せっかち」のジャンルに含まれる。
前回の記事にて「次期直木賞をもう予想する」などとせっかちぶりを語っておきながら、
また別のところでせっかちである。まあおせっかいよりおせっかちの方が迷惑は
かからないだろう。

今度はなにがせっかちなのだと読者は訝しがる。
2週間ほど前、平成19年度の大河ドラマが決定した知らせを聞いた。
以下はその記事である。

NHKドラマホームページ


「風林火山」である。
「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵し掠めること火の如く、
  動かざること山の如し」。
なんとか言えた。忘れるからメモっておこう。
つまりは武田信玄が生きた時代の物語をドラマ化するということだ。

その原作者は井上靖(故人)である。
芥川賞、野間文芸賞、読売文学賞、菊池寛賞、文化勲章など
まあ文学の世界において今後も歴史に名を残す人物である.....かどうかは数十年後の
未来の方々の力に託されるわけだが、とにもかくにもNHKの大河ドラマの原作者というと、
凡人には近寄り堅い面子のそろい組みというわけだ。

タッキー主演の現ドラマ「義経」の原作者は宮尾登美子さん。
昨年度の新撰組は脚本家の三谷幸喜さん 。こちらはいささかとっつきやすそうだが
やはりすごい人物だろう。
来年度は「功名が辻」。こちらは司馬遼太郎(故人)の原作である。
2003年の「武蔵-MUSASHI-」は吉川英治(故人)の原作。
「利家とまつ」は脚本家の竹山洋氏。著名な作品を手がけている。

よって、NHK大河ドラマの原作や脚本に携わるということは、彼らの世界ではある種の
「名誉」にも値する。


さて、「風林火山」である。2年も先の放送の出所を今読むというこの
せっかちぶり。
主人公は武田信玄ではなく、軍師で武田家家臣の山本勘助である。
ところがこの人物、詳細がはっきりせず、ある書状に主人公の名があったというだけの記録しかない
そうだ。実在しない人物なのでは?とも言われている。ここが物語をどのようにでもできる、
よい意味で読み手を、視聴者を人工的に魅了できる部分である。

まあ時代モノを書くにあたっては、司馬遼太郎曰く、「史実3割、フィクション7割」だ。
井上靖による山本勘助像は、

城取り合戦は拙者に任せぃ、ただし女はちと勘弁してくれぃ

である。
山本勘助は生涯妻子を持たないというのが本書の設定だ。女は勘弁なのだ。
ところが興味深いことは、身分がはるかに上である信玄の側室になぜか恋心を抱き、
その子勝頼を大事に思うというさかさま現象である。当時は男社会だ。女は黙って
俺について来いなのだ。
よって、身分の関係が勘助の会話を妙にする。なんだかそこがツボなのだ。
まあ、恋とはいっても側室は武田信玄の側室だ。要は勘助の一方通行というわけだ。

今ひとつ興味深いことがある。それは本書においては敵の存在が鮮明に現れないのだ。
上杉謙信、村上義清、信玄の父信虎(彼は信玄により甲斐から追放される)など、
敵対関係や反感を持つ武将とのやりとりはいっさいなく、すべて武田家の中で
時代は進むのだ。

しかし、山本勘助の先見の明がある才能ぶりは本書においていかんなく発揮されている。
名立たる武田家家臣の前で平気で異なる意見を言う。そしてそれが見事に的を得ている
のは読んでいて気持ちがいい。
逆を言うなら他の武将はなんなのかということだ。
武田信玄の生涯の前半期において、いかに山本勘助の頭脳が役に立ったかという箇所が
随所に目することができる。それが史実かフィクションかは別にしてもである。


それにしてもこれを大河ドラマとして映像化した場合、敵武将の存在、それにともなう戦は
視聴者の一番のお気に入りだ。この世界がごっそり抜けた井上靖版「風林火山」を
作り手がどう料理するのか。
あるいはそのままどんとぶつけるのか、敵将を作り上げるのか、
原作本と映像の照らし合わせの魅力の大部分はここだ。

さらには懸念もある。まだドラマの出演者が決まっていない。

唐沢寿明&松嶋奈々子
市川新之助&米倉涼子
香取慎吾
タッキー
仲間由紀江&上川隆也

という過去の主演・助演の顔ぶれだ。
山本勘助は原作と照らしあわせるに、50代~60代が活躍の全盛となっている。
誰だ、誰を使うのだ、視聴率をとれる50代~60代は誰なんだ、
それとも若手に年寄りの役をやらせるのか......ううむ。


誰にも尋ねられてもいないのに、勝手に配役の心配までしてしまう、
やっぱり「おせっかち」ではなく「おせっかい」なtakam16。
これを迷惑とさっき言ったはずだった。無念じゃ。
井上 靖
風林火山
  
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うーむ、こいつはやっかいなことになってしまったぞ。


男女を問わずに次々と友人が餌食になってきた事件がある。
しかし注意すればそれは済むことじゃないかと友人には失笑ぎみに
諭したばかりだったのだが.....

ま、まさかこのtakam16までが彼らの仲間入りをすることになる
とはなんとも遺憾である。



京都には桂川という川がある。それは下流へ行くと鴨川と合流し、山崎
付近で宇治川さらに木津川と合流、そのまま淀川という大河川となって
大阪湾へと伸びる。
一方、上流へ進めば桂川は流れがより急流な保津川となり、そこでは
亀岡から嵐山までの保津川下りを楽しむことができる。料金は決して安価
とは言えないが、関西人にとってはお気に入りの名物のひとつである。

そんな桂川に沿うようにして名神高速道路が走っている。そして、川の名称を
そのまま使った桂川パーキングエリアの和式トイレにおいて不覚にも
携帯電話をぽちゃりと落としてしまったのだ。

タイトルも便座に腰かけなどと生易しいものじゃあない。
胸ポケットという一見便利そうに感じるこのシロモノ。
こいつが毒気づきやがった。上体の角度を変えたらこのざまだ。
携帯電話を入れるには全く不適格である。

だから、

うーむ、こいつはやっかいなことになってしまったぞ。

というわけだ。

で、いろいろ思案するわけだ。
ぼちゃっとやってしまった携帯電話の回収方法はいかにすべきかという
ことをである。
水まみれになった携帯電話の安否ももちろん懸念材料だが、なにより回収
しなければ次に進まない。
そこで思案するのであるが、こんな修羅場(?)だからこそいろいろと浮かんで
くることがあるのだ。

この便器に手をつっこむということへの戸惑いと戦慄。
いったい、この便器に過去にどんな輩が用を済ましてきたのか.....
「公共」という言葉はとっくに市民権を得たよい響きの言葉だが、この緊急時
には決して声に出して読みたくない日本語である。

このように過去に人が使ったものを利用することについて思案した時に、
すぐに頭をよぎるのは「図書館」である。

現在・過去・未来に際限まで借り、しかも時には延滞までしてしまう「公共物」。
あの書籍達がどんな輩に読み継がれて現在自分の手元にあるのかと考える。

例えばだ。現在図書館で借りた本の中に

奥田 英朗
邪魔〈上〉
奥田 英朗
邪魔〈下〉
という書籍がある。痛快な書きっぷりでお馴染み、奥田英朗氏の作品である。 まだ読前の段階で痛快か否かはわからないが、文芸誌の連載モノなどを拝読するに、 ついつい笑いが止まらなくなる内容が多いから、「痛快」を期待しているの だが、 じゃあ、この前に借りた者というのはいったいどんな奴なのかというわけだ。 例えばページをペラペラめくろう。 100ページ目のソースのシミはなぜできた!? 129ページ目のアンダーラインはなんだ!? 190ページ目の間違いを指摘する赤ペンチェックはどういうことだ!? 310ページ目のこのちぢれ毛は誰のでどこのだ!! と、読書に集中できない自分が時々ある。 トンカツでも食いながら読書をしていたらソースをこぼしたのか? トイレや風呂で本を持ち込みやがったか!? はさみによる切り抜きはなにか利益になるものでも発見したのか? このページの血はどこの血だ? とツッコむ。 雑誌の類にもある。 図書館の大衆雑誌というものにはクロスワードパズルがつきものだ。 ちょっくら最新雑誌を拝読すれば、ご丁寧にもクロスワードパズルが完成している というのはいったいなんだ。 ダ・ヴィンチの表紙のきれいなお姉さんに黒マジックでヒゲやメガネを書くのは誰だ。 切手サイズのプレゼント応募券の切り取りは毎度恒例である。 なるほど、図書館で本を借りるのはちょっとおっしゃる方の意味が、こういう時 こそ理解できる。 と、トイレの利用者から図書館へ話が及ぶのは図書館にとっては迷惑この上ないの だろうが、じゃあ我が図書館の小便器の間隔が狭すぎるのはいったいどんな意図が あるのだとますますもって疑問がわいてくる。 それよりもなによりも、携帯電話だ。正直、ワシづかみしか方法はないのか..... 備え付けの紙を幾重にもあわせてツカめればその場はしのぐことができるだろうか。 しかし中途半端な体制ツカもうとして手が滑って再度ぽちゃり。その水しぶきが自分 にとんでこようものなら一大事だ。 もしもだ。もしも無事回収に成功したとしよう。するとこの拾い上げた携帯電話を そのまま維持することは強烈な苦痛を伴うだろう。じゃあ洗面台で携帯電話を ゴシゴシこするのか。 そして、この「公共」の場で電話を洗うなどという常軌を逸した行為を他人が 「やりやがったな。」 と内心でほくそえむのは当然だ。それ以外に電話を石鹸つきで水洗いする理由がない。 それよりもなによりも洗う行為自体が電話の命を絶つことにもなる。 だから困っているのである。 汚いついでに多少は掃除で綺麗になったといわれているヘドロが持ち味の 大阪ミナミの道頓堀の話でもしよう。 さて、野球事でとんちんかんちん一休さんな方もおられるのだが、 「我が」阪神タイガースがまもなく本年度のセリーグの優勝を決める日がやってきた。 このお祭りごとに漏れなく付いてまわるのが、名物 道頓堀のダイブ である。 現在、この道頓堀ダイブをやめさせるべく、近所の住民や大阪市が傾向と対策を練っている らしい。危険だし、かつては死人も出ている。 マスコミも正義づらをしてダイブ警報をニュースで発令している。 しかしである。このダイブを避けることはほぼ不可能である。鉄線を張り巡らせたり、 警備員を雇ったとしてもダイブする連中は必ず出る。名物化しているのだ。 法律の抜け穴以上に容易なことである。これを止めるためには 誰かと誰かが手や足を出しあうことになるだろう。 自分はダイブを肯定するわけでも否定するわけでもない。 ただし、ダイブをするとその人にとっては致命的な数日間を送ることをまずは 考えた方がよい。 あのヘドロに覆われたどぶ川の悪臭は異常なものだ。 かつてあるバライティ番組で道頓堀ダイブ経験者を募ったところ、20名ほどが 集まった。 彼らの話によると、飛び込んでからの周囲の扱いは最悪らしい。 まず、彼らの悪臭が通行人を近寄らせない。 次に、その悪臭をとらずに電車・バスに乗ることは許されないらしい。 では高くてもタクシーと思いきや、ずぶ濡れと悪臭漂う客を運転手が乗せる わけがない。 銭湯もお断りだそうだ。 よって、どこかの飲食店でホースを借りてヘドロと臭いをとるしかないのだが、 これも至難だそうだ。 ちなみに体に染み着いた悪臭は一風呂浴びて消えるものではないらしい。 次の日以降の生活を破壊するというわけだ。 これらのことより、道頓堀ダイブは思い出だろうがなんだろうが実行者にとって なんの利益もない。だから、やめておけ。臭いだけだ。 しかしながらそれとは別に我が阪神タイガースの優勝は非常に喜ばしいことである。 よって、名物「六甲颪(おろし)」を歌うことでこの記事を締めさせてもらうと 同時に、携帯電話における屈辱をこの歌でしのぎたいと思う。 六 甲 颪 六 甲 颪 に 颯 爽 と ~♪ 蒼 天 翔 け る 日 輪 の ~♪ 青 春 の 覇 気 美 し く ~♪ 輝 く 我 が 名 ぞ 阪 神 タ イ ガ ー ス ~♪ オ ウ、オ ウ、オ ウ オ ウ 阪 神 タ イ ガ ー ス ~♪ フ レ、フ レ フ レ フ レ ~♪ * その後、携帯電話の看病の日が続く....... ★☆★☆★☆★☆★☆★☆ 話題 情報 予定 ★☆★☆★☆★☆★☆★☆ 10月より日テレ系土曜夜9時にて白岩玄さん原作の 「野ブタ。をプロデュース」 がドラマ化されます。 主演...山下智久、亀梨和也 ------------------------------------------- 10月からの新ドラマフジ系列火曜夜9時「1リットルの涙」の原作はこちら ------------------------------------------- 10月8日公開映画「空中庭園」 (主演...小泉今日子)の原作本はこちら ------------------------------------------- 10月29日公開映画「春の雪」(主演...妻夫木聡 竹内結子)の原作本はこちら
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です。バーチャルですが......


  愛しています。


などの殺し文句を冒頭に色を付けて表示させようものなら、
読者様はたまったものではない。
1週間以上更新をサボり、戻るや否や、「愛」だの「恋」だの
言い出す先には、大幅な読者登録解除を余儀なくされることだろう。


しかしながら愛しているのである。

なんだ、ジャンル変更か、ではさらば。



待てぃ! 待たれぃ! 控え! 控えぃ!!


と180度方向転換し、今度は命令口調ときた。
これじゃあ読者様はたまったものじゃあない。

最後まで話を聞け!

とこれまた偉そうだ。
いったい何だって言うんだい、と読者様は半ば呆れ顔でマウスを下方向に
転がす。最近マウスの転がり具合が今イチなんだよなぁなどと首を傾げて
いるのだろうか。






関西人はせっかちをこよなく愛しています。


なんだ、そんなことなら、ジャンルを「関西」にでもしろ!
と読者様がすっかりご機嫌斜めであることを十分承知している管理人こと
takam16はそれから次のようなことを言うのである。



関西人はそらせっかちや。歩くスピード競わせたら右に出るもんはおらへんけど、
間違って左に出る奴もたまにおるわ。それが関西人や。
でもな、俺個人的に気になってることがあるねん。これぞせっかちの極み言われる
かもしれへんけど、そんなん関係あらへん。
もうな、今から次期直木賞受賞作品が気になってしゃーないねん。
だから今のうちから受賞候補作をピックアップしとくねん。



とちょっぴりきつめの関西弁で最初にスパイスを効かせてておいて、これから
冷静に事の経緯を語ろうと思う。


関西人である管理人ことtakam16は、確かにせっかちである。
かつては余りにも小便が漏れそうだった時に、公共の場にもかかわらず、ズボンのチャック
を早めに下ろし過ぎて下着を他人に見られて恥ずかしい思いをしたこともある。
それはせっかちの罪の部分ではあるのだが、このせっかちぶりを
次期直木賞候補作予想に使えないだろうかと少し
思案したわけだ。ちなみにこれは決して
「便座に腰かけ懐手をしながらいろいろ思案した」
わけではない。(注:「便座に腰かけ懐手をしながらいろいろ思案する」という記事がある)
アップルコンピュータのiTunesのクラシックラジオを聴きながら思いついたこと
である。

よくよく考えると、我々は候補作が数点発表されてからしか直木賞のことは語りもしないし、
語ったところで、あれがなってほしい、これがなってほしいなどと頭も体も使わず同じこと
ばかりほざいている。そして選考委員の言いなりに従ったのちに、直木賞作品を読む。
そして感想やれ書評やれをずんずらずんずら書き綴る。
そのような御上の与えられたモノにペコペコ頭を下げながら読み終えてから

「さすが直木賞!!」

などという建前ブログはもうゴメンである。本屋だって図書館だって「直木賞」の言葉をまるで
神様仏様でもあるかのように、なければ生きていけないかのように大量入荷する。
ところが予測が甘いがためにすべてが後追い作業となる。

一方で、直木賞は大衆文学であり、エンタメである。そこには娯楽が仕組まれていなければなら
ない。直木賞受賞作の結果に一喜一憂するのは別段悪いことではない。
しかしそれでは楽しみは1つしかない。受賞が決まった時、つまり直木賞の一連の流れを
「点」でしか楽しむことのみである。
どうせなら、「点」で楽しむより、「線」で楽しんだ方が、10倍面白いではないか。
takam16はそう思うのである。


しかしである。ここがシロウトの限界なのであるが、プロと違い、シロウトはすべての本の下読みを
する時間と能力に限りがある。また、候補作に選ばれる前に本を読んでいい気分にさせられると、
ついついその本に一票を投じたくなる。いわゆる感情移入だ。
すると本を読まずに予想しくさるなど荒唐無稽であり、傍若無人な管理人だとののしられるのが
目に見えている。
ところが運のいいことは、この直木賞に関しては認知度が高いがゆえに過去のデータがしっかりと
あらゆるところに蓄積されており、
今ではHPで誰でも閲覧でき、大きな図書館が近くにあればいくらでも情報収集は可能だ。

そこで、それらの過去のデータという客観性を存分に生かしながら、論理的に候補作を予想するという
方法が最もシロウトのできそうなことのひとつである。


従ってブログタイトル

「読んでもいないのに次期直木賞受賞作を推理する」

が1つ完成である。とりあえず美味しいビールを飲もう。ゴクリ。


ちなみに次期直木賞は2006年1月中旬に決まる。
直木賞候補作にどうやったらなれるかというとこれは「文学賞メッタ斬り!」
の18~19ページが参考になる。

①関係者350人によるアンケート調査 ↓ ②文藝春秋社の社員数十名が下読み&議論し、評価し、候補作決定 ↓ ③海千山千の選考委員による2時間の議論・話し合いで受賞作決定 文藝春秋社とあるのは、直木賞の主催者だからである。正式には 日本文学振興会。 候補対象作は、6月から11月までに刊行、雑誌にて発表された作品で、 短篇・長篇は問わない。 ちなみに前回の受賞作は、朱川湊人さんの「花まんま」(文藝春秋刊)であった。
あいかわらず話が長くなったので、本日はこれにて御免。 なお、このコーナーの発信は不定期ですのであしからず。 ★☆★☆★☆★☆★☆★☆ 話題 情報 予定 ★☆★☆★☆★☆★☆★☆ 第42回文藝賞は以下の2作品決定いたしました。 「窓の灯」 青山七恵さん 「「平成マシンガンズ」 三並夏さん  →文藝賞受賞作品は芥川賞候補作に選ばれる道のひとつです。 -------------------------------------------- 婦人公論文芸賞は桐野夏生さんの「魂萌え !」 に決定しております。 -------------------------------------------- 9月17日公開映画「深紅」の原作本はこちら -------------------------------------------- 10月8日公開映画「空中庭園」 (主演...小泉今日子)の原作本はこちら --------------------------------------------
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takam16の本の棚
です。バーチャルですが......


  うん、村田だ!


さて地理の話である。

別にすべてを知る必要などないのだが、例えば

香川県の県庁所在地はどこか?
宮城県の県庁所在地はどこか?
石川県の県庁所在地はどこか?

答えは順に、高松、仙台、金沢である。
知らなければ生きていけないことはないが、知って損を
することもない話である。

では海外に目を向けよう。
アメリカの首都はどこか?
オーストラリアの首都はどこか?
ブラジルの首都はどこか?

間違えやすい部類の問題である。
順にニューヨーク、シドニー、リオデジャネイロと答えるだろうか?
または、ロサンゼルス、メルボルン、サンパウロとも答えるだろうか?

正しくは、
ワシントン、キャンベラ、ブラジリアである。

ではこれも難題だ。トルコの首都は次のどれか?
1、カッパドキア
2、イスタンブール
3、アンカラ

もしも選挙のように多数決で答えが決まるのであれば、
正解はイスタンブールである。
しかし、多数派には申し訳ないのだが、アンカラがトルコの首都である。

イスタンブールが多数決で選ばれるにはそれ相応の理由があろう。 
日本からトルコへ出発する直行便はすべてイスタンブール行きだ。
歴史的にも申し分のない重みがある。
人口は800万人を超え、ボスポラス海峡とその橋を境に西側はヨーロッパの街並み、
東側はアジアの香りを漂わせるのは、古くからヨーロッパとアジアの架け橋的存在
として交易の接点として繁栄したことに関係する。
ローマ帝国、ビサンチン、セルジュク=トルコ、オスマン=トルコ、その後
西洋の影響を受けながら今のトルコ共和国が樹立する1923年まではずっと
都として絶大なる存在感を示してきたのだ。傍目には日本でいう京都のような位置づけ
にも見えるが、その歴史は大きく異なる。

その最大の違いの1つは、人種・民族が入り混じっていることだ。正確には
「入り混じっていた」と過去形に直した方がよいかもしれない。
すると、その人種、民族、文化、宗教が交差した時代背景を描く作家がいてもよさ
そうなものだ。数週間前、図書館で「ナの作家」の棚をひたすら探す自分がいた。

梨木さんだ。梨木香歩さんだ。
本来なら2ケタの作品が棚に並んでいておかしくない。ところがその箇所だけ
棚がスカスカしている。本屋なら「うへぇ。」と嬉しい嘆きも開いた棚を埋めなきゃ
お偉方にお叱りを受ける。とにもかくにも人気の高さが伺える。

その中で、残されたただ1冊の書。それが

「村田エフェンディ滞土録」。

舞台は100年以上前の1899年まで遡る。
主人公は私こと「村田」だが、これは架空の人物である。「村田」にした理由は
トルコの佐藤、鈴木版のような存在、MURATの苗字を使ったらしい。
ここでなぜ日本人がイスタンブールにということだが、トルコから日本にやってきた
公的な船が和歌山県沖で遭難した時にその船の乗組員を日本人が助けたことにトルコ
の皇帝が感銘を受け、それがきっかけで始まった文化交流として「村田」が
イスタンブールに在住することになる。ちなみに仕事は考古学者としての発掘作業だ。
彼の住まいはいわゆる共同生活であり、

貴族の出であるディクソン夫人(イギリス人、キリスト教)...彼女が家を任されている
私こと村田(日本人)
オットー(ドイツ人、キリスト教)
ディミトリス(ギリシャ人、ギリシャ正教)
ムハンマド(トルコ人、イスラム教)

と生まれも育ちも思想も違う彼らが家であるいは外で東西交流の十字路イスタンブール同様、
東西交流をしながら精神の十字路を構築していく物語であり、私こと村田の言葉を
借りれば、

私のスタンブール
 私の青春の日々
  これは私の芯なる物語

なのである。
異国の地でこれまた異国の者同士で交わされる文化や習慣の違い、それを認め合う姿勢や
理解しあえない内面。
読み進めるうちにそれはどこかジクソーパズルのピースを試行錯誤しながら埋めていく
ような心地にさせる。イライラもあるが、同時に快感も味わえる。

ところが、この物語のクライマックスは涙も誘う結果となる。
これは1899年の当時のオスマン=トルコの都イスタンブールの話である。
あと数十年すれば、第一次世界大戦という惨劇が待ち構えているのだ。
そんな歴史の悲劇をもちろん露とも知らず、彼らはこうした文化交流を通じて理解しあう
のである。
百科事典や歴史書で第一次世界大戦がどの国とどの国との戦争だったかを調べてもらいたい。
それは直接的にも間接的にもである。
それから先述の5名の祖国を今一度見てもらいたい。
わかっていただけるであろうか。


著者の梨木香歩さんは、「小説すばる2004年7月号」にて、本書について
簡潔に語っている。

「執筆当時から今に続く世界情勢の急激な変化で、それに焦点を合わせたものを
書きたい、という切迫した欲求が次第に強くなってきて、それは、ただ異なった
宗教、世界観を持った人々が送る日常を、淡々と描写していくだけ、という当初
の方向性とは、全く逆のものでした。別々の舞台で、とも思いましたが、その
両方が、あの「スタンブール」の地と、同じ登場人物を必要としていました。
けれど二つの方向性を共存させてゆく、というのは到底不可能に思えました。
すでに愛着の沸いていた登場人物たちが、苦しい運命を辿るのを描写するのは
とてもつらいことでしたし。
最終的に、そのどちらも捨てずに一つの小説として成立させる、と思い切るのですが、
結果的には、この間に起こったこと全てが、この作品には必要だったのだと、やはり
何か私を超えた力が働いてくれたのだとしか思えません」
(485ページ)

著者は当時、小説の連載は不可能と考えていたが、自分との葛藤、そして編集者の
アドバイス等もあり、連作短編 → 長編 へと向かう形での連載となった。
ちなみに「本の旅人」が初出である。
よって、1話ごとで完結したストーリーでありかつ、つながりもある。


さてこの物語、ほかにもポイントが2つある。
・別に登場する鸚鵡(オウム)の存在
・前作「家守綺譚」
機会があればチェックしていただきたい。
梨木 香歩
家守綺譚
本の世界というものは、手当たり次第読んでいくと全く異なったジャンルから ある接点が生まれることがよくある。 ブログの世界でも趣味も思想も違うはずのものが何かのはずみでつながること がある。 イスタンブールはその地のみならず、あらゆる場に存在するのではないか、 そう思わせる梨木作品でありました。
梨木 香歩
村田エフェンディ滞土録
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